『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学_初版の序_1~2

2011年02月01日 | 『自由の哲学』
2011年2月23日に受けた講義のメモから、自分で再度読み直したものです。
せっかくおもしろかったのに、何かに気付きそうなのに、
そのまま忘れてしまうのはもったいないので、アップしておきます。


25年前に「自由の哲学」を書いた時の初版の序を再掲する。
25年前と気持ちも考え方も変わらないという証明のために。

私たちの時代が、真ん中のこと、本当のことを知りたいと思うのは、
(単純な好奇心からではなく、もっと)深いところから、根源的なところからの欲求だ。

「まこと」を求めて外に生きる人と内に生きる人
それぞれに「まこと」を見出すだろう。

シラーの詩に(←関係ないけど、ベートーベンの「第九」の詩はこの人)
 外のものをよく観察すれば、外で創造主に会えるだろう。
 心が健やかなら、内に世界を映し出せるだろう。
というのがある。
今は外側の快適さは十分満たされて、
今度は内側を重視する時代だろう。

今の時代の人の特徴として、
外からくるまこと(=お上の言ったことや誰かに聞いた“正しい”こと)は、
まるごと信じることができない。
誰かから「信じなさい」と言われたって、「はぁ、なんで?」って怪しむだけだ。
信じたいのは、それぞれの人の中で「あ!」と生まれたこと、
自分で考えてみて納得できたことだ。
それこそがまことであり、信じられることだ。

※とはいえ、私は押しつけられるのはイヤだけど、
自分が信頼してる人が「これはこーです」と言うと、
「へぇ~、そうなんだ」と、簡単に影響されてしまいますが。
まだ個として、自信を持って立ててないってことでしょうね。
ホントに立ってたら、そこで自分との感じ方の違いなんかを提示して、
対話が生まれて深まると思うんですけどね。

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1 コメント

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Unknown (オキツ)
2011-03-01 06:14:11
「わたしたちの時代がまことを汲もうと欲しうるは、
人なる者の深みからこそだ」

「わたしたちの時代に」じゃないのはどうして?
「時代」としての集団の意識?
「個人」じゃないのかな?

「まことを汲もうと欲しうるは」ってことは、
まことを欲しえない時代とか、まことを欲する必要のない時代があったってこと?
または、今の時代にも
まことを欲しうる状態と、欲し得ない状態があるってこと?
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