☆なな☆さんが、面白いサイトを紹介していらっしゃったので、
わたしも飛んで行ってみました。
その名は
「方言変換道場」。
自分のサイトのurlを貼り付けると、本文が変換されるのかな~?
よくわからないので、お試しになる場合は、よく注意書きをお読みくださいね。
これをやると、ブログ全体が変わってしまうのか、元に戻るのか不安なので、
私は、一部分をコピペして変換する枠を使って、試してみました。
下の原文は、私が昨日書いた本歌取りの解説部分です。
日本中の、特徴ある方言に変換してもらいたいと思って、
色々とためしてみました。
ちょっと微妙~な部分もありますが、けっこう特徴を捉えているのかな?
【私が書いた原文】
私の庵(いおり)は都の東南にあって、このように心のどかに暮らしている。
だのに、私がこの世をつらいと思って逃れ住んでいる宇治山だと、
世間の人は言っているそうですね。
「人はいふなり」と言うからには、「自分は違うと思っている」と私は感じる。
というわけで、2の解釈の方が好きなんだけどな。
その方が、喜撰法師が、「自分は自分」という自由な考え方の人に見えて、
面白い歌に思えてくるよ。
【津軽弁】
わの庵(いおり)だば都の東南にあって、このように心おどげかに暮らしてら。
だのに、わがこの世ばつらいど思って逃れ住んでいる宇治山だど、
世間の人だば言ってらんだんずね。
「人だばいふなり」どしゃべるからにだば、「ワだばまじがってるど思ってら」どわだば感じるんず。
てすわけで、2の解釈の方が好きなんだんばてな。
その方が、喜撰法師が、「ワだばワ」てす自由な考え方の人に見えて、
おもしれ歌に思えてくるよ。
【山形弁】
わだすの庵(いおり)は都の東南にあって、このように心のどかに暮らしったんだず。
だのに、わだすがこの世ばつらいと思って逃れ住んでいる宇治山だと、
世間の人は言ったそうだずね。
「人はいふなり」と言うからには、「わしはついがうと思った」とわだすは感じるんだず。
ていうわけで、2の解釈の方が好きなんんだげっとな。
その方が、喜撰法師が、「わしはわし」ていう自由な考え方の人に見えて、
おもしぇえ歌に思えてくるよ。
【東京弁】
私の庵(いおり)は都の東南にあって、このように心のどかに暮らしている。
だのに、私がこの世をつれーと思って逃れ住んでいる宇治山だと、
世間の人は言っているそうですね。
「人はいふなり」と言うからには、「自分は違うと思っている」と私は感じる。
というわけで、2の解釈の方が好きなんだけどな。
その方が、喜撰法師が、「自分は自分」という自由な考え方の人に見えて、
面白い歌に思えてくるよ。
【愛知弁】
私の庵(いおり)は都の東南にあって、このように心のどかに暮らしとゃあ。
だに、私がこの世をえらぇーと思って逃れ住んでいる宇治山だと、
世間の人は言っとるげなぎゃぁ。
「人はいふなり」と言うからには、「自分は違うと思っとる」と私は感じゃあ。
というわけで、2の解釈の方が好きなんだけどな。
その方が、喜撰法師が、「自分は自分」という自由な考え方の人に見えて、
面白い歌に思えてござるよ。
【大阪弁】
ウチの庵(いおり)は都の東南にあって、こねんうに心のどかに暮らしとるちうわけや。
だけど、ウチがこの世をつらいと思って逃れ住んでいる宇治山だと、
世間の人は言っとるそうやね。
「人はいふなり」と言うからには、「オノレはちゃうと思っとる」とウチは感じるちうわけや。
ちゅうわけで、2の解釈の方が好きなんせやけどな。
その方が、喜撰法師が、「オノレはオノレ」ちう自由な考え方の人に見えて、
おもろい歌に思えてくるよ。
【京都弁】
わいの庵(いおり)は都の東南にあって、このように心のどかに暮らしてる。
だのに、わいがこの世をえらいと思って逃れ住んでいる宇治山だと、
世間の人は言っとるそへんでっせー。
「人へーふなり」としゃべるからには、「麻呂はちゃうと思っとる」とわいは感じる。
ちゅうわけで、2の解釈の方が好きなんせやけどな。
そちらはんが、喜撰法師が、「麻呂は麻呂」ちゅうすきな考え方の人に見えて、
おもろい歌に思えてくるよ。
【広島弁】
わしの庵(いおり)は都の東南にあって、こんように心のどかに暮らしとる。
だのに、わしがこの世をつらいゆぅて思うて逃れ住んどる宇治山だと、
世間の人は言っとるそうじゃの。
「人はいふなり」ゆぅからにゃぁ、「自分は違うゆぅて思うとる」ゆぅてわしは感じる。
っちゅうわけで、2の解釈の方が好きなんじゃがの。
その方が、喜撰法師が、「自分は自分」っちゅう自由な考え方の人に見えて、
おもろい歌に思えてくるよ。
【高知弁】
あしの庵(いおり)は都の東南にあって、このように心のどかに暮らしゆう。
だがやき、あしがこの世をたいそいと思って逃れ住んじゅう宇治山だと、
世間の人はゆうちゅうそうやき。
「人はいふなり」とゆうからにゃ、「自分は違うと思っちゅう」とあしは感じる。
というわけで、2の解釈の方が好きなんやけどな。
その方が、喜撰法師が、「自分は自分」という自由な考え方の人に見えて、
しょうえい歌に思えてくるよ。
【博多弁】
うちの庵(いおり)は都の東南にあって、こんように心のどかに暮らしとるとよ。
だのに、うちがこん世ばつらいと思って逃れ住んでいる宇治山だと、
世間の人は言っとるそうやね。
「人はいふなり」とゆうからには、「うちはちごうとると思っとる」とうちは感じるとよ。
ちうわけで、2の解釈の方が好いとぉんやけどな。
そん方が、喜撰法師が、「うちはうち」ちう自由な考え方の人に見えて、
おかしか歌に思えてくるよ。
【薩摩弁】
おいの庵(いおり)は都の東南にあって、こんごと心のどかに暮らしじぁ。
だのに、おいがこん世をつらいと思って逃れ住んでいる宇治山だと、
世間の人は言っとるそうなあ。
「人はいふなり」と言うからにな、「おいどんは違うと思っとる」とおや感じる。
ちゅうわけで、2の解釈の方が好きなんほいならっいけな。
そん方が、喜撰法師が、「おいどんは自分」ちゅう自由な考え方のひとい見えて、
おもしとか歌に思えてくるど。
【沖縄弁】
私の庵(いおり)は都の東南にあって、このさいうに心のどいに暮らしている。
だむんぬ、私がこの世をくちさんと思って逃れ住んでいる宇治山だと、
世間の人は言っているそうですね。
「人はいふなり」と言ういらには、「自分は違うと思っている」と私は感じる。
というわけで、2の解釈の方が好きなんだけどな。
その方が、喜撰法師が、「自分は自分」という自由な考え方の人に見えて、
面白い歌に思えてくるさい。
いかがですか?
ご自分の地域は、それらしい言葉に変換をされていますか?
あ、ちなみに、文語調の短歌は、ぜんぜん変換されない気がしまする(^^)