『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

ネズミ捕りにもムリヤリ学ぶ

2011年12月08日 | シュタイナー
こないださ~、ネズミ捕りに捕まったの。
踏み切りを渡った瞬間、止められた。
踏み切りでは、当然、一旦停止してるから、
何だろ??と思って、でもイヤ~な予感で降りると、
「一旦停止違反ですので、免許証と貴重品持って出てきてください」だって。

私 「え?止まりましたけど??」
警官「いや、私見てました。違反ですので降りてください」
私 「ブレーキ、踏みましたよ?」
警官「でも、止まってませんでした」
私 「止まりましたってば」
警官「ブレーキ踏んだのは、私も見てましたからわかります」
私 「じゃあ、何ですか??」
警官「あのね、ブレーキ踏んでも、スピードがゼロにならないと、
   一旦停止って言わないんですよ。お気持ちはよくわかりますが」
私 「はぁ~~~(怒怒怒怒怒)?????????」


ええ、そうですとも。
おっしゃることはごもっとも。
踏み切りで、普通に止まって渡ったけど、
スピードがゼロになったかどうかまでは確かめてません。

だけど、言いがかりをつけて
庶民をいじめるのは止めてくれ!!
「お気持ちは分かります」って、何なのよっ!!!

取り締まるなら、ふつーのおばちゃんじゃなくて、
暴走族や、わざと危ない運転をするヤツらを取り締まってくれ。
スピードがゼロか否かなんて些細なことで取り締まるほど大事なことなら、
上から言われた期間だけじゃなくて、毎日、同じ場所を取り締まれ!!

と、血管沸騰寸前になって、
しかし、シュタイナーを学ぶ身としては、
「いかんいかん、この怒りにココロを奪われてはいかん」と、
何とかかんとか、ムリヤリココロを静めた。

ら、他のいろんな思いがココロに流れ込んできた。

10年ほど前に取材した人、息子さんが警察官だって言ってたなー。
「曲がったことが大嫌いで、警察官になったんですよ」って、
とーちゃん、自慢してたっけ。とかね。

ふつーの別にコズルイ感じでもない目の前のこの人が、
警官になろうと思ったのはどうしてだろう。
朝、寒い中、子どもたちを横断歩道で渡らせてくれる人と同じ職業なんだよな。
警官って、自分で判断できる範囲、すごーく狭いんじゃないかな?
仕事をしてて、一番のやりがいって、何だろう??とかね。

そしたら、なんか溜息と共に、口が勝手に、
「ご自分で考えられないんですもんね」とか言っちゃってた。
変な顔されたけど。

とは言え、私のココロには再沸騰機能が付いているようで、
やっと開放されて目的地に急ぐ間、また思い出してムカムカしてきて
「これで動悸息切れして事故りそうやわっ!」って感じだったけど。

シュタイナーの『テオゾフィ』の最後「知ることの細道」に
「シンパシーやアンチパシーに振り回されるのではなく、
それらを感覚器官にして学ぶことができる」と書いてあって、
ちょうど、その講座に行く途中だったのよね。

この言いがかりに会った直後にそれを読んだので
これも何かの巡り合わせかもしれないな、と
「意地でもここから何かを学んでやるっ」と意気込んでみたりして。

でも講座に集まった数人の前で
「こんなおっさんから何を学べっちゅーねん!
単なる庶民いじめやろっ!!」と、
正しい(?)ことを盾にして毒を吐くことは、
とってもとっても気持ちいいことであり、
みっともないけど、止まらないっ(^^;)。

先生は、そんな私を微笑みながら見て
一緒に怒るでもなく、バカにするでもなく、なだめるでもなく、
「さあ、何を学ぶんでしょうね」と言う。
私が何を学ぶのか、本当に心から楽しみにしていてくれる様子。

2~3日、寝ながら「何を学ぶのか」を考えてて、ふと、ひらめいたのは、
この怒りは自分が正しいと認めて欲しいんじゃなくて、
「大きな力を持つ者の理不尽さに、否応なくねじ伏せられることへの怒り」
だということ。

そういう怒りを、今の日本で私があまり感じないで暮らしているのは、
権力者がイヤがるような行動をしてないからだろうな、ということ。
それから、ねじ伏せられる方の立場もイヤだけど、
子どもから見たら、私たち大人、特に親は、
いつでも権力者であり、独裁者である、ということ。

ある時はOKと言ったことを、別の時に突然、禁止してみたり、
ある日は許したことを、別の日に怒ってみたり。
その上、子どもが反論できない、「あなたのために」なんていうような
もっともらしい正論付きのしたり顔で、
彼らのやりたいことを理不尽に禁止しちゃうことも、多々あるのだろう。

「なんでよっ、もう~~~!!フギャ~ッ!!ムキ~~ッ!!」という
子ども独特の、感情が爆発するに任せる、あの生々しい怒り方。
その気持ち、今ならめっちゃわかるわ。
私も、ホントに「むっかぁぁぁああああ~!!」って言いたかったもん。

親は、簡単に子どもを理不尽な目に合わせられる存在だ
ということを、学んだわ。

今まで、怒りをなんとか表さないようにして
「私、大人だから別に怒るほどでもないけどぉ~」
みたいな顔をしてやりすごすことが多かったけど、そうじゃないみたい。

テオゾフィには
「怒りを抑えるのではなく、怒りから学ぶことが大事」
だと書いてあるんだけど、その意味がやっとわかったわ。

たとえば、怒りを抑えてたら、怒りを抑えられない者たちを見下してしまう。
「ガキやなぁ~、そんなこともガマンできないなんて」って。

でも、そうじゃなかった。
怒りは怒りとして受け止めて、
しかし、怒るたびに新たに気持ちを盛り上げて
怒りなおしたりしないで(←私、アホですね)、
「口という感覚器官があって味がわかるのと同じように、
喜怒哀楽という感情を感覚器官にして、何かを学ぶ」ことが大事なんだね。

そういうお題目は理解したけど、
実際は、ゼイゼイ息切れするほど難しい課題だったわ。
特に、「怒り」の感情は。
とは言え、自分が子どもにとっても権力者だと分かった時、
ものすごい納得できた。ホント、そうだった。

そして、新たに、
子どもが親の言うことをまーまー聞くであろう、あと数年の間に、
一体私は、子どもに何を伝えたいのだろうか、
人間として大事なことは何だろう、という問いが生まれたのでありました。

うおぉぉ~、シュタイナー、めっちゃおもしろ~~い!!

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