正しい事を言う人と話が噛み合わなくて困る時がある。
その人は外の答えをリピートするだけで、
その人自身の目的をまったく自覚してないのよ。
たとえば、
職場で書類や手順が煩雑で、
そこまでやる意味がわかんない!
なんてこと、よくありますよね?
そういう時に
「なんでこんなことしないといけないんだろう?」
という問いが起こります。
正しい人に、素朴に意味を質問すると、
「そんなこと考えても仕方ないだろう。
決まったことだからやれ。端折るなよ?」
とか言うんです。
質問=クレーム、みたいに受け取る。
そこに、その人自身は不在なのに。
たとえば、パスワードをいっぱい入れないと
仕事に必要なドキュメントが開かない時、
そのめんどーな手順に対する外の答えは
「セキュリティを確保するため」ですよね。
一方で、自分がそのめんどーな手順を踏む目的は、
「セキュリティを確保したいから」に限りません。
「上司に睨まれたくないから」かもしれないし、
「情報漏洩時に責任を回避するため」かもしれない。
手順をパスして仕事をしないこともできるけど、しないのは、
「家族のためにクビになるのを避けるため」とかもアリだな。
家族のためにパス入れてるのに
全然自覚できてなくて、
「決まった事だからやれ」
とか言うから、話が通じない。
自分で考えなければ、
どんなに状況が変化していっても、
意味のない決まりが、いつまでも残っていく。
考えることで、はじめて
自分のやってることがわかる。
たとえば、私が
「自由になりたい!」と言う時、
スケジュールを空けたい時もあるだろうし、
忙しい自分への承認欲求を求めてる時もある。
自由になっていく難しさの前で奮い立とうとしている時もあるだろうし、
窮屈な人間関係から抜け出したい時もあるだろう。
同じ行動でも、その都度違う自分の目的を意識すること。
それが、自分を一歩ずつ自由にしてくれる。
スケジュールがパツパツで
「自由になりたい」って言ってるんだったら、
空に向かって吠えているよりも、
スケジュールを空ける方法を考えた方が早いもの。
「誰か変わってください」って言いたいなら、
そう言えばいい。
「そんなに忙しいなんて有能だね」
っていう承認欲求を求めてるんだったら、
相手の評価に依存してても相手次第で不自由だから、
さっさと自分で自分を承認してあげればいいのよ。
「めっちゃ頑張ってるな~、エライな~、私」って。
許されるなら誰かに笑顔で
「ホメて~~」って甘えてもいい(^^)。
自分の行動の目的に、
自覚的になっていくことは、
自分を目的に近づけてくれる。
方法は、その都度選べるけど、
目的は、決まってる気がするな。
私の場合は、たぶん、
考えることで答えを知るんじゃなくて、
一人ひとりが考えることで自由になっていけること、
自由な人間が集まれば、平和になっていけること、
を、身体を使って身の回りから実践してみる、
…みたいなことなんじゃないかな。
一言ではまだ言えないけど、
たぶん、そういう方向性の何か。
自由とは、
身体由来のワガママな方じゃなくて、
自分の理想を社会に実現していける自由、というような、
真善美を具現化する方の、自由ね。
進まないけど、諦めない(^^)。
毎日、愉しみにしています。
私も同意です。
私は「創造的人間関係」を40数年来理想とし活動しています。