『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

「霊」って要するに「私」のことなのね!

2020年07月09日 | 神智学(テオゾフィ)

左から鈴木一博さん訳、10年ほど前に読んでた時のノート、松浦賢さん訳、高橋巌さん訳の「神智学」

はーい、タイトル見て引いた方、妖しくないですよ~。
「神智学」読んでるので、
その中に出て来ることを考えてるんですよ~。

昨日、おとといで6文字しか進まなかったけど、
今日は3行目まで進んだわ(^^)。

  見霊能力を獲得するための第一歩は、
  このような(高次の世界の)思考像を把握することにあるのだ。
         (『神智学』 認識の小道  高橋巌 訳)

「見霊能力」って言われてもなぁ。
という印象が否めなかったこの言葉。

いくらシュタイナーとか、神智学とか勉強してる人も、
オーラやゆーれいが見えることを目的にして学ぶ人はいない。
と思う、たぶん。
そんなの、体質で最初から見える人には見える(らしい)し、
見えたところで、私にとっては「だから何??」という世界。

精神界とか、人類の進化、宇宙の法則とか、
一般ピープルの私は、そういうのを見たいって、あんまり思わない。
むしろ、見えたらコワイやろうなぁ~、見えなくて助かってる、
というのが、今の私の正直なところ。

あっちの世界を見たいんじゃなくて、
自分が精神的に成長していくために、
これを読みたいと思ったのよ。

今日、神戸シュタイナーハウスの大人の勉強会で、
「見霊」の「霊」、「霊学」の「霊」って何だ???
という話になった。

同じことが気になって、
あれこれ他の人がどう言ってるのかを調べてくださった方がいた。
その時に紹介してもらって、みんなが納得したのは、
「私が霊なのだ」という入間カイさんの言葉。

うわ~、うまい表現~!!

変化する私(=肉体)の中に、
不変の私(=霊)がいる、
その私を見るためのトレーニング。
それが「見霊能力を獲得する」こと。

うん、しっくりくる。

カラダやココロは
年月や出来事によって、どんどん変化するけど、
この人生に起こったあれこれの結果は、
普遍的な「私」に回収されて「私」を作る糧になる。

不変は普遍だものね。
赤ん坊の時にも「私」は「私」だったし、
死ぬ時も「私」は「私」。

誰かに見せてる私や、期待に応えてる私じゃなくて、
それらもまるごと含んだ、この私。
自分がまだ知らない部分も含んだ私。

最後に、この部分、
3人がどう訳されてるか並べてみます。

元の文が同じとは思えないほど違ってビックリ。
翻訳のご苦労が垣間見えます。
ありがとうございます。

高橋巌さん訳
  見霊能力を獲得するための第一歩は、
  このような(高次の世界の)思考像を把握することにあるのだ。

鈴木一博さん訳(言葉遣いが難しいけど、詳しい注釈が、深く理解するヒントになる)
  なんらかひとつの重なりにおいて、
  (ひとつの高い世の考えの相を)自らで観ることへの第一歩である。
   ※注釈 ひとつの重なりにおいて=ひとりなりの小さなわたしとの重なりにおいてです。
       ひとつの=かずかずをつつみこむ ひとつであり、ひとつのわたしです

松浦賢さん訳(普段使いの日本語に一番近いから読みやすい)
  (高次の世界の思考イメージを人間に伝えることは)
  ある意味において、人間が自分自身で直感するための第一歩です。  

『自由の哲学』を読む~日々の暮らしから - にほんブログ村



最新の画像もっと見る

コメントを投稿