『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

理性、良心、責任を放棄しない

2020年02月15日 | 考える日々


おとといからの続きです(4日目)。
自分が穏やかなことや、
あまり感情に振り回されないことを、これまでいいことだと思ってきました。
だけど、違った。
私には熱さが不足していて、
身に付けたいのは、
自分を矢面に立ててみる真剣さだ、
ってことに気づきました。
いつから
そういう覚悟を放棄してたのかな?

そんなことを考えていたら、
NHKの100分de名著でハヴェルを取り上げていて、
「あ、今めっちゃタイムリーなメッセージだ!」と思ったのは、
次のようなこと。
  現代人は、寄る辺なく、疎外感を感じているので、  心のふるさとを欲しがっている。  その人に居場所が提供される条件として、  「理性」「良心」「責任」を放棄することが求められる。
ほおー。つまり、
理性の放棄=自分で考えなくていい
良心の放棄=自分の心に従ってはいけない
責任の放棄=自分で決めて行動しなくていい
というのが、
コミュニティに所属する条件なのだ、と。

こわいよ~~。
ていうか、
そうしてたし、そうしてるよ、今も。

なんとなくその場の流れに合わせて、
自分の考えを黙らせてる。

それって、一見物分かりがいい大人だけど、
実は、見事なまでに
理性と良心と責任の放棄だ。

逆に、自分で考えて、自分の心に素直に従って、
自分で決めて行動する時には、
そのコミュニティから追放されるリスクがある。
「決まったことだからイヤだけど仕方ないな」
「バカだと思われそうだから、
分からなくても黙っておこう」
って、勝手に想像して。

今は、給料もらってるわけじゃないから、
自分で決めて動けるんだけど、
むしろ、フリーの方が立場弱いんだよね。
選べるほどたくさんの仕事があるわけじゃないし。

でも、あえて言うけど、
心が喜ぶ仕事をしていかなきゃ、と思う。
自分のやりたいことと方向性が合う仕事を、
自分の心に素直に従って、喜びをもって、
自分の責任のもとに、やっていきたい。

それは、自分のエゴから言うんじゃなくて、
会社でも学校でも社会でもいいけど、
そういうコミュニティに所属するために、
「理性」「良心」「責任」を放棄するってのは、
戦時中、自主規制して嘘の報道をした新聞と同じ。

「みんなやってるし、断ったら仕事なくなるし」と
空気を読んで発言したり黙ったりする私たちは、
内容に関しては思考停止している状態。

同調圧力とか、忖度とか、空気を読むとか、
そんなことばっかり気にしてたら、
簡単に都合よく踊らされちゃう。

そういう窮屈な所から抜け出して、
もっと自由に、一人ひとり「自分はこうしたいです」ってことを、
それぞれの立場で表現できたらいいな。
だけど実際は、ちょっと脅されたらまんまと踊る程度の、
根性のない自分なわけで。

給料とか成績とか、物質的な安定とか、
そういうのと引き換えに、「理性」「良心」「責任」、
つまり自分の自由を差し出して、互いに監視しあって、
強い者に「右にならえ」ばっかりしているような窮屈さ。

番組で「そういう自主規制が全体主義につながる」
という文脈になった時、
司会の伊集院光さんが、勇気を示した。
「これ、めちゃ言いにくいけど、
オリンピックって要る? って思ってる」。

オリンピックを応援する方向以外のことは
言論統制というか、自主規制してる中で、
この人、ちゃんと自分の言葉で番組をやってるんだ!!
全国放送ですごい熱さだな!
みんながめでたく盛り上がってる対象を、
そんな風に言う勇気、ある?
今の私には到底できない。


全体主義とか、忖度とか、社会がどうとか、
考えの対象が大きすぎると、
自分にできることなんかない気がするけど、
どんな苦手分野でも、何かはあるはず。
社会の問題じゃなくて、
自分の問題にして考えないと変わらない。

…う~ん。
今の私の、自分が矢面に立つ勇気の限界が
「私、こう考えるから、今回はやめとく」
ってささやく程度だとしたら、
その程度までは、サボらないで表現していこう。

うん、そうしよう。
逃げ場を確保しながらじゃなくて、普段からまっすぐ熱を込めて伝える練習。
いつでもどこでもできる練習。

家族や友人に迷惑かけそうだね(^^;)。
許してくれー!


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