玖波 大歳神社

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二 古代社会の変化 一 古代前期における変化

2012-01-24 20:06:05 | 日記・エッセイ・コラム

二 古代社会の変化
 一 古代前期における変化
 日本の社会は、縄文時代後期頃からの水稲農業を背景に、ムラという共同体による生活を連綿と続けてきている。神道自体(仏教伝来までは神道という呼び名や意識は無かったと思うが)も狩猟時代から農業共同体社会に移行する過程の中で原始宗教から大きく変化している。第一に、くに「郷土」に定着しなければならなくなったこと、そのために近隣との境界をめぐるトラブルから境域を維持しなければならなくなったこと、第二に、狩猟時代と比較して多くの所属人員を抱えることになりながら、一体感を保ち共同社会を維持しなければならなくなったことによって、アニミズムとその時々の獲物を得ることを祈り、それが出来たときの感謝をすることが根本であった原始宗教が、その後の共同体社会では、原始宗教の上に共同体を維持していくための機能が加味されていったのである。近隣他地域との係わり合いの中で、共同体意識の再生産を行う必要に迫られたために、そのシステムとして「共同体だけのカミを戴くこと」を発想したのであろう。
 多数の共同体の中に、地理的条件、その年々の豊作不作、大陸からの新技術の導入などによって格差が生じ吸収拡大が行われ、各地に国を造っていく中で、各共同体の中で確立されてきた神が、国という単位で一つの神に集約されていくことが一つの方向性としてあるのだが、日本の場合は、各共同体の神を認め、神の系譜を設けて各共同体が一つの系統に遡れることにすることを進めていったのである。
 ただ、その国造りの中で神々の結び付きを正統化する意味からも、神々の権威を維持するためにも必要とされた形態が、三国志の魏書の東夷伝の倭人の条を信じるならば、邪馬台国の卑弥呼のようにシャーマニズム的なものであったのであろう。天神地祇と言っていいのか霊と言っていいのか分からないが、それらと交流ができて他の者とは全く違った神秘的な力を持った存在が必要とされたのだと思う。
 古墳時代になると、支配するものと支配されるものの身分がはっきりし、支配者は権力を誇示することを求め、被支配者は古墳の造営等にかかわることを余儀なくされ、常に技術・慣習・伝統に触れて、おそらく思考は保守的であったものと思われる。
 神の有りようについては、アニミズム的な祈り、収穫への祈り、豊作豊猟への感謝が本流にあった(神と共に生き、あらゆることを太占に占へて神意に叶うかどうか伺うことを基本としていた。)ことは言わずもがなであるが、被支配者を統率するための道具という側面が表出してきたと考えて当然であろう。その一つとして、支配する者は自分の正統性を立証するために、自らを神の正統な流れを汲む者であることを広く告知する(知ろ食めす)ことも行っていたであろう。それは記紀を用いた様々な教訓・儀式であり、それに価値を持たす為の祖先崇拝(当然昔から行われていたであろうが更に権威付けをしたのである)を大きな柱にしていったと思われる。
 それ以後仏教伝来までの神はその延長線上に在り、その存在意義は一方で、大共同体を①一体化すること(生活にとって・支配者にとって必要であったこと)、その反面で②閉鎖性、③生命力・生産性の甦り(祈年と感謝)が基本にあったであろう。また他方でシャーマン・占者の言葉・占いを大切にしていたこと(蘇我大臣馬子宿禰が病気になったとき、卜者に占わせ、敏達天皇はその言葉に従い、稲目が崇めていた仏を祀らせたことなど、「日本書紀」に幾度も出ている。)であろう。


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