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『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学13章_05段落

2015年11月17日 | 『自由の哲学』
この観点(楽観論)から現実を切り出す人は、 こんなふうに生きるでしょう。 心安らかに、世のもっとも良いことに向けて、 自分を全力で生かすための努力をする。 人は、素直に神の言葉を求め、 それに従って行動しなければならない。 神がどんな目的で世の中と人を作ったかを知れば、 人は、それにふさわしい行動を取れるだろう。 そして、他の人が行った善に自分の善を加える時、 人はそれを幸せに感じるだろう。 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_04段落

2015年11月14日 | 『自由の哲学』
楽観論のライプニッツは言う。 これ以上良い世などあり得ない。 なぜなら、神は善良で賢明だから。 神は善良だから、善良な世を作ろうとする。 神は賢明だから、ダメな可能性から世を守ってくれる。 仮に、邪悪でおろかな神がいたら、 それにふさわしい世を作るだろうけれど、 神は善良で賢明だから大丈夫。 ※ 楽観論者の論を見ると、 どうも「ホントにわかってる?」と言いたくなる。 無邪気すぎる、というか。 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_02~03段落

2015年11月11日 | 『自由の哲学』
人生の価値のとらえ方はふたつ。 ひとつは1段落で述べた楽観論。 もうひとつは、悲観論です。 2段落では悲観論を見てみましょう。 もうひとつは悲観論。 悲観論は次のように言う。 生きるのは苦(苦悩・苦痛)と 惨(悲惨・不幸)に満ちている。 どこででも不快なことは楽しいことを上回り、 苦しみは喜びを上回る。 自分が存在することは、それ自体で重荷だ。 存在しないことは、 どんな状況下での存在よりも . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_01段落

2015年11月08日 | 『自由の哲学』
さてさて、今回から13段落です。 タイトルは「いきるの値(悲観論と楽観論)」。 サブタイトルがあるのは、11章~13章だけ。 タイトルおよびサブタイトルから予想されるに、 「生きることには、それに値する価値があるのか?」 とかいう内容なんだろうね、きっと。 楽観、悲観の両方の立場をふまえつつ、 シュタイナー独自の路線を打ち出すんだろうな、 どんな新しい路線があるんだろ、と思うと、 ワクワクしま . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_20段落

2015年11月05日 | 『自由の哲学』
外から邪魔する力によって、 私がしたいようにできないとしたら、 私はただ、しないでいるか、不自由であるか、になる。 外からの力は、それだけで済まずに、 さらに私の精神を巻き込んで従え、 私がしたい理由を頭から除き、 その代わりに、外からの力のするべき理由などを 私の頭の中に据え付けようとする。 私は、外の力によって、まんまと不自由になる。 だから、教会は私の行動だけでなく、 頭に抱いてまだ行動 . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_19段落

2015年11月02日 | 『自由の哲学』
したいことをしない、というのも、 人がよくすることです。 まさに、他人から何をするべきかを示してもらう、 すなわち、他人が「これが正しい」と思う通りを、 自分では「これが正しい」と思わないまま 実行しようとすると、きっと不自由と感じます。 ※ 短い段落で、わかりやすいですね。 「したいことをしない」なんてことはないだろう、 と、ちょっと読むと思いますが、 なかなかどうして、いつでもやっています . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_18段落_3

2015年10月30日 | 『自由の哲学』
したくもないのにすることを「自由」とは言わない。 でも、ハマリングは言う。 すなわち、 本当に、何かしたいのは必ず理由に決められる。 ただし、それをもって不自由だ、というのは ばかげている、と。 つまり、ハマリングには、 自分の強さと潔さの程度に応じた自分を実現する自由より さらに大きな自由は願うべくもない、ということだ。 しかし、もっと大きな自由が願えないだろうか。 願える。そして、それぞ . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_18段落_2

2015年10月27日 | 『自由の哲学』
自由なのは、何かをしたい、という思いの理由を 道徳のファンタジーによって、 他人でなく、自分自身で決めるからであり、 自由であり得ないのは、私の他の何か、 (たとえば、規則とか神様とかお金がないとか…)が、 私の道徳の思いを定めるからだ。 つまり「私は自由である」というのは、 道徳の思いを私が自分で生み出すからだ。 「私は自由でない」というのは、 自分以外の誰か(何か)が決めたことを すること . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_18段落_1

2015年10月24日 | 『自由の哲学』
この観点から見て、先にふれた二つの間の違いはどうなるか。 つまり、次の二つについての違い。 1、自由だとは、やりたい放題できることだ 2、何をしたいのか自分で決められるなんて幻想だ ハマリングの自由な欲するの見解は、 この二つの違いに基づく。 つまり、1を肯定し、2をバカげた同語反復とする。 ハマリングは、 「私はしたいようにすることができる。 でも、私が何をしたいのかを自分で決められる とい . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_17段落

2015年10月21日 | 『自由の哲学』
自然科学とは、本来どういうものかを深めていくなら、 自然科学の世界にいても、倫理の個人主義にたどりつく。 科学というのは、 見る+考えることで深めていく行為だけれど、 まさに、見て考えて言うことで、 人の(自分の)行為の中に自由を発見できる。 人の意志が、 紛れなく考えて得た悟りを現実にしていこうとする限り、 きっと、それは自由と呼ぶにふさわしい。 そもそも「悟り」は、外からの必然に左右されず . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_16段落

2015年10月18日 | 『自由の哲学』
精神までを進化の考えに入れず、 肉体までを進化の範疇に捉える進化論者が、 その基本の捉え方から唱えうるのは、 今の人の行動が猿から進化して生まれた、 ということまでだ。 人の行動が自由か自由でないかどうなのか、 つまり、こういうのが自由な行動だ、と決めるのは、 人が猿から進化したかどうかには関係なく、 自分の行動を直接見て判断するのがふさわしい。 また、精神までを進化の考えに入れず、 肉体まで . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_15段落

2015年10月15日 | 『自由の哲学』
「自然科学」を考える時に、 心や精神を含めず、肉体レベルまでに限定する者なら、 その自然科学のうちに、自由な一人ひとりは どう関係するのかわからないだろう。 筋の通った進化論者 (肉体の器官の発展の中に、 精神が潜んでいることも認める人)ならば、 肉体レベルに限定するような狭苦しさに はまることはあるまい。 自然の発展を猿までだと結論づけながらでも、 人の進化に超自然(神など)を持ち出さなくて . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_13~14段落

2015年10月12日 | 『自由の哲学』
まったく新しい考えが出てくるのは、 まったく新しい種が古い種から出てくるのと同じだ。 ただし、その進化を説明するのに、一元論として、 自然界でも考えの世界でも、仮の想い設けは必要ない。 仮の想い設けとは、次のようなこと。 ある人の倫理の「する」がどうやって生まれたのか、 その原因を探るために、 神様の計画です、などと、仮の存在を設定する必要はない。 それは、自然科学の進化論を考える時、 生き . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_11~12段落

2015年10月09日 | 『自由の哲学』
倫理の個人主義は、進化論と矛盾しない。 進化論と直につながっている。 原生物から人へとたどるヘッケルの系統樹は、 自然法則に則って進化の系譜の延長として、 倫理の個人主義につながっていく。 人の進化は、 親から子を引き出す、という必要はない。 物理的な生物として人を見ると、 確かに、親から子が出てくる。 同じように、 一人ひとりが、それぞれに考えて それぞれなりの倫理を作りだすことで、 倫理 . . . 本文を読む

■自由の哲学12章_10段落

2015年10月06日 | 『自由の哲学』
自分で考える人なら、前例がどうであれ、 新しいものを生み出していくものだ。 しかし、私たちは、新しいものを古いものと比較して、 批判したりしないか。 一人ひとりの生んだファンタジーがせっかく作り上げたものを、 前例がどうとか、常識はずれだとか、 普通じゃないとか言って、潰してしまうことは、 誰だってやりがちなことだ。 でも、人が新しく作り出したものを 古い作法ではかるのはナンセンス。 は虫類が . . . 本文を読む