『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

パッヘルベルとドビュッシーと人の進化。音は人の中に直接届くなぁ。

2019年11月21日 | 手足を使う日々
ほぼ月イチで開いている「アートと人智学」の会。
今回は音楽を楽しみました。

呼吸をして身体を起こし、
母音の「響き」をシャワーをあびるように味わって、
魚になってアフリカの歌を歌いながら泳ぎました。
輪唱とかもしてみて、それぞれ大事、
一緒に生きてる感、を味わいます。

人智学的に聴覚について学んだ後、
本日の恥さらし覚悟の時間。

たまたま私がピアノで弾いていた
1600年ごろのパッヘルベルのカノンと
1850年ごろのドビュッシーのアラベスクが、
分別の時代の終わりと、意識の時代の始まり
という視点で聴いてみたら、
見事にその特徴が表れているな、と驚き、
カノンを一緒に合奏してみました。

寄せ来る波の音が瞑想的なレインツリー担当の人、
2人交代で、鉄琴でベース音を響かせてくれる人たち、
ピアノの人(私)。

カノンはテンポもずーっと同じだし、
ベース音は最初から最後まで同じ音の繰り返しだから、
3分ほど練習したら(私がいっぱい間違えた以外)
一緒に合奏できました。

スキルを磨いて訓練した人だけが音楽を楽しめる
ってのはおかしいと思うのです。
訓練した人の楽しみ方と、
今初めて聞いた人の楽しみ方が違うのは当然ですが、
それぞれのスキルに応じて一緒に楽しめたのは、
とても嬉しいです。

優劣なんてクソくらえ。
ビバ世界平和!
あ、失礼。

続いて、そこから300年ほど経った、
ドビュッシーの「アラベスク」。
意識感の時代にどっぷり入っています。

速さは自分の呼吸次第だし、
どこを盛り上がりたいかも自分次第。
不協和音のオンパレードだけど、
その瞬間が気持ち悪い音でも、全体でみると美しい。

カノンだったら間違った音はすぐわかります。
なんせ、どの瞬間をとってもにごった音はありません。
だけど、ドビュッシーは不協和音多すぎで、
そもそも調和した音だけがキレイだとも思っていない。

人間は善だけでできてないし、
正義や美だけで生きてるわけでもない。
悪もズルも怠惰も確実に自分の中にあって、
でもそれコミで自分全体でどう生きるかが問われている時代。

光も影もコミで生きて、
動き続ける中で美に回収されていく。

赤信号で止まることは当然で、正しい行為だけど、
赤信号を無視するのは悪い事だとわかっていても
仕事もギリギリだったし、保育園の閉まる時間に間に合うように、
間違った行為と知りつつ、あえてスキを見て渡る。

そういうことがあった場合、
信号無視の事実だけ見たら不協和音で間違った行為だけど、
全体のストーリーの動きを見たら、
不協和音もコミで、動きの中で調和していく。
濁りのある音が、共感できる美しさすら感じることもある。

それぞれのピンポイントが大切なんじゃなくて、
自分の人生全体として、一曲を通して、
不協和音をどう回収し、全体でどう動いていくかが大切。

そういう「意識的に自分で決めて動く時代」の
音楽なんだな〜。

音楽は、ただ自分が開いて受け入れているだけで、
直接自分の内面に届き、身体を動かします。
盆踊りでもクラブでも体育のフォークダンスでも、
音楽が鳴ると、勝手に身体が動き出した経験をお持ちでは?

「その点、美術は」と、美術に携わっている人が言います。
絵の前で踊りたくはならない。
でも自分から迎えにいくことで、相手は語りかけてくれます。

絵と音楽差も感じつつ、
たった2曲しか弾けない下手くそなピアノ曲をネタに
音楽と人間の進化について考え、楽しみました。


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