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『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学13章20~22段落

2016年01月01日 | 『自由の哲学』
20段落 幻想と結びついた快を低く見積もる者は、 おもちゃが子どもの遊ぶものだからと、 商人が、おもちゃの売れた金額を 4分の1で帳簿に付けるようなものだ。 21段落 快・不快の量だけを比べるなら、 快の対象が本物かおもちゃか、 リアルかバーチャルかを問題にする必要は まったくない。 22段落 ハルトマンが勧めるように、ここまでの文章で、 生きる快・不快の量を理性的に判断してきた。 帳簿の片方 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章19段落

2015年12月29日 | 『自由の哲学』
それに、どうして情が閉め出されなければならないのか。 情を持てば、その情が快にもなる。 不快な情もあるけど、情に振り回されるのではなく、 不快な気持ちを、精神の力でしのいだ時は、 「自分って結構やるな~」という快に変わる。 それは、うぬぼれじゃなくて、 「成長したな~」と、しみじみ思うたぐいの快。 気持ちの快じゃなくて、精神の快だけど、 だからって、快の意味は劣るわけじゃない。 ある感情が幻想 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章18段落

2015年12月26日 | 『自由の哲学』
しかし、褒められたがりが 人から褒められることによって、 ある事実に実際より高い値打ちを付けることがある。 でも、実際に感じている快感から、 見かけの幻の快感を閉め出して 正しい快の値を出そうとしたら、 逆に、その値が間違ってしまうだろう。 なにしろ、褒められたがり屋さんは、 認められてあんなに喜んでいたのだから。 後でそれが「たいしたことないんじゃない?」と 人に言われようが、自分で気づこう . . . 本文を読む

■自由の哲学13章17段落

2015年12月23日 | 『自由の哲学』
しかし、さらに考えを進めたら、 次のようにも言えるだろう。 褒められるのが好きな人は、 自分で気づくか、人から言われて気づくかはともかく、 人から認められることが、 実はそれほど値打ちのないことだ と、いつかわかってしまうだろう。 理性的な人には、科学的に、 「人間の本質は理性である」と 最終決着が付いているし、 「科学における謎は、 たいてい常識的な多くの人が間違ってて、 最初に言い出した非 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章16段落

2015年12月20日 | 『自由の哲学』
1、欲が強すぎることを差し引くこと、 2、感情の幻想を取り除くこと  によって、 ひたすら理性的に快・不快の決算をしようとする人が 人から認められたい気持ちの強い人だったとしよう。 その人は、したことが認められてすごく喜び、 見くびられた傷は小さく見るメガネをかけて、 自分の快・不快を決算するだろう。 以前、見くびられたことに傷ついたのも、 自分の質が関係するのだけれど、 思い出す時には、見 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章15段落

2015年12月17日 | 『自由の哲学』
ハルトマンのように考える人が筋を通すなら、 次のように信じるだろう。 いきる値をふさわしくはj引き出すには、 快・不快についての判断をゆがめる主観的なものを除く必要がある。 そうするには、二通りの除き方がある。 1、欲求が大きすいて結果にゆがみが生じてるんじゃないの?   性欲が強い時には、冷静な時以上の幻想の快楽を味わうけど、   楽しみたいから、苦しみに目を向けないのだ。 2、その感情 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_14段落

2015年12月14日 | 『自由の哲学』
人生の快と不快を帳簿に付けて、 その貸し借りを決算するのは、 何を持ってはかるのがふさわしいか。 ハルトマンは「理性を持ってはかる」と言う。 でも『無意識の哲学』という本で、彼は 「快と苦は、心だけの問題だ」と。 とすると、何かが快であるかどうかは、 「感じる」という自分のものさしではかることになる。 そう。私の快・不快を帳簿につけて、 喜び・苦しみのどちらが多いかは、 「私が感じること」を基 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_13段落

2015年12月11日 | 『自由の哲学』
すなわち、快と不快を帳簿に付けて、 どちらの数字が大きくなるかを調べようとするには、 体の快=欲しがる快(コート欲しいな) 心の快=願いが叶う快(似合うコートが買えた!) 精神の快=欲しがらないのに舞い込む快(遺産など) を帳簿に付けなければいけない。 そして、帳簿のもう片方につけるのは、 体の不快=することがない不快(毎日ヒマだな~) 心の不快=努力したのに失敗する不快(練習したのに…) 精 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_12段落

2015年12月08日 | 『自由の哲学』
欲が満たされたら嬉しくなり、 満たされなかったら不快になる。 そこから、喜びは欲が満たされること、 不快は、欲が満たされないことだ、 という法則が導かれるけれど、 実は、そうとばかりは言い切れない。 喜び、不快は、 欲を持ってない時でも出てくるのです。 病気は不快。 でも、病気になりたいという欲を持ったわけじゃない。 病気は、健康でいたいのにそれが満たされない状態だ という者は、 「病気に . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_11段落

2015年12月05日 | 『自由の哲学』
本当は逆のはず。 努力したり欲したりすることそのことは、嬉しいはず。 ずっと遠い目標を強く望んで努力する喜びや充実感。 そういうのは、誰だって身に覚えがあるでしょ? その喜びは、自分が働くのと共にある。 働いた結果がどうなるかは、また後の話だ。 結果がどうあれ、 それまでの充実感や努力する喜びに変わりはない。 そして、叶えば、 「努力する喜び」に「満たされる喜び」が 新しく加わる。 しかし、 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_09~10段落

2015年12月02日 | 『自由の哲学』
(9段落) では、7段落にあったハルトマンの 「自分の人生経験を元にする」というのは どうなっているのか? (10段落) 満足するように努力する、というのは、 生きて何かをして、その何かを取り込もう、という事。 私たちが努力して取り込む「何か」というのは、 たとえば、お金だったり、やりがいだったり、 もっと単純に食べ物だったりする。 おなかをすかせたら、 おなかを満たすために努力するだろう。 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_08段落

2015年11月29日 | 『自由の哲学』
すなわち、 人が自分の満足を追い求めるのは愚かだと知るべきで、 ただひたすら、神を救うための世の動きに、 自分のエゴをなくして尽くすことを目的にするべし。 ショーペンハウアーの悲観論に対して、 ハルトマンの悲観論は、私たちを、 神の課題に尽くす、という崇高な使命に導く。 ※ ショーペンハウアーの悲観論は、 意志の暴走に注目したもの。 この欲さえ無くなればいい、ってもの。 キーワードは「何もし . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_07段落_2

2015年11月26日 | 『自由の哲学』
(ショーペンハウアーは「世には無目的な欲望しかない」 と言うけれど)しかしまた、 ハルトマンは、世に知恵のあることを否定しない。 世に無目的な欲望があるのと同じように、 目的に合うよう考えることもできる、と認める。 賢い神が世を作り出したんだから、 そんな賢い神が作った世に「苦しみ」があるのは、 その苦しみは、神の何かの目的に一致するはずだ、 としか、考えられなくなる。 曰く、世の苦しみは、神 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_07段落_1

2015年11月23日 | 『自由の哲学』
ハルトマンも悲観論だけど、 ショーペンハウアーとはまた別で、 倫理学とつなげようとする論を立てた。 ハルトマンは私たちの時代の考え方にならい、 自分の人生経験から論を築こうとする。 世に快と不快のどちらが多いかを 生きることを見て、決めようとする。 世の中の良いものやシアワセなものを 一つずつこれはこっち、あれはこっち、と考えて、 結局、「世の中にある満足や幸せは、全部幻想だ」 と言い出した。 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章_06段落

2015年11月20日 | 『自由の哲学』
ショーペンハウアーに言わせたら、 世はまた別のものになる。 彼は悲観論者だから、次のように考える。 彼が考えるに、世を動かしている根源は、 こよなく賢く良い者(神のような)ではなく、 根拠のない衝動的な欲望だ、と捉える。 満たされないモノを欲しがって、 いつまでも努力することが、 欲望の欲望たるところである、と。 一つの欲望が満たされることはあるけれど、 すぐにまた別の欲望が出てくる。 満ち . . . 本文を読む