テオゾフィ(神智学)の「認識の小道」を、
大人クラスで読むことにしたので、
久しぶりにマジメに読んでみる。
章のタイトルからして、すでに「おおお~」となる。
手元に高橋巌さん、鈴木一博さん、松浦賢さんという、
違う訳者の本が3冊あって、訳す人によって
「認識の細道」だったり「認識の小道」だったりするけど、
そこからして
「そっか~、私に至る道は大きく太い道じゃないのね」と。
ぼくの前に道はない、
ぼくの後ろに道はできる。
高村光太郎は高らかにそう歌ったけれど、
道にもいろいろある。
高速道路。国道。県道。市道。
私道。あぜ道。山道。獣道。
道なき道。果てしない道…。
自分に至る道は、細い小さい道で、
一人でしか歩けないの、きっと。
誰も連れて行ってくれない。
集団でも歩けない。
道路標識も整備されてない。
もちろん、ワープする方法もない。
空海の「同行二人」じゃないけど、
自分と、精神的な存在とだけで歩いて行く道。
焦らず、ズルせず、
そんな道を歩く人だけがいつかたどり着く場所なのでしょう。
今ドキ、流行らないなぁ~、そういうの。
学びたいことがあったら
師匠を探したり、本と格闘したりする前に、
無料動画を検索して寝そべって見て満足したりするもんなぁ。
いかに少ない労力で、いかに効率よく学ぶか。
その学び方が役立つ場面が多すぎて、
そして、学びの手段が多すぎて、
「自分で考えながら手探りで歩く」なんていうのが
いかにも下手なやり方に見えてしまう。
だけど、外の事を学ぶには効率的に吸収したらいいけど、
自分の中に秘められた事を明るみに出していくのは、
外からあれこれ入れても仕方ない。
たぶん、知識じゃなくて、構えの問題だから。
「私、見えるから、教えてあげます。
アナタの前世は〇〇で、〇〇するために生まれてきました」
みたいな人が言うことを信じるようなやり方で知ったって、
全然違うところに連れて行かれそうでコワイ。
自分で考え考え歩いているうちに、
20年かかってやっとぼんやり見えかかってきた、
という程度でも、
「この方が確かだ」と自分を信頼できるかどうか。
日本には、師範や免許皆伝になるのに
何十年もかかるような芸事の学び方があったけど、
今の学びは、時間の目盛りが短かすぎるんだよなぁ。
片方は、今年中に〇〇の資格を取らなきゃ、
っていう、仕事上の勉強の大変さ。
もう片方は、自分一人でしか歩けない、ゴールもない、
「私になっていく」という課題を進めていく大変さ。
どっちも大変だけど、どっちが大変かなぁ。
もちろん、どっちも大変、だね。
それに
「どっちかだけでいいのですか?」
という問いもあるな。
…とかいろいろ考えていると、
本が全然前に進まないよーー!
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