20段落
幻想と結びついた快を低く見積もる者は、
おもちゃが子どもの遊ぶものだからと、
商人が、おもちゃの売れた金額を
4分の1で帳簿に付けるようなものだ。
21段落
快・不快の量だけを比べるなら、
快の対象が本物かおもちゃか、
リアルかバーチャルかを問題にする必要は
まったくない。
22段落
ハルトマンが勧めるように、ここまでの文章で、
生きる快・不快の量を理性的に判断してきた。
帳簿の片方 . . . 本文を読む
それに、どうして情が閉め出されなければならないのか。
情を持てば、その情が快にもなる。
不快な情もあるけど、情に振り回されるのではなく、
不快な気持ちを、精神の力でしのいだ時は、
「自分って結構やるな~」という快に変わる。
それは、うぬぼれじゃなくて、
「成長したな~」と、しみじみ思うたぐいの快。
気持ちの快じゃなくて、精神の快だけど、
だからって、快の意味は劣るわけじゃない。
ある感情が幻想 . . . 本文を読む
しかし、褒められたがりが
人から褒められることによって、
ある事実に実際より高い値打ちを付けることがある。
でも、実際に感じている快感から、
見かけの幻の快感を閉め出して
正しい快の値を出そうとしたら、
逆に、その値が間違ってしまうだろう。
なにしろ、褒められたがり屋さんは、
認められてあんなに喜んでいたのだから。
後でそれが「たいしたことないんじゃない?」と
人に言われようが、自分で気づこう . . . 本文を読む
しかし、さらに考えを進めたら、
次のようにも言えるだろう。
褒められるのが好きな人は、
自分で気づくか、人から言われて気づくかはともかく、
人から認められることが、
実はそれほど値打ちのないことだ
と、いつかわかってしまうだろう。
理性的な人には、科学的に、
「人間の本質は理性である」と
最終決着が付いているし、
「科学における謎は、
たいてい常識的な多くの人が間違ってて、
最初に言い出した非 . . . 本文を読む
1、欲が強すぎることを差し引くこと、
2、感情の幻想を取り除くこと によって、
ひたすら理性的に快・不快の決算をしようとする人が
人から認められたい気持ちの強い人だったとしよう。
その人は、したことが認められてすごく喜び、
見くびられた傷は小さく見るメガネをかけて、
自分の快・不快を決算するだろう。
以前、見くびられたことに傷ついたのも、
自分の質が関係するのだけれど、
思い出す時には、見 . . . 本文を読む
ハルトマンのように考える人が筋を通すなら、
次のように信じるだろう。
いきる値をふさわしくはj引き出すには、
快・不快についての判断をゆがめる主観的なものを除く必要がある。
そうするには、二通りの除き方がある。
1、欲求が大きすいて結果にゆがみが生じてるんじゃないの?
性欲が強い時には、冷静な時以上の幻想の快楽を味わうけど、
楽しみたいから、苦しみに目を向けないのだ。
2、その感情 . . . 本文を読む
人生の快と不快を帳簿に付けて、
その貸し借りを決算するのは、
何を持ってはかるのがふさわしいか。
ハルトマンは「理性を持ってはかる」と言う。
でも『無意識の哲学』という本で、彼は
「快と苦は、心だけの問題だ」と。
とすると、何かが快であるかどうかは、
「感じる」という自分のものさしではかることになる。
そう。私の快・不快を帳簿につけて、
喜び・苦しみのどちらが多いかは、
「私が感じること」を基 . . . 本文を読む
すなわち、快と不快を帳簿に付けて、
どちらの数字が大きくなるかを調べようとするには、
体の快=欲しがる快(コート欲しいな)
心の快=願いが叶う快(似合うコートが買えた!)
精神の快=欲しがらないのに舞い込む快(遺産など)
を帳簿に付けなければいけない。
そして、帳簿のもう片方につけるのは、
体の不快=することがない不快(毎日ヒマだな~)
心の不快=努力したのに失敗する不快(練習したのに…)
精 . . . 本文を読む
欲が満たされたら嬉しくなり、
満たされなかったら不快になる。
そこから、喜びは欲が満たされること、
不快は、欲が満たされないことだ、
という法則が導かれるけれど、
実は、そうとばかりは言い切れない。
喜び、不快は、
欲を持ってない時でも出てくるのです。
病気は不快。
でも、病気になりたいという欲を持ったわけじゃない。
病気は、健康でいたいのにそれが満たされない状態だ
という者は、
「病気に . . . 本文を読む
本当は逆のはず。
努力したり欲したりすることそのことは、嬉しいはず。
ずっと遠い目標を強く望んで努力する喜びや充実感。
そういうのは、誰だって身に覚えがあるでしょ?
その喜びは、自分が働くのと共にある。
働いた結果がどうなるかは、また後の話だ。
結果がどうあれ、
それまでの充実感や努力する喜びに変わりはない。
そして、叶えば、
「努力する喜び」に「満たされる喜び」が
新しく加わる。
しかし、 . . . 本文を読む
(9段落)
では、7段落にあったハルトマンの
「自分の人生経験を元にする」というのは
どうなっているのか?
(10段落)
満足するように努力する、というのは、
生きて何かをして、その何かを取り込もう、という事。
私たちが努力して取り込む「何か」というのは、
たとえば、お金だったり、やりがいだったり、
もっと単純に食べ物だったりする。
おなかをすかせたら、
おなかを満たすために努力するだろう。
. . . 本文を読む
すなわち、
人が自分の満足を追い求めるのは愚かだと知るべきで、
ただひたすら、神を救うための世の動きに、
自分のエゴをなくして尽くすことを目的にするべし。
ショーペンハウアーの悲観論に対して、
ハルトマンの悲観論は、私たちを、
神の課題に尽くす、という崇高な使命に導く。
※
ショーペンハウアーの悲観論は、
意志の暴走に注目したもの。
この欲さえ無くなればいい、ってもの。
キーワードは「何もし . . . 本文を読む
(ショーペンハウアーは「世には無目的な欲望しかない」
と言うけれど)しかしまた、
ハルトマンは、世に知恵のあることを否定しない。
世に無目的な欲望があるのと同じように、
目的に合うよう考えることもできる、と認める。
賢い神が世を作り出したんだから、
そんな賢い神が作った世に「苦しみ」があるのは、
その苦しみは、神の何かの目的に一致するはずだ、
としか、考えられなくなる。
曰く、世の苦しみは、神 . . . 本文を読む
ハルトマンも悲観論だけど、
ショーペンハウアーとはまた別で、
倫理学とつなげようとする論を立てた。
ハルトマンは私たちの時代の考え方にならい、
自分の人生経験から論を築こうとする。
世に快と不快のどちらが多いかを
生きることを見て、決めようとする。
世の中の良いものやシアワセなものを
一つずつこれはこっち、あれはこっち、と考えて、
結局、「世の中にある満足や幸せは、全部幻想だ」
と言い出した。 . . . 本文を読む
ショーペンハウアーに言わせたら、
世はまた別のものになる。
彼は悲観論者だから、次のように考える。
彼が考えるに、世を動かしている根源は、
こよなく賢く良い者(神のような)ではなく、
根拠のない衝動的な欲望だ、と捉える。
満たされないモノを欲しがって、
いつまでも努力することが、
欲望の欲望たるところである、と。
一つの欲望が満たされることはあるけれど、
すぐにまた別の欲望が出てくる。
満ち . . . 本文を読む