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『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

その薬は、何に効いてるの?

2019年12月05日 | 考える日々
友人が「今、精神科で薬もらってるの」と言いました。
学生時代から、急に怒り出したりして、
びっくりさせられることもありましたが、
余人に代えがたい、刺激的な人です。

どう刺激的かというと、
彼女は誠実で(または不器用で)嘘が言えないので、
ふだん自分がフタをしているようなことを意図せず出してくれるので、
否応なく深く考えることになります。

感情をいったん黙らせることなく、
「これに傷ついた」などという感情もコミで、
2人で人生のホントウに至ろうとする
ウルトラCを繰り出す会話が展開します。

人生のホントウに至りたい時、
私はエゴにはちょっと黙っておいてもらいますが、
その子は、甘えて安心しているのか、クセなのか、感情ダダモレ。
「エゴは、誰にでも絶対あるもんだ」ってことを無視せずに
人生のホントウを探していける、貴重な人です。

「大事なのは“ホントウはどうか”でしょ? 取り繕う意味がわからない」
「いや、取り繕ってるんじゃなくて、
意見が違うからってコーフンして大声になるのはマナー違反なので」
とか言う感じで、それなりに大変な時もありますが。

おかげで、ココロ開いて考える楽しみを学んだ。
「鎧を脱げ~!」ってよく迫られてたな。
いやいや、鎧は脱いでるけど、下着くらいはマナーの範疇でしょ。
常に密室デート状態を求められても。
いや、それもキライじゃないけど…(^^;)。

もともとそういう人だったし、今もそういう人で、
薬を飲んでても飲んでなくても、特に変わったこともない。
…その薬、何に効いてるんかな? 

自分が楽になってるんやったらいいけど、
周りとの関係のために薬飲んでるんやったら、
慣れてる人の前では飲まんでもいいんちゃう?
絶対副作用ありそうやし。ちょっと気になる。

そんなことを思っていたら、
別の友人も、そういう薬を飲んでいたって言うてたな。
たまたま会ったときに聞いてみたら、
「飲んでも何も変わらんかったから止めた」そうだ。

「よく止めれたね」と言うと、当時一緒にいた人が
「もし薬を止めて変な事をしても、私が責任を持ちます」
って言ってくれたらしい。
そういうのを聞いても思うけど、
半分はまわりの問題やんなぁ…。

たとえば、私の知らないお店の話でみんなが盛り上がってる時、
「話に入れない疎外感」を和らげるために薬飲みたいか、っつーと、
そうならないのは、それでも周りが受け入れてるからだと思う。

薬飲むよりも、その話に興味ありそうやったら
「何なに?」って聞いてもいいし、
興味あるけど、まあ、後でいいやって、場の空気を優先してもいいし、
興味ないから、自分がしたい別の話を始めてもいいねんなぁ。

誰か親切な人が気づいてくれたら、こっちから聞かなくても
「こないだ食べた店のカルパッチョがすごい厚切りでさ~」
とかって説明してくれるやろーし。
親切な人が少ないから生きにくさを感じるんやろうなぁ。

そっか、相手に「説明しよう」という負担をかけまいと、
自分で解決できる範囲は自分で解決しよう、ってことか?
なんか、いじらしいな…。
繊細な方が一方的に負担を背負うのもイヤ。

私だって誰だって、一癖やふた癖あるものですが、
そういうクセが周囲の人に困られてしまうのは、
周りも戦場みたいにギリギリだからかもしれません。

戦をやめて共存する方法を探す道がどこにあるのか。
みんな同じ海で一緒に泳いでいられたらいいのに。

一緒に生きてたいなぁ。誰でも地続きやもんなぁ。
感情が揺れ動いたり、能力に偏りがあったりすることを
障碍や病気というなら、人は誰でも障碍者であり、病気です。

程度問題もあるやろうけど、
AI搭載のロボットと会話してるわけじゃないから、
その感情の揺れや能力に偏りのある複数の人間が
正解に近づこうと相手の話を聞きあうことこそが
会話の醍醐味だと思うんだけどね。


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