玖波 大歳神社

神社の豆知識

災いについてふと思う 

2012-10-28 19:04:34 | 悩み

 災いについて、まず、自然のもたらす現象として、「かしこきものへのつつしみやもてなし」が非礼・不敬なく喜んで貰えたときに豊かな恵を受ける事が出来ることに対して、心ならずも(感覚が麻痺し非礼・不敬をそれと感じない場合も含める)怒りや悲しみを与えた場合に降り掛かる災いと、人が触れてはならないものに触れた場合(良い事だと思えても端から見るとそう思えるものも含む)に起こる災いが有ると思います。
 前者には、『備後の国風土記』の裕福な巨旦将来が武塔の神に宿も貸さず、もてなしもしなかったが、貧しい蘇民将来は、快く泊め、親切にもてなし、その後再び訪れた武塔の神は、八柱の神を連れてきて、蘇民将来に『茅の草を輪にしてお前の娘の腰に付けさせよ。』と申し、その夜、その娘以外の子供らは、疫病で悉に殺されてしまった逸話等が良い例だと思います。
 後者には、多くの糧を得ようと入ってはいけない三輪山に入ったために蛇神の祟りで疫病等々災いがあった事や、蘇我稲目が、物部大連尾輿・中臣連鎌子の意見を聞かず、欽明天皇から「願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう。」と言われ、喜んで小墾田の家に安置し、向原の家を清めて寺としたが、この後国に疫病が流行ったことなども例として挙げることが出来る。
 大津波が襲ってきた事は、戦後経済的に豊かになってきた中で驕り、知らず知らずのうちに「かしこきもの」への非礼・不敬な事を行ってはいなかったかを反省する事から自分たちの生き方の検証をし正していく事から考えなければならないと思う。
 福島第一原発の事故は、大津波の可能性を無視した事、老朽化した時どのようにすれば完全廃炉することが出来るのかも結論が出ないままに、町おこし・雇用・経済財政等の糧を餌に各地に原発を造っていき、原発に頼らざるを得ない状況にしてしまった事が、触れてはならないというか、まだ触れるには早すぎたことによるものと考えなければならないと思う。
 この様な、反省を行った後で、生き方そのものを見定めた上で、「ムスビ」という生成発展の霊力としての神(自身を起源とする生命の連続が今日に及んでおり、その時代時代に存在するものにとって、血と心の繋がる祖神であり、祖霊崇拝の根拠であり、現生活の中で生成発展していくことを前向きにしてくれる確信を与える存在であり、恵みを与えてもらえる根元。)の加護により未来に向かうべきだと思います。

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