『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学_4章_17~18a

2011年12月06日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学1_4_17~18a

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このように、いつでも私たちが
「見る」を修正するはめになるのはなぜか。

※見たものは、見たままじゃないのか?
見たものを信じられないなら、どこから始めたらいいのか?


18a
答えは簡単だ。
並木道を考えてみるといい。

並木道(道の街灯でもいいけど)に立つと、
木々は遠いものほど低く、間も狭く見える。
私の立ち位置を変えると、見え方(覚え)も変わる。
覚えのつくり(どういう風に見えるか)は、
覚えの客(並木そのもの)によってではなく
覚える私の側の定め(私の立ち位置や見方)によって決まる。

並木にとっては、私がどこから見ようと同じだ。
並木はそこに立っているだけで、変わらない。
私が覚える並木の見え方は、
私がどこから見るかに関わっている。

太陽と太陽系のあり方も、私がどこから見ようと同じだ。
太陽と地球は、見ようがどうしようが同じ関係性でそこにある。
しかし、人が覚える太陽の見え方は、
人が地球のどこから見るかによって変わる。
同じ太陽でも、
北極で見るのと赤道で見るのとでは違って見える。

これを見抜くのはとてもたやすい。
覚えのおももち(見え方)は、見る場所による。

加えて、私たちの覚える覚えは(認識する見え方は)、
私たちの体と精神とが感じていることや考えていること、
それまでに積んできた経験などなどによっても変わる。

同じ地点(たとえばあるスキー場)で夕日を見ていても、
おいしい食事が待つ宿に戻る前に、最後に1回滑ろうと、
高速のゴンドラでてっぺんを目指している時の夕日と、
コースを外れてしまって山中に迷いこみ、
自力で一歩ずつゲレンデにたどり着こうとしている時の夕日とでは、
まったく別物だ。

もっと単純な例では、
・同じ映画を見ても感想はそれぞれで違う
・同じ料理を食べてもおいしいという人もイマイチだと言う人もいる
・同じ料理を食べても、誰と食べるか、食卓の雰囲気でおいしさが変わる
・同じ焼き肉食べ放題でも10代の頃と40代の頃ではうれしさが変わる
…などなど。

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