周りで起こることを、
理不尽だの、ラッキーだの、
誰が良いの悪いの言わずに、
いったん「必然」だと受け止める。
ただ、それだけで、
その出来事には何か意味があるんじゃないか、
そこから何か学ぶべきことがあるんじゃないか、
…そんな風に、考え始めることができる。
出来事の受け止め方が
喜怒哀楽の領域に留まっている時は、
外の出来ごとに反応して、ヤラレている状態。
出来事の意味を理解しようとすると、
自分の中から、外の出来事に向かっていく状態。
外で何が起ころうが、揺らがない、
というメンタルになろうとは思わない。
外で起こったことに揺らいで倒れた後に、
「あ、倒れてる」と自分を観察して考えることで、
少しだけ自由になっていけるね、って話。
ザ、自由の哲学。
自分の上に起こることは、
自分のせいだけじゃなくて、
運だったりする事もあるかもしれないけど、
それが何であっても
それを「変化を促す何か」にできたら強い。
エゴを越えて意識的に変化する時、
それは必ず進化だと思うわ。
ここずっと童謡詩を鑑賞していますが、直近で読んだ
金子みすゞ「蓮と鶏」を読んで感じたことと似たような感覚を今日の記事で受けました。
これも「必然」だったのかもですね。