植物観察をしようと、
いろんな局面の葉っぱを描いていて気が付いた。
実際に葉っぱを見て描いているのに、
感想や受け取る印象が、いつも同じだ。
前にも同じようなことを感じたような…?
去年からいろんな植物を見ているのに、
どの植物を見ていても、
なんとも杓子定規な印象を受け取っている。
たとえば、若い芽は、瑞々しい赤ちゃん、
夏の葉っぱは、ぐんぐん伸びてせいいっぱい生きてる思春期~大人、
枯れた葉っぱは、大人後半の中年期でツヤが無くなり、
落ちた葉っぱは、老年期。
身体の機能が低下し、そのうち木から離れて、
菌や虫に分解され、大地に戻る、とかね。
硬い蕾は思春期入口で、
花が開いたらセクシーな大人、
実りは子孫、とかね。
ああ、単純な見方…。
何を見ても受け取るものが同じに感じるだなんて、
全然、見ていないのと同じだわ。
自分の中にすでにあるイメージを、
対象に押し付けて見ているだけ。
これが、見ていると言える?
絵を描いてみてコレだなんて、
いや~、
これなら目を閉じてても一緒でしょ。
あ、2か月ほど前に、
きゅうりに寄り添ってみた時には、
別の経験になってたな。
自分が、キュウリにちゃんと寄り添って、
「そうか!」ってキュウリが何かしゃべってくれた時。
観察する前には思ってない事が開かれる。
とか書くと、オカルトっぽいけど。
相手をちゃんとまっすぐ見るために
ゲーテの「対象的思考」について、
学びのテーマにしてくださった方がいらして、
私のこの見方がまさに、「非」対象的観察。
真っ当にモノが見えるようになるのは、
まだまだ遠いなぁ。
対象的な観察だと、
自分を黙らせて、相手に寄り添うところがスタート。
それが全然できてなくて、軽い「認知のゆがみ」状態。
何かを実際に自分の目の前に見ているのに、
相手を捻じ曲げて、
自分が受け取りたいように理解して受け取る。
「誤解だーーーーーっ!!」って叫ぶよ、私なら。
昨日の母だって、
お茶飲みながら話を聞いている時は、
「対象的観察」っぽい接し方
~自分を黙らせて、相手に寄り添うことで、
相手が語り出すのを聞く~をしていたつもり。
だけど、ショッピング中は、
母を見ないで自分を出しまくっていた。
「同じようなの持ってるじゃん」
「半額くらいで似たようなのあるでしょ?」
みたいに。言わないけど。
全然母を見ていない。
母を見ずに自分の思い込みで決めつけて、
さらに、傲慢なことに、
母の買い物を「トホホ」って思ってる。
人を見る時は特に、
この「対象的観察」で、
相手が何かを開示してくれるのを
フラットに受け取ることが必要だもんね。
たとえば、選挙を
「対象的観察」で誰を応援したいか、
向こうが語り出すのをキャッチしてみる、とか。
相手を、対象を、まっすぐに見るって、
本当にチャレンジャブルな課題だわ。
▼本日のフォルメン 72/100
端っこの点で方向転換する。
このたった一つのプロセスで、
何列でもぐるぐる編める…はず。
※「何コレ?おもしろそー」という方は、
コチラをどうぞ。
私にとっては、
心を整えるヨガであり、瞑想の時間です。
ありがとうございます。