この観点(楽観論)から現実を切り出す人は、
こんなふうに生きるでしょう。
心安らかに、世のもっとも良いことに向けて、
自分を全力で生かすための努力をする。
人は、素直に神の言葉を求め、
それに従って行動しなければならない。
神がどんな目的で世の中と人を作ったかを知れば、
人は、それにふさわしい行動を取れるだろう。
そして、他の人が行った善に自分の善を加える時、
人はそれを幸せに感じるだろう。
. . . 本文を読む
楽観論のライプニッツは言う。
これ以上良い世などあり得ない。
なぜなら、神は善良で賢明だから。
神は善良だから、善良な世を作ろうとする。
神は賢明だから、ダメな可能性から世を守ってくれる。
仮に、邪悪でおろかな神がいたら、
それにふさわしい世を作るだろうけれど、
神は善良で賢明だから大丈夫。
※
楽観論者の論を見ると、
どうも「ホントにわかってる?」と言いたくなる。
無邪気すぎる、というか。 . . . 本文を読む
人生の価値のとらえ方はふたつ。
ひとつは1段落で述べた楽観論。
もうひとつは、悲観論です。
2段落では悲観論を見てみましょう。
もうひとつは悲観論。
悲観論は次のように言う。
生きるのは苦(苦悩・苦痛)と
惨(悲惨・不幸)に満ちている。
どこででも不快なことは楽しいことを上回り、
苦しみは喜びを上回る。
自分が存在することは、それ自体で重荷だ。
存在しないことは、
どんな状況下での存在よりも . . . 本文を読む
さてさて、今回から13段落です。
タイトルは「いきるの値(悲観論と楽観論)」。
サブタイトルがあるのは、11章~13章だけ。
タイトルおよびサブタイトルから予想されるに、
「生きることには、それに値する価値があるのか?」
とかいう内容なんだろうね、きっと。
楽観、悲観の両方の立場をふまえつつ、
シュタイナー独自の路線を打ち出すんだろうな、
どんな新しい路線があるんだろ、と思うと、
ワクワクしま . . . 本文を読む
外から邪魔する力によって、
私がしたいようにできないとしたら、
私はただ、しないでいるか、不自由であるか、になる。
外からの力は、それだけで済まずに、
さらに私の精神を巻き込んで従え、
私がしたい理由を頭から除き、
その代わりに、外からの力のするべき理由などを
私の頭の中に据え付けようとする。
私は、外の力によって、まんまと不自由になる。
だから、教会は私の行動だけでなく、
頭に抱いてまだ行動 . . . 本文を読む
したいことをしない、というのも、
人がよくすることです。
まさに、他人から何をするべきかを示してもらう、
すなわち、他人が「これが正しい」と思う通りを、
自分では「これが正しい」と思わないまま
実行しようとすると、きっと不自由と感じます。
※
短い段落で、わかりやすいですね。
「したいことをしない」なんてことはないだろう、
と、ちょっと読むと思いますが、
なかなかどうして、いつでもやっています . . . 本文を読む
したくもないのにすることを「自由」とは言わない。
でも、ハマリングは言う。
すなわち、
本当に、何かしたいのは必ず理由に決められる。
ただし、それをもって不自由だ、というのは
ばかげている、と。
つまり、ハマリングには、
自分の強さと潔さの程度に応じた自分を実現する自由より
さらに大きな自由は願うべくもない、ということだ。
しかし、もっと大きな自由が願えないだろうか。
願える。そして、それぞ . . . 本文を読む
自由なのは、何かをしたい、という思いの理由を
道徳のファンタジーによって、
他人でなく、自分自身で決めるからであり、
自由であり得ないのは、私の他の何か、
(たとえば、規則とか神様とかお金がないとか…)が、
私の道徳の思いを定めるからだ。
つまり「私は自由である」というのは、
道徳の思いを私が自分で生み出すからだ。
「私は自由でない」というのは、
自分以外の誰か(何か)が決めたことを
すること . . . 本文を読む
この観点から見て、先にふれた二つの間の違いはどうなるか。
つまり、次の二つについての違い。
1、自由だとは、やりたい放題できることだ
2、何をしたいのか自分で決められるなんて幻想だ
ハマリングの自由な欲するの見解は、
この二つの違いに基づく。
つまり、1を肯定し、2をバカげた同語反復とする。
ハマリングは、
「私はしたいようにすることができる。
でも、私が何をしたいのかを自分で決められる
とい . . . 本文を読む
自然科学とは、本来どういうものかを深めていくなら、
自然科学の世界にいても、倫理の個人主義にたどりつく。
科学というのは、
見る+考えることで深めていく行為だけれど、
まさに、見て考えて言うことで、
人の(自分の)行為の中に自由を発見できる。
人の意志が、
紛れなく考えて得た悟りを現実にしていこうとする限り、
きっと、それは自由と呼ぶにふさわしい。
そもそも「悟り」は、外からの必然に左右されず . . . 本文を読む
精神までを進化の考えに入れず、
肉体までを進化の範疇に捉える進化論者が、
その基本の捉え方から唱えうるのは、
今の人の行動が猿から進化して生まれた、
ということまでだ。
人の行動が自由か自由でないかどうなのか、
つまり、こういうのが自由な行動だ、と決めるのは、
人が猿から進化したかどうかには関係なく、
自分の行動を直接見て判断するのがふさわしい。
また、精神までを進化の考えに入れず、
肉体まで . . . 本文を読む
「自然科学」を考える時に、
心や精神を含めず、肉体レベルまでに限定する者なら、
その自然科学のうちに、自由な一人ひとりは
どう関係するのかわからないだろう。
筋の通った進化論者
(肉体の器官の発展の中に、
精神が潜んでいることも認める人)ならば、
肉体レベルに限定するような狭苦しさに
はまることはあるまい。
自然の発展を猿までだと結論づけながらでも、
人の進化に超自然(神など)を持ち出さなくて . . . 本文を読む
まったく新しい考えが出てくるのは、
まったく新しい種が古い種から出てくるのと同じだ。
ただし、その進化を説明するのに、一元論として、
自然界でも考えの世界でも、仮の想い設けは必要ない。
仮の想い設けとは、次のようなこと。
ある人の倫理の「する」がどうやって生まれたのか、
その原因を探るために、
神様の計画です、などと、仮の存在を設定する必要はない。
それは、自然科学の進化論を考える時、
生き . . . 本文を読む
倫理の個人主義は、進化論と矛盾しない。
進化論と直につながっている。
原生物から人へとたどるヘッケルの系統樹は、
自然法則に則って進化の系譜の延長として、
倫理の個人主義につながっていく。
人の進化は、
親から子を引き出す、という必要はない。
物理的な生物として人を見ると、
確かに、親から子が出てくる。
同じように、
一人ひとりが、それぞれに考えて
それぞれなりの倫理を作りだすことで、
倫理 . . . 本文を読む
自分で考える人なら、前例がどうであれ、
新しいものを生み出していくものだ。
しかし、私たちは、新しいものを古いものと比較して、
批判したりしないか。
一人ひとりの生んだファンタジーがせっかく作り上げたものを、
前例がどうとか、常識はずれだとか、
普通じゃないとか言って、潰してしまうことは、
誰だってやりがちなことだ。
でも、人が新しく作り出したものを
古い作法ではかるのはナンセンス。
は虫類が . . . 本文を読む