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♪おみそしるパーティー♪

「ほにゃらか」の
古典・短歌・ことば遊び
『 題詠100首blog 』に参加中

「徒然草」 第七十七段 事情通っていってもね…。 

2006年04月04日 00時28分58秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
第七十七段も、まずは現代語訳から。

世の中で、その頃に、人々がうわさの種として言い合っていることを、
関わりのないはずの人が、よく事情を知っていて、人にも話して聞かせ、
相手にも尋ねたりするのは、納得がいかない。
特に、片田舎にいる聖法師などが、世の人の事情を我が事のように尋ね聞き、
どうしてそんなに知っているのかと思われるほど、人に言い散らしているらしい。

  ※もてあつかいぐさ(持て扱ひ種)=取り扱う事柄。うわさの種。話題。
  ※いろふ(弄ふ・綺ふ)=① 関わる。関係する。 ②口だしする。干渉する。



どこかのお坊さんで、そういう人がいるかどうかは分からないけれど、
芸能人には、そういう人がいるよね。
当事者でもないのに、事情通だかなんだか知らないけれど、
他人の結婚話・離婚話・別れ話とかになると必ずインタビューされている人。
友人面して、その人を心配して、気持ちを代弁しているような振りをしてみても、
他人のことを勝手に話す人って、信用できない気がするんだけどなぁ。

兼好さんとしては、法師がそういうことをするのは良くないと思っているんだね。
でも、法師さんじゃなくても、噂とか暴露は良くないと思うよ。


 「徒然草」 第七十七段 本文

世の中に、その比(ごろ)、人のもてあつかひぐさに言ひ合へる事、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそ、うけられね。ことに、片ほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、我が如く尋ね聞き、いかでかばかりは知りけんと覚ゆるまで、言ひ散らすめる。



さてさて、次の第七十八段は、流行に疎いぐらいの人の方が格好いいって話かな?


★この段からお読み下さった方のために。

このカテゴリーでは、吉田兼好の『徒然草』をブログに見立て、
コメントを書くつもりで、一段ずつ感想を書いています。



「徒然草」 第七十六段 聖職者は大変だね。 

2006年03月31日 11時49分00秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
「徒然草」にコメントするぞ…などというカテゴリーがあったことさえ
すっかり忘れておりましたが、題詠100首の投稿が終わってしまったので
久々に思い出してみました。

第七十六段は、まず現代語訳からお読みください。

世間からの評判が煌びやかな人の家に、
悲しみ事(葬式)や喜び事(お祝い)があって、
人がたくさん訪問したり弔ったりしている中に、
道心の深い修行僧が立ちまじって、
取り次ぎを申し込んで、待っている光景は、
そんなことをしなくても(よかろうに)と思われる。
れっきとした事情があるとしても、法師は人との交わりが浅くあるべきだ。


なるほど~。
お葬式とお坊さんは、ふつうの組み合わせかな?と思うけど、
相手が有名人の家だからという理由で、呼ばれてもいないお坊さんが
自分から尋ねてきたら、たしかにかなり変だよね。

ふだんテレビで見かけなくなったような芸能人が、誰かのお葬式の時に
姿を現して泣いていたりするのも、故人とどれほどの関わりがあったか
知らないけれど、ちょっと違和感を覚えたりする…ってこともある。

お祝い事とお坊さんの組み合わせも変だと思うけれど、
街の行事にいちいち登場する市議会議員さんも、ちょっと変だと思うよ。
ビールをケースで持ってきてくれたりして、お酒が増えるのは嬉しいけど
そのお金の出所って、税金じゃないの?などと思う。

聖職者と呼ばれる人は、おつきあいを大事にしなくても文句を言われ、
おつきあいを大事にしすぎても文句を言われ、大変だよね。


 「徒然草」 第七十六段 本文

世の覚え花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、聖法師の交じりて、言ひ入れ、たたずみたるこそ、さらずともと見ゆれ。

さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。



さてさて、次の第七十七段は、
当事者でもないのにやたらと事情に詳しい人ってどうよ?という話かな。


★この段からお読み下さった方のために。

このカテゴリーでは、吉田兼好の『徒然草』をブログに見立て、
コメントを書くつもりで、一段ずつ感想を書いています。


「徒然草」 第七十五段 世間に流されてはいかん…のか?

2005年12月26日 00時42分00秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ

ふつう?の生活を求めず、人と関わらず、技能や学問を身につけようとせず、
世間の中に起こる出来事に関わらないで、心安らかにしているのが良い…と?
何にも心を動かされず、ただ一人でいるのが一番良い…と?

それでは、生きている意味って、いったいどこにあるのかなぁ……?

人と関わらなければ、誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりすることも
少なくなるのかもしれない。
人と物事を争わなければ、恨むことも少ないかもしれないけれどね。
人と戯れることがなければ、人とのおつきあいの喜びも得られないよね。

むだに慌てふためいて、何かしなくては…と自分の人生に焦ってみたり、
むだに退屈を恐れて、習いたくもないことを習ってみたり、
他の人が良いと言うから、他の人はこうしているからと模倣するのは
ちょっとバカバカしいなぁと思うよ。

でもね、「何にもしないで、ひとりぼっちでいるのが一番」っていうのは、
間違っているような気がする
んだけどなぁ、兼好さん。

第七十五段。兼好さんが言いたかったことは、
「世間に流されてはいかんよ」
ということなのかな。
自分の信念をしっかりと持ってさえいれば、世間に流されることも、
きっと、ないよね。


第七十五段の現代語訳は、こちらです。

退屈をつらく思う人は、どういう気持ちなのだろう。
他に心をひかれることなく、ただ一人でいることだけが良いのだ。

世間の風潮に従うと、心は外界の汚れにとらわれて迷いにおちやすく、
人と交流すれば、言葉は、他の人の風聞に流され、
まったく(自分の)意志ではない。
人と戯れ、物事に争い、一度は恨み、一度は喜ぶ。
気持ちの、落ち着くことがない。
思慮分別の心がむやみに起こって、損得を思う心の絶える時がない。
迷いに心を奪われ陶酔する。
陶酔の中で夢を見る。
走り回って忙しそうで、ぼんやりとしてわれを忘れている、
人は皆このような状態である。

いまだに、真理の道を知らなくとも、
世間とのつながりを離れて心身を落ち着かせ、
世の中に起こる出来事に関わらないで心を安らかにするようなことこそ、
少しの間楽しめるとも言えるに違いない。
「生活・人事・伎能・学問等の諸縁をやめよ」
と、摩訶止観にもある。

・さながら…下に打消の語を伴って、「まったく~ない」
・安くせん…「ん」は婉曲…「安らかにするような」
・言ひつべけれ…「つべし」…「きっと~に違いない」

・摩訶止観………中国・隋代の仏書。天台三大部とよばれる。20巻。
           自己の一心のうちに森羅万象が円満具足するという、
           天台観心を詳述し、実践上の宝典とされる。

    摩訶……梵語…大きいさま。多いさま。すぐれたさま。
    止観……仏……心を一つの対象に集中させて雑念を止め(止)、
              正しい智慧によって対象を観察すること(観)。
              天台宗の中心となる行法で、
              漸次止観・円頓止観・不定止観の3種を立てる。

 「徒然草」 第七十五段 本文
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。

世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑ひ易く、人に交れば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず。人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失止む時なし。惑ひの上に酔へり。酔ひの中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。

未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁を止めよ」とこそ。摩訶止観にも侍れ。



さてさて、次の第七十六段は、法師は…という話です。


★この段からお読み下さった方のために。

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コメントを書くつもりで、一段ずつ感想を書いております。


「徒然草」 第七十四段 何のために生きるのか…

2005年12月24日 23時29分00秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
何のために生きているのだろうと思うことは、ありませんか?

もうすぐ今年も終わりです。今年、わたしは何ができたでしょう。
去年の大晦日が、まるで昨日のことのように感じられます…。
またまた不毛な1年でした。

車でクリスマスの買い物に出かけようと思ったら、道は大渋滞。
こんなにたくさんの人が、いったいどこへ向かって行くのかなぁ~と
不思議に思っている私も、その中のひとりなのですよね。

クリスマスにはケーキと鶏肉を食べなくてはいけないような気がしたり、
大掃除などしなくても死にはしないのに、なんとなくゴソゴソと掃除してみたり。
きっと大晦日には年越し蕎麦など食べていることでしょう。
年が明ければ、神社にお参りするに違いありません。
「家族みんなが、元気に楽しく暮らせますように」
そんなことをお祈りして、ちょっと安心して、1年が始まるのです。

そして、あっという間に、また来年の年末がやってくるのでしょうね。
年末になると、とても哀しい気持ちになる、ほにゃらかでした。


こちらが 第七十四段の現代語訳です。

蟻のように群がって、東へ西へと急ぎ、南へ北へと走る人、
高貴な人あり、賤しい人あり、年老いた人あり、若い人あり、
出かけるところがあり、帰る家がある。
夕方に寝て、朝になると起きる。
(そのようにして)忙しく努めるのはどういうこと(目的)だろう。
長生きすることに執着し、利益を求めて、とどまる時がない。

身を養生(長生き)して、どんなことを期待するのか。
待ち受けているところは、ただ老いと死とである。
その時が来るのはあっという間で、思いも一瞬一瞬の間に留まらない。
年老いて死ぬのを待つ間に、どんな楽しみがあるのだろうか。
(楽しみなど何もなさそうだ)
あれこれ思い悩む者は、老いて死ぬことを恐れない。
名誉と利得に溺れて、最期の近いことを顧みないからである。
愚かな人は、また、先の短いことを悲しむ。
永久不変であれ(人生が永遠に続け)と願って、
変化の道筋をわかっていないからである。


念々(ねんねん)…………①一瞬一瞬・瞬間瞬間 ②いろいろな思い。
先途(せんど)……………①前途 ②終わり・最期 ③瀬戸際 ④極官
常住(じゃうぢゅう)………①生滅変化することなく、常に存在すること。②いつも


 「徒然草」 第七十四段 本文

蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。

身を養ひて、何事をか待つ。期する処、ただ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。


さてさて、次の第七十五段は、ひとりぼっちでいるのが良いという話かな?


★この段からお読み下さった方のために。

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コメントを書くつもりで、一段ずつ感想を書いています。


「徒然草」 第七十三段 嘘ばかりの世の中? 

2005年11月28日 15時56分30秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
息子が、わりと真剣な顔で、悩みをうちあける。
「ぼく、小さい小さいって、みんなから馬鹿にされて、辛いんだよ。」
「そんなこと言われたら、小さいのも色々と便利なんだぞ、って言ってやりな。」
「うん。ぼくも、いつもそう言っている。でも、辛いんだよぉ。」
と言って、泣き出した。

そこで、ふと、私の昔話などをしてみた。
「お母さんね、高校一年の時に、男の子から告白されたことあるんだよ。
 その男の子ね、お母さんと同じくらい背が低かったの。
 顔はなかなか可愛かったんだけど、この身長はいまいちだなと思って、
 断ったのよ。
 ところがね、その男の子、高校を卒業する頃には、すご~く背が高くなって
 格好良くなっちゃったのよぉ。惜しいことしたなぁと思ったよ。
 だからね、あんたも高校生くらいになったら、きっと大きくなるよ。」

どんな話やねん…(^^;)。すると、息子、
「高校生になるまでなんて待てないよぉ」
あらら。この話は意味無かったか。

ところが、横で聞いていた娘が、話にのってきた。
「へぇ~、お母さんも告白されたことあるんだ。」
ち、どういう意味だろね~。すると娘が、嬉しそうに言う。
「あのね、私も告白されたんだよ。」
「ふ~ん。すごいねぇ。」
この娘、ありがたいことに私より旦那に似ているので、わりと可愛い。(親ばか)

すると、息子も急に元気になって、
「僕だって、このまえ告白されたんだよ。」
「へぇ~、すごいじゃん。」
「告白されたの二人目だよ。」
「あらら、小さくてもモテるならいいじゃないの。」(親ばか)

と、ここで娘のするどい突っ込み、
「ねえ、お母さんは、何人ぐらいから告白されたことがあるの?」

げ……。そんなこと聞かないでおくれよ。

ま、ここで私が嘘を言っても、誰が真実をばらすわけでもあるまい。
実際の三倍くらいの数字を言っておきましたよ。ははは…(^^;)

子供達よ、人の話に「嘘」はつきものだ。
真実を見抜く力を身につけるのだよ。ははは…(;;)


はい、現代語訳です。(この段は、とっても長いです。)

世の中に語り伝えることは、事実は面白くないからか、多くは皆、嘘の話である。

実際にあったこと以上に、人は物事を大きく言ってしまうのに、
まして、年月が過ぎて、場所も遠く隔たってしまうと、
言いたいように語ったり、書き留めてしまったりするので、
そのうちそれが事実のようになってしまう。
(学問や芸能などの)様々な方面の上手な人がすぐれていることなどを、
教養のない人で、その道を知らない人は、むやみに神様のように言うけれども、
芸道に通じている人は、けっして信ずる気も起こさない。
風聞(評判)と実際に見るときとは、何事も違うものだ。

(話す)そばから嘘がばれるのもおかまいなしに、
口から出任せにしゃべり散らすのは、すぐに根拠のないことだとわかる。
また、自分も本当らしくないとは思いながら、
人の言ったとおりに、鼻のあたりをひくひくさせながら言うのは、
その人の嘘ではない。
いかにも真実らしく(話の)ところどころをちょっといぶかしがり、
よく知らないふりをして、しかしながら、物事の端々(=つじつま)を合わせて
話す嘘は、(つい騙されるので)恐ろしいことである。
自分自身にとって名誉なように言われた嘘は、人はそれほど言い争わない。
皆が面白がる嘘は、自分ひとりが「(本当は)そうではなかったのに」
と言ったとしても、それは仕方がないので、
聞いて居た時に、証人にさえされて、いよいよ事実のようになってしまう。

いずれにしても、嘘の多い世の中である。(そのことを)
あたりまえの、普通にある、珍しくないことであると心得ていれば、
万事間違えるはずがない。
地位や格式の低い人の話すことは、聞いて驚くことばかりある。
立派な人は、不思議な(疑わしい)ことを語らない。

そうは言っても、仏や神の霊験、聖者の伝記は、
一概に信じてはならぬというものでもない。
これは、俗世間の嘘をまともに信じているのもばかばかしく、
「よもや、そうではあるまい。」などと言うのも仕方がないことなので、
たいがいは、ほんとうらしく受け答えして、一途に信じたりせず、
また、疑ったり馬鹿にしたりするべきでもない。


かつあらはるる…「かつ」=二つの事柄が連続して行われる。次々に。
浮く =根拠がない。いい加減である。
聞こゆ=理解される。判明する。
虚言 =「うそ」というよりも、根拠のない話


 「徒然草」 第七十三段 本文

世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。

あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔りぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。道々の物の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起さず。音に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。

かつあらはるるをも顧みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて、浮きたることと聞ゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐しき事なり。我がため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮なくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。

とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍らしからぬ事のままに心得たらん、万違ふべからず。下ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。

かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。



さてさて、次の第七十四段は、
「人は何の為に生きているのだろう…」と考えさせられる話です。


★この段からお読み下さった方のために。

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「徒然草」 第七十二段 下品でごめんよ~(;;) 

2005年11月04日 13時44分34秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
「さて、掃除機でもかけようか」と思い、子供部屋のドアを開ける。
そこで私は、「げ…」となって絶句する。

子供が脱いだパジャマは、脱いだ形を保って<抜け殻>状態。
昨日遊んだお絵描きの道具は、色鉛筆も、鉛筆も、ペンも入り交じり、
しっちゃかめっちゃか、カゴからあふれている。

机の上には、わずかに勉強した形跡を残そうというのか、ワークブックが……。
ワークブックを机の本立てに収めようとすると、そこには何故かぬいぐるみ。
ぬいぐるみ一つならまだしも、何体も何体も……。
いったい何のおまじないをしていたんだい?
本立てに、本がほとんど入っていないというのは、どういうことなんだい?

収める物を収めるべき場所に突っ込まないと、掃除機もかけられないよ。

ため息をつきながら片づけから始め、やっと掃除機をかけ終わる頃には、
イライラむかむかしている。 いったい誰がこんな育て方をしたんだろう。

気を取り直してリビングに向かう。
「あ……」
いかん…。私のパソコンが置いてあるテーブルの上も、ゴチャゴチャだ。

さて、掃除も終わり、花に水遣りでもしようかと玄関をあける。
「ああ……」
植木鉢からはみだしまくる謎の植物くん(写真)。でかいよ、君。


というわけで、今日のことわざ。
「人のふり見て我がふり直せ」「親を見て子は育つ」


あ、いや違うよ。 ことわざを書いてどうする。

つまり、「徒然草」第七十二段の兼好さんの考えによれば、
我が家は、賤しげなる物だらけ、ということに気づいたのでした。
ごめんよ、兼好さん。もうすこし片づけるようにするよ。



第七十二段の現代語訳と、語句の解説はこちらです。

下品だなぁと思うもの、座っているあたりに日常使う道具が多いこと。
硯のまわりに筆がたくさんあること。
持仏堂に、仏像がたくさんあること。
庭先の植え込みに、石や草木の多いこと。
家の中に子や孫がたくさんいること。
人に会って、やたらと言葉数が多いこと。
祈願する文に作善(さぜん)したことをたくさん書き連ねていること。

多くても見苦しくないのは、文車の上の書物。
ゴミ捨て場のゴミ。


持仏(ぢぶつ)……自分の居室に常に安置し、またいつでも身から離さずに信仰している仏像

持仏堂(~だう)…持仏または祖先の位牌を安置する堂または室。仏間

作善(さぜん)……仏事・供養を行うこと。
         また、仏像を造り、堂や塔を建てるなど、一切の善事をなすこと。

文車(ふぐるま)…書物をのせて運ぶ、屋内用の板張りで屋形のついた小型の車。
         今でいうところのキャスター付きのワゴンみたいなもの?


 「徒然草」 第七十二段 本文

賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。持仏堂に仏の多き。前栽に石・草木の多き。家の内に子孫の多き。人にあひて詞の多き。願文に作善多く書き載せたる。

多くて見苦しからぬは、文車の文。塵塚の塵。




さてさて、次の第七十三段は、世の中の話は嘘まみれ?という話です。


★この段からお読み下さった方のために。

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吾妻利秋さんの「徒然草」の現代語訳は、とても分かりやすく、面白いのでお薦めです。


「徒然草」 第七十一段 私だけ~?

2005年11月03日 10時39分10秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
小説などを読んでいるときに、登場人物を、自分の知っている人や
役者さんなどに置き換えてイメージしていることってありますよね。
外国のドラマを日本人の役者さんに置き換えてみるのも楽しいです。

アメリカの「24-TWENTY FOUR-」で考えてみました。
主人公・ジャックを日本人が演じるとしたら誰でしょうね~。
若かりし頃の千葉真一さんが頭に浮かんでしまった……。
つ…強すぎるかもしれない。もう少し、切ない感じが欲しいです。

豊川悦司だったらどうだろう。切ない感じはあるけれど…。よわ…。

トニー・アルメイダは、平井堅くん。いや、深い意味はなく見た目だけ。
平井堅の「POP STAR」のプロモビデオ、見たことありますか?
アフロヘアーにサングラスの姿が、トニーにそっくりなんですね~。

『美味しんぼ』は、すでに映像化されてしまったけれど、
私の中で海原雄山は絶対に「三国連太郎」さんなんですよ。
そして山岡士郎は「佐藤浩市」さんでなくちゃ駄目なのね。

問題は栗田さん。三田寛子もいい線いっているけど、京都弁はね~。
山口百恵さんもいいなぁ~。

ああ…みんな20年ほど若返ってくれないかなぁ~。

そうそう。ブログでお友達になった人も、写真が公開されていると
雰囲気をイメージできますけれど、想像だけだと出逢った時に
びっくりするかもしれませんよね(^^)

あと、話は変わりますが、デジャブーってありますでしょう?
あれって、いったい何なんですかね~。

それにしても、『徒然草』の第七十一段、いまいちまとまりがないように
思うのは私だけでしょうか。

「私だけ~?」「私だけ~?」って…だいたひかる?兼好さん…。

はい、現代語訳です。

人の名を聞くと、すぐに、その人の顔かたちは見当が付くような気持ちになるが、
実際に会ってみると、前々から思っていた通りの顔をしている人はいなかったり、
昔ばなしを聞いても、現代の人の家の、あの辺りであったのかなと思われ、
(物語中の)人物も、今見知っている(実在の)人の中に自然と思い合わせられるのは、
(自分だけではなく)誰でもこのように感じるのであろうか。

また、ちょっとした時に、ちょうど今、人の言っていることも、
目に見える物も、自分の意識の中に(あるように思え)、
こんなことがいつだったかあっただろうかと思えて、
いつのこととは思い出せないけれども、確かにあったような気がするのは、
私だけがこんなふうに思うのだろうか。


 「徒然草」 第七十一段 本文

名を聞くより、やがて、面影は推し測らるる心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ、昔物語を聞きても、この比の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。

また、如何なる折ぞ、ただ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。



さてさて、次の第七十二段は、「見苦しいもの・見苦しくないもの」の話です。


★この段からお読み下さった方のために。

このカテゴリーでは、吉田兼好の『徒然草』をブログに見立て、
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吾妻利秋さんの「徒然草」の現代語訳は、とても分かりやすく、面白いのでお薦めです。

「徒然草」 第七十段 ミステリーだよ

2005年10月19日 10時13分10秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
まずは口語訳から。

元応(後醍醐天皇)即位の前年に、清暑堂で行われた御遊のおり、
玄上(琵琶の名器)は行方不明になっていたので、
菊亭の大臣が牧場(玄上に次ぐ名器)を弾奏なさったときに、
着座して、まず琵琶の弦の支柱の調子をさぐっていらしたところ、
その柱のひとつが落ちてしまった。
菊亭大臣は、ふところに飯糊をお持ちになっていたので、
柱を取り付けられたから、神への供物があがるまでの間によく乾いて、
(演奏する頃には)差し障りがなかったという。

どんな恨みがあったのだろうか。見物をしていた衣を被った女が、
牧馬に近寄り、柱をはずし、もとのように置いてしまったということだ。


玄上(玄象)は、内裏から盗まれて、二年余り紛失していたそうです。
のちに、京都七条の土倉玄海法印のもとに持ち込まれていたことが発覚。
六波羅探題の強制捜査の結果、犯行に関係した者たちが逮捕され
玄象は内裏に戻されたということです。

後醍醐天皇は音楽・楽器が大好きで、とくに琵琶や笛の愛好家。
音楽も和歌と同じように、政治と密接な関係があったようです。

玄上の盗難事件は、政治的なことと無関係ではないのかもしれません。

第七十段のミステリーも、政治的なことと関係があるのでしょうか。

それにしても、この段は、突っ込みどころ満載です。
菊亭大臣さんは、どうしてふところに飯糊なんかを忍ばせていたのでしょう。
だいたい、飯糊なんかで、琵琶の支柱がくっつくものでしょうか。
このミステリアスな女は、どうしてそんなことをしたんでしょうね~。

当時の琵琶っていうのは壊れやすいとかで、用心深く準備して
大役に挑んだとも考えられますが、
もしかして菊亭大臣さん、あなた自身がずっと前に壊してしまったのを
それまでひた隠しに隠していたとかということはありませんか?

そして、ミステリアスな女は、兼ねてからそのことを知っていた。
「菊亭大臣さんは、きっと何とかして誤魔化そうとするに違いないわ。
 私は、そんな卑怯者を許せなくってよ~!」
ってなことではありませんかね~。

そうそう。先日、今さらかよ!の「24 シーズンⅢ」を見ました。
これまた突っ込みどころ満載でした。

ジャック、あなたは24時間で薬中毒が抜けるんですか?
アルメイダ、あなたは命にかかわるような手術の後、
数時間も経たないうちに絆創膏だけ貼って働くとは、すごすぎますよ。
ミッシェル、治療法のないウイルスまみれの中にいて
「感染しない人は免疫があるらしいわ」って、いつ免疫が???
大統領。あなたは、国家の大事件の最中に、いつも家庭の問題に
ふりまわされすぎですよ。
挙げれば切りがありません……。

何が言いたいかというと、「徒然草」第七十段は、
「24 シーズンⅢ」と同じくらい、不可解でした…ということです。

 「徒然草」 第七十段 本文

元応の清暑堂の御遊に、玄上は失せにし比、菊亭大臣、牧馬を弾じ給ひけるに、座に著きて、先づ柱を探られたりければ、一つ落ちにけり。御懐にそくひを持ち給ひたるにて付けられにければ、神供の参る程によく干て、事故なかりけり。

いかなる意趣かありけん。物見ける衣被の、寄りて、放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。


さてさて、次の第七十一段は、ネットの友だちの話? デジャブーの話?


★この段からお読み下さった方のために。

このカテゴリーでは、吉田兼好の『徒然草』をブログに見立て、
コメントを書くつもりで、一段ずつ感想を書いています。


吾妻利秋さんの「徒然草」の現代語訳は、とても分かりやすく、面白いのでお薦めです。

「徒然草」 第六十九段 豆殻で豆を煮る

2005年09月28日 23時30分00秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
この段を読んで、ある漫画を思い出しました。
それは、『美味しんぼ』「豆殻で豆を煮る」第六十三巻です。

東西新聞と海原雄山が危機に陥ったとき、
栗田は海原を助けてあげてと山岡に頼むが、山岡はそれを断る。
すると、栗田がひどくまずい大豆の煮ものを食卓に出す。

<栗田>
豆も豆殻も、もとは同じ豆の枝に育ったもの。
それがわかれて、豆を煮るために豆殻が燃やされる。
このことわざは、兄弟が相争うことを戒めて言うことよ。

<山岡>
それが どうした?

<栗田>
豆殻で煮た豆は、まずいに決まっているわ。
兄弟が憎み合う味ですもの……。
ちょうど この煮豆のように……。

でも、この煮豆をまずいなんて言わないでね。
子供が親を憎む味の悲惨さは、こんなものじゃないのよ。

<山岡>
うっ

<栗田>
本当にまずい。
まずいわ……。

とかなんとか栗田さんが山岡さんに説教したので、
山岡は海原雄山を助けてあげることになるんですな。

で、この段は何が言いたかったのですかね。
そういうこと(身内が争うのはよろしくない)を言いたかったのか?
六根清浄を達成した上人さんの、「耳」のすごさを言いたかったのか?


では口語訳をどうぞ。

書写の上人(書写山の開祖・性空上人)は法華経を読経するという
功徳を積み重ね、六根清浄を達成した人だと言われている。

この上人が旅行中、仮寝の宿にお入りになった時に、
豆の殻を焚いて豆を煮る音がぐつぐつと鳴るのをお聞きになったので、

「交わりの浅くない我々であるというのに、恨めしい。
 この私を煮て、なんと辛い目に遭わせるのですか。」と言ったという。

焚かれる豆殻のバチバチと鳴る音は、

「私が望んですることでしょうか(望んでいるわけではないのです)。
 我が身を焼かれるのは、こんなにも堪え難いですけれども、
 どうしようもないことなのです。そんなにお恨みに下さいますな。」

と聞こえたという。


六根浄(ろくこんじょう)は、六根清浄(ろっこんしょうじょう)のこと。
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の汚れを払って、心身共に清浄となること。

つまり、この上人さんは、眼も耳も鼻も舌も身も意も冴えていたので、
豆殻と豆の会話が聞こえたということなんですね。

……って、そんなことあるかいっ!!

 「徒然草」 第六十九段 本文

書写の上人は、法華読誦の功積りて、六根浄にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるる豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるるはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。



さてさて、次の第七十段は、かなり難しい話です。


★この段からお読み下さった方のために。

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コメントを書くつもりで、一段ずつ感想を書いています。


吾妻利秋さんの「徒然草」の現代語訳は、とても分かりやすく、面白いのでお薦めです。

「日記(protozoaの日記)」の徒然草は、原文・口語訳・意訳・感想で構成されています。

「徒然草」 第六十八段 あなたのピンチを救う食べ物は?

2005年09月25日 21時04分00秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
健康のために毎日食べ続けている物はありますか?

「徒然草」の第六十八段は、大根に助けられた話です。

薬になると思って大根を食べ続けたら長生きした、というのではなく、
ピンチの時に大根が二本出てきて、敵と戦ってくれて、助かったんですって。
「あなたが食べ続けた大根めにございます」って……。
おいおい! 日本昔話かい(^^;)

「にほんむかしばなし」で変換しようとしたら、「二本昔話」になった。
これも大根のパワーか?

私が毎日食べている物は何だろう。お米かな?
コーヒーなら毎日飲んでいる。万病の薬とは思ってないけど。
リラックスは、できる気がする。
あ、缶ビール1本位はくらいは、ほとんど毎日飲んでいるよ。
すぐに眠くなるけどね。
う~む。ピンチの時に助けに来てくれそうな食べ物は何かなぁ~?

あなたのピンチを救ってくれそうな食べ物は何ですか?


口語訳はこちらです。(「ありけるにこそ」の訳が自信ないです)

筑紫の国(九州)に、なんとかいう、押領使というような役目の人がいた。
土大根を何にでも効く良い薬だと思って、毎朝二本ずつ焼いて食べ続けて
長いこと経った。
ある日、屋敷の中に人のいない隙を見計らって敵が襲ってきて
取り囲まれてしまった時に、屋敷の中に武士が二人現れて、
命をかえりみずに戦って、敵を皆追い返してしまった。
とても不思議に思って、
「日頃ここで働いているとも見えない方々が、
 このように戦って下さるとは、いったいどういう方ですか?」
と聞いたならば、
「あなたが何年来信じて、毎朝召し上がった土大根めにございます」
と言って、消えてしまった。

どんなことでも深く信心してをれば、このような恩恵もあるのだなぁ。


押領使(おうりょうし)…令下(りょうげ)の官の一。軍事的官職。
     罪を犯したり、国を乱したりする者があるとき、
     地方にあって兵を率いてこれを討つ役。


 「徒然草」 第六十八段 本文

筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづゝ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。

或時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来りて、囲み攻めけるに、館の内に兵二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追ひ返してンげり。いと不思議に覚えて、「日比こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候う」と言ひて、失せにけり。

深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。



さてさて、次の第六十九段は、豆殻で豆を煮る???話です。


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★protozoaさんの「日記」にも「徒然草」のカテゴリーがあり、そちらも参考になりますよ。

「徒然草」 第六十七段 歌の神様

2005年09月16日 17時49分00秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
ちょっと長い話なので、まずは要点から。

二つの社があって、在原業平さんと藤原実方さんを祀っている。
どちらがどちらを祀っているか、いつも皆に混同されている。
兼好さんも知らなかったので、宮司さんに聞いてみたら、
たいへん丁寧に説明してくれた。
この神社の前では、今出川院近衛さんという女流歌人も歌を詠んだ。

というような話。

どちらの社に、どちらの人が祀られているか分からなくなる。
そういうことって、色々ありそうな気がする。
どちらがどちらかを見分ける宮司さんの説明は、すごい。
色々な知識がないと、そういう判断はできないだろうという説明だ。
でもさ、その社を建てた時に、看板を立てておけばいいのにね。

どんな説明か興味のある方は、口語訳をどうぞ。

賀茂別雷神社の境内にある二つの神社の岩本社と橋本社は、
それぞれ在原業平、藤原実方を祀っている。
人々がいつも(どちらがどちらを祀っているか)言い間違えるので、
ある年、お参りした時に、通りかかった年老いた宮司を呼び止めて、
尋ねてみたところ、
「実方さんを祀ったのは、お浄めの水に影が映ったということですので、
橋本社の方でしょう。
こちらの方が(岩本社より)水辺に近いので、そのように思われます。

また吉水和尚(慈円僧正)が

月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら

(歌の解釈:月を愛し花を眺めていた昔の風流人は
            今はここに祀られている在原業平)

とお詠みになった場所は、岩本社の方とだと聞いております
(だから、業平さんが岩本社に祀られていると思います)けれど、
私どもよりは寧ろ、あなたのようなお方がよくご存知だと思います」と
実に謙虚に教えてくださって、とても素晴らしいと感じた。

今出川院の中宮、嬉子に仕えた近衛という女流歌人(宮廷の女官)で、
公式和歌集などの選集の類に数多く歌をとりあげられてる人がいる。
この人は、若いときに、いつも百首の歌を詠んで、
この二つの神社の御前の水で清書し、和歌の神様(業平)に供えたという。
ほんとうに大変な名声を得た方で、人々に愛唱される歌が多い。
作文や、その詩の序文に至るまで、立派なものであった。

今出川院近衛さんという宮廷女官の歌には、どんな作品があるのでしょうね。
調べたら、こちらのサイトに数首の歌が載っていました。

 「徒然草」 第六十七段 本文

賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひ粉へ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚の、

月をめで花を眺めしいにしへのやさしき人はここにありはら

と詠み給ひけるは、岩本の社とこそ承り置き侍れど、己れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ」と、いとやうやうしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。

今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられけり。まことにやんごとなき誉れありて、人の口にある歌多し。作文・詞序など、いみじく書く人なり。



さてさて、次の第六十八段は、日本昔話のような話です。


★この段からお読み下さった方のために。

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吾妻利秋さんの「徒然草」の現代語訳は、とても分かりやすく、面白いのでお薦めです。

「徒然草」 第六十六段 プレゼントの作法?

2005年09月02日 22時22分00秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
とても分かりにくい話なので、まずは意訳から。

岡本関白殿が、鷹匠の武勝に
「花が咲いている紅梅の枝に雉を2羽添えて、
 それを枝にくくりつけて献上しなさい」と命令したら、武勝は
「花が咲いている枝に鳥をつけるやり方も、
 まして1枝に2羽の鳥をつけるやり方も知りません」と答えた。
岡本関白殿は、料理人や心当たりの人にも聞いてみたが
わからなかったので、
「じゃあ、お前の好きなようにつけて提出しなさい」と命じた。
すると、武勝は花のない枝に雉を1羽つけて差し上げた。

武勝が「鳥を枝にくくりつけるやり方」を説明した部分。
          ↓  
キジはふつうの木の枝や梅の枝の、まだつぼみのものや
散ってしまったものに結びつける。
五葉の松などに結びつけることもある。
枝の長さは2m10cmか、1m80cmくらいで、
枝を斜めに切り、その切り口の反対側も1cm5mmほど削って揃える。
キジは枝の真ん中に結びつける。
キジを結びつける枝と、踏ませる枝がある。
青つづら藤の蔓を割かずにそのまま使い、2か所を結びつける。
結びつけた藤の蔓の先は、鷹の火打形の羽に合わせて切り揃え、
牛の角みたいに結ぶのがよろしい。

さらにそれを献上する作法について説明した部分
            ↓
初雪の朝に、鳥をつけた枝を持って、わざとらしい振る舞いで献上する。

(以下、長々しいので、ほにゃらかによって省略)

武勝の言った「花のついた枝に鳥はつけない」というのは、
どういう意味なのだろうか。
9月ごろ、梅の造花に雉を付けて、
<君がためにと折る花は時しも分かぬ>(※)と言ったということが
「伊勢物語」にあるが、造花ならばさしつかえないのだろうか。

※「ほかならぬあなた様のためにと思って折った花は、
   季節もわからず、秋なのにこのとおり咲いております」という意味


この段については、いろいろな見方があるようです。

1,岡本関白殿が、男色だったので、武勝がバカにして逆らった。
2,武勝の「鷹匠としての鳥を献上する際の作法」へのこだわりと、
  それを受け入れ、また他の人の意見を聞いた岡本関白殿の器の大きさ。
3,武勝が主君に対して、恐れずに正しいと思うことを進言した。

とにかく、内容はそういうことです。

もし貴方が、上司や目上の人から「おかしな命令」をうけたとしたら。
自分の得意分野のことで、どう考えても作法がおかしいと断言できる場合、
貴方は、「その命令は間違っていますよ」と進言できますか?

そうそう。武勝が長々と語った「枝に鳥をくくり付ける方法」、
わかりやすく図解しようと思い、何度もなんども読み返したのですが、
さっぱりわかりませんでした…♭



 「徒然草」 第六十六段 本文

岡本関白殿、盛りなる紅梅の枝に、鳥一双を添へて、この枝に付けて参らすべきよし、御鷹飼、下毛野武勝に仰せられたりけるに、「花に鳥付くる術、知り候はず。一枝に二つ付くる事も、存知し候はず」と申しければ、膳部に尋ねられ、人々に問はせ給ひて、また、武勝に、「さらば、己れが思はんやうに付けて参らせよ」と仰せられたりければ、花もなき梅の枝に、一つを付けて参らせけり。

武勝が申し侍りしは、「柴の枝、梅の枝、つぼみたると散りたるとに付く。五葉などにも付く。枝の長さ七尺、或は六尺、返し刀五分に切る。枝の半に鳥を付く。付くる枝、踏まする枝あり。しじら藤の割らぬにて、二所付くべし。藤の先は、ひうち羽の長に比べて切りて、牛の角のやうに撓むべし。初雪の朝、枝を肩にかけて、中門より振舞ひて参る。大砌の石を伝ひて、雪に跡をつけず、あまおほひの毛を少しかなぐり散らして、二棟の御所の高欄に寄せ掛く。禄を出ださるれば、肩に掛けて、拝して退く。初雪といへども、沓のはなの隠れぬほどの雪には、参らず。あまおほひの毛を散らすことは、鷹はよわ腰を取る事なれば、御鷹の取りたるよしなるべし」と申しき。

花に鳥付けずとは、いかなる故にかありけん。長月ばかりに、梅の作り枝に雉を付けて、「君がためにと折る花は時しも分かぬ」と言へる事、伊勢物語に見えたり。造り花は苦しからぬにや。



さてさて、次の第六十七段は、在原業平と、藤原実方と、
今出川院の中宮・嬉子に仕えた近衛という女官の話のようです。

★この段からお読み下さった方のために。

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吾妻利秋さんの「徒然草」の現代語訳は、とても分かりやすく、面白いのでお薦めです。

★第六十六段に関しては、こちらもお読みになると、とても参考になります。

こちらも、第六十六段の意味を理解するたすけになります。

★つづら藤は、四季の移ろいの日記ページの写真を参照してください。

★雉・鷹は、「今日の野鳥」の写真を参照してください。

★protozoaさんの「日記」にも、鳥のくくりつけかたの図説があります。

「徒然草」 第六十五段 上げ底の話?

2005年08月17日 18時47分55秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
まずは現代語訳から

最近の冠(かんむり)は、昔の冠よりもはるかに(丈が)高くなっているようだ。
昔の冠ケースを持っている人は(、小さいケースの)端っこをつなぎ足して、
今は使っているようだ。

へ~。冠にも、流行廃りがあるんですね~。
この話を通して、兼好さんは何を言いたかったのか、考えてみました。

1,単に流行の移り変わりのこと
2,物には、それに適した入れ物(器)があるということ
3,無駄に上げ底をするのはバカバカしいということ
4,リサイクルできるものはリサイクルしようということ

ポイントはどこにあるのかわからないけれど、
この段を読んで、いろんなことが頭に浮かびました。

1,一昔前、すご~く上げ底のサンダルが流行しましたよね。
   (怪我をした女の子は、けっこう多かったみたいです。)

  もっともっと昔には、すご~いリーゼント頭が流行しました。
   (無駄に高々と積み上げた前髪が重そうでした。)

2,軽専用の駐車スペースに、ベンツを停めたらはみ出しますか?

  足の大きさよりも小さいクツは履けませんよね。

  大型犬を、小型犬用の犬小屋に入れたら、きっと窮屈でしょう。

3,コックさんの帽子は、丈が高いほど偉いそうですね。
   (無駄かどうかは知りませんが、作業効率は下がる気がしますよ。)

  身長制限の検査に合格するため、頭にシリコンの注射をした
  お相撲さんがいましたよね。
   (注射で合格になるなら、注射しなくても合格でいいのでは?)

4,流行を追いかけていると、お金がかかるでしょうね。
   (人に見られるような物にはお金をかけて流行を追いかけ、
    人には見られないような部分で切りつめている人、多いんじゃない?)


上げ底をして大きくなると、強そうに見えたり、偉そうに見えたり。
たしかに、見た目は大事です。
でも、せっかく上げ底をするなら、入れ物(器)もでかくしないとね。
入れ物をでかくするなら、本当の中身もでかくしないとね。
実力があるのならば、上げ底なんか必要ないでしょう。
リサイクルも大事ですが、無駄な物を作らないことも大事ですよね?


 「徒然草」 第六十五段 本文
この比の冠は、昔よりははるかに高くなりたるなり。古代の冠桶を持ちたる人は、はたを継ぎて、今用ゐるなり。



さてさて、次の第六十六段、キジを枝に結びつけるってどういうことよ?

★この段からお読み下さった方のために。

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吾妻利秋さんの「徒然草」の現代語訳は、とても分かりやすく、面白いのでお薦めです。

「徒然草」 第六十四段 のぼりつめてみたい…

2005年08月16日 14時07分30秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
ますは現代語訳から。

「牛車のすだれについている五本の帯というのは、
 乗る人が決まっているわけではなく、
 その家格に応じて最高になる官位に達してしまうと
 必ず乗るものである。」とある人が仰っていた。

社長さんの乗る車と、一般社員が乗る車は違うぜ、みたいなことかな?
飛行機の機長さんと副操縦士とでは、袖や肩についているラインの数が
違うぜ、みたいなことかな?

うちの子供の通っている学校では、水泳の検定に合格すると
短い紐みたいなのを1本ずつ貰えます。
それを水泳帽に縫いつけておく決まりになっているので、
本数が多いほど級が上だとアピールできるわけです。
さらに級が上がっていくと、紐の色が変わります。
紐が少なかったり、学年にふさわしくない色の紐しかついていないと、
かなり恥ずかしい状況になります…。

いつの時代から、位の高さを紐の本数で表すようになったのでしょうね。


 「徒然草」 第六十四段 本文

「車の五緒は、必ず人によらず、程につけて、極むる官・位に至りぬれば、乗るものなり」とぞ、或人仰せられし。



さてさて、次の第六十五段は、冠と冠ケースの話みたいです。

★この段からお読み下さった方のために。

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吾妻利秋さんの「徒然草」の現代語訳は、とても分かりやすく、面白いのでお薦めです。

「徒然草」 第六十三段は、正月の行事に不似合いな警備員の話

2005年08月04日 18時15分04秒 | ★古典「徒然草」にコメントするぞ
なんのことやらわかりにくいので、言葉の意味を先に書きましょう。


後七日(ごしちにち)…正月八日から十四日までの七日間。
           宮中で神事を行う「前七日」に対して、仏事を行う期間。

阿闍梨…1,弟子を導き、その師範となる徳の高い僧
      2,天台宗・真言宗で、僧職のひとつ。

武者(むしゃ・むさ)…武士・軍人

宿直人(とのゐびと)…宿直をする人

ことことし(事事し)…大げさだ。仰々しい。

修中…調べたが不明。仏道修行中という意味かな?
      ここでは、後七日の祈祷中という意味だろうか。

要するに、泥棒に入られたことのあるお坊さんが、
お正月の祈祷だっていうのに警備員を配備してしまったので、
せっかく厳かであるべき正月の行事を、物々しくしてしまった。
一年の計は元旦にあるっていうのに、先が思いやられるよ。

って話かな。

ふと思ったよ。
今時の「成人式」は、警備員がいないと大変なことになるらしいね。
まあ、泥棒とはまた別の話だけど、せっかく「成人」したっていうのに、
情けない話だよね。


思いっきり季節はずれのお話でごめんよ。

 「徒然草」 第六十三段 本文

後七日の阿闍梨、武者を集むる事、いつとかや、盗人にあひにけるより、宿直人とて、かくことことしくなりにけり。一年の相は、この修中のありさまにこそ見ゆなれば、兵を用ゐん事、穏かならぬことなり。



さてさて、次の第六十四段は、登りつめてみたい話??


★この段からお読み下さった方のために。

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