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♪おみそしるパーティー♪

「ほにゃらか」の
古典・短歌・ことば遊び
『 題詠100首blog 』に参加中

「鈴木英子集」

2005年08月29日 19時51分58秒 | ★私の好きな歌人たち
 セレクション歌人シリーズ(邑書林)から、
 待ちに待った「鈴木英子集」が発売されました。

「鈴木英子集」は三部構成。
「短歌」と「散文」+「鈴木英子論(藤原龍一郎著)」

<短歌>

第1歌集「水薫る家族」抄 (新鋭歌人シリーズ・牧羊社刊)
第2歌集「淘汰の川」抄  (ながらみ書房刊)
第3歌集「油月」     (「鈴木英子集」のための書き下ろし歌集)

<散文>

桃の子日記
二十三年目の詠み人しらず
寺山修司のテスト
新井貞子ノート

<鈴木英子論>
「人間愛の歌人」…藤原龍一郎著


発売前から本屋さんに予約して、発売されるのを、
ず~~~っとず~~~っと待っていました。
数日前に書店から「入りましたよ」という電話を頂き、
すぐに自転車を漕いで行きました。

すご~く良くて、何度もなんども読み返しました。

短歌を読んで感動し、散文を読んでまた感動し、
それからもう一度短歌を読むと、さらに深く味わえました。

発売されたばかりの歌集なので、具体的な歌は内緒にしますが、
「油月」の中のⅢの「ひなたぼこり」「やどかり」「ひらひら」などが
特に良かったです。
短歌が好きな人だけでなく、すべての人に読んでもらえたらと思う1冊でした。

※セレクション歌人シリーズは、
邑書林の公式HPからメールで注文できるらしいです。

題詠マラソン(2004) 鈴木英子作品

2004年10月26日 14時43分05秒 | ★私の好きな歌人たち
「題詠マラソン」という企画があったようです。

残念ながら、2004年はもう受付を終了してしまったようですが、
その中に、とっても素敵な歌をたくさん発見しました。

もちろん、私の大好きな「鈴木英子」さんも参加されています。
鈴木さんの作品は、こちらからご覧頂けます。

私が、とってもいいな~と思った歌を、いくつかご紹介しますね。



  言葉もたぬ娘五歳をいだきたりそなたうつつの人魚姫かも    (姫)


  どんな身が在っても不思議でないことの大学病院ロビー明るき  (ロビー)


  不機嫌へもぐらんとする男の子 聞けよ母とは強靭な胃だ    (胃)


  望みはただ娘の奪還 しわぶくろのようにちいさくなりし母いる (望)


  背を押して欲しいひとだけお掛けなさい当たるも八卦当たらぬも恋(八)


  「きれいだ」とあさがおを見し一言のひとの夫の声のすずしさ  (あさがお)


 …………2004年 題詠マラソンより、鈴木英子…………

        ※( )内はお題です



他にも、いっぱい・い~っぱい素敵な歌がありますので、
ぜひご覧になってみて下さいね。

『淘汰の川』 を読んで⑧

2004年10月04日 18時47分09秒 | ★私の好きな歌人たち
<妻となり・母となり・そして人間として生きる>


『淘汰の川』発行から、12年あまりの月日が流れた。
詳しいことはわからないが、現在 鈴木英子さんは、
「第3歌集」の準備中のようである。

次の歌集の中には、鈴木英子さんが、身ごもり母となるまでの
喜びや不安を歌った歌も、きっとあることだろう。

彼女なら、その心境を、どんな言葉で、
どんな表現で歌ってくれるのだろうか。

子育ての楽しさや大変さを、どのようにとらえてくれるのだろうか。
そして、夫婦の愛情を、どんな風に歌ってみせてくれるのだろうか。

この社会の有様を、彼女はどう評価し、その社会とどう関わっているのか。

様々な面から、私は、次の歌集が楽しみで仕方がない。



『淘汰の川』 を読んで⑦

2004年10月04日 14時37分00秒 | ★私の好きな歌人たち
<愛・家族・そして死 ④>



  頬にちいさくキスして去りしインドの子その子の産毛の濃さたくましさ

                   ( Ⅲ 産毛 )


  誰を待つ誰とも知れぬ人を待つ物乞いたちのカースト制度

                   ( Ⅲ 産毛 )


  雨降ればつぎつぎと傘が現るる東京を今遠く隔たる

                   ( Ⅲ 彼の名はセバスチャン )


  どのヌーが合図したのか正確な間(ま)を空け長き隊列のゆく

                   ( Ⅲ 淘汰の川 )


  隣国へ草を求めてマラ川を淘汰の川をヌーが渡れる

                   ( Ⅲ 淘汰の川 )


  陽(ひ)の強き時間にやっと安らぎて草食たちは曳く影もたず

                   ( Ⅲ 淘汰の川 )


  「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて」サバンナで逢う古典の光

                   ( Ⅲ 淘汰の川 )


  蜜柑いろの今日の三日月 幼なき日白と思いしものの色づく

                   ( Ⅲ 夢の変形 )


  どこからが大海なのか井の中の蛙(かわず)変わらず考えている

                   ( Ⅲ 井の中の )


  大海も大いなる井の中なるや蛙(かわず)ぬるっと顔を上げたり

                   ( Ⅲ 井の中の )


  ダイレクトメールを食べてどの箱もいよいよ同じ表情となる

                   ( Ⅲ 白夜(はくや) )


  発育の遅き子宮と語る医師 誰にも表情なき笑みするや

                   ( Ⅲ 白夜(はくや) )


  母となる前の友らは髪切りて少女の頃の涼しき顔せり

                   ( Ⅲ 白夜(はくや) )


  ラワン材積みたる車と擦れ違うあれは私の国へ行く木々

                   ( Ⅲ 炎天に伐る )


  満ち欠けを繰り返す月が照らしおり 欠けゆくばかりのボルネオの樹々

                   ( Ⅲ 炎天に伐る )


  日本人墓地への道を阻むごと虐殺されし華僑の碑が立つ

                   ( Ⅲ 唐(から)ん国へ )


  祖父母逝き子ら出てゆきぬ父母(ちちはは)の見送り続けし生活があり

                   ( Ⅲ 移住権 )


  エッシャーのメビウスの輪に巻かれおりおぼろに隔たる新春の街

                   ( Ⅲ 移住権 )


一見すると、旅の歌のように見えるかもしれないが、
根底にあるものは、変わらない。

遠き異国にあっても、その国の「不幸」を「他人事」として
片づけないのが鈴木英子だ。

どんな環境にあっても、強く生きる人たちの姿に敬意表し、
自国のあり方、自分のあり方を、厳しく自分に問いかける。
草食のヌーが、自分で自分の道を切り開いて行くように、
鈴木英子自身も「淘汰の川」を渡らんとする決意が見える。

大海にあっても、そこが大海であるのか、井の中であるのか
きちんと考え、見極め、顔を上げて生きようとする。

まだ、子宝を授かることが出来ないでいた彼女の、
「母」になろうとする友達への思いなども見え隠れする。

第Ⅲ部では、まさに「情熱と理性」の彼女らしい
作品を見ることができる。

(つづく)

『淘汰の川』 を読んで⑥

2004年10月04日 14時24分00秒 | ★私の好きな歌人たち
<愛・家族・そして死 ③>


  わたくしにレンズ向けいる無防備な君もこの眼の被写体となる

                   ( Ⅱ 被写体 )


  君の部屋にわれの生活つつましくはびこらせおり去年(こぞ)より今年

                   ( Ⅱ 被写体 )


  旅の絵本つねにかかえていし彼の左脳のしわに満月したたる

                   ( Ⅱ 旅の絵本 )


  高層の住居をわれらの棲み家とし風の集うを寄り添いて見る

                   ( Ⅱ 春の路上に )


  生徒なりし子に似る後ろ姿見き誤りたきことあり春の路上に

                   ( Ⅱ 春の路上に )


  子供なき若き夫婦は何となし疎外されいる団地の日曜

                   ( Ⅱ 江戸っ子家族 )


  今もあの部屋に未婚のわれがいん既婚のわれより電話してみん

                   ( Ⅱ 江戸っ子家族 )


  一生を独身(ひとり)に過ごし父母と同じ場所にて眠るあこがれ

                   ( Ⅱ 江戸っ子家族 )


  住む場より労働の場の候補者に詳しくテレビを見る君とわれ

                   ( Ⅱ 犯罪論 )


  おさなづまにあらざれば惑い多くあり川の流れのこえに揺らるる

                   ( Ⅱ 1本明るく )


  無名者は死して長き戒名によばれたり束の間(ま)の鐘清(すが)しさに似つ

                   ( Ⅱ うしろの正面)


夫となる人との出会いから、結婚への幸福感。
いわゆる下町育ち、江戸っ子家族出身の彼女の、
高層マンションでの新婚生活への戸惑い、孤独感。
一人暮らしのアパートに電話をしてみるという、
独身生活への懐古。
親しい人の葬儀に感じた「長い戒名」への違和感。
28歳前後の彼女の、心の変化が読み取れる作品たちに
出会うことが出来る。


(つづく)

『淘汰の川』 を読んで⑤

2004年10月04日 14時15分00秒 | ★私の好きな歌人たち
<愛・家族・そして死 ②>


  きのうあなたと抱きあっていたわたくしが今はひとりで時間を抱けり

                   ( Ⅰ 時間を抱けり )


  闇に明るき君のかたちと添いながらはみ出す四肢はわれのみのもの

                   ( Ⅰ 時間を抱けり )


  家族よりひとり欠けたり 裡(うち)に棲む死者たち新たに甦りくる

                   ( Ⅰ ひとり欠けたり )


  このままに離れていれば君が死もわが死も互(かた)みに知らずと言うや

                   ( Ⅰ 照らされている )


  もう二度と会わざる人を記憶とう器(うつわ)のうちに溺れさせたり

                   ( Ⅰ かすかにその時 )


  君の子を、否、君をまま孕みたし桜せつなく吹雪(ふぶ)かせており

                   ( Ⅰ ふたりの言葉 )


第Ⅰ部の歌である。
未婚の鈴木英子がそこにいる。
男女の愛の中に、自分自身を見つめる冷静な目を持ちながら、
まだ少し、幼さの残る感情が見え隠れする。

彼女は私より年上の女性であるが、思えば、この時、
彼女はまだ、わずか25歳前後なのである。

なんという力量であろうか。

愛・家族・死を歌うことは、
愛する人・家族・死者を慈しむことでありながら、
同時にそれらの人たちを傷つける可能性を持つことである。

まったくの虚構であるならばいざ知らず、
「日記」のように自己完結するものならばいざ知らず、
それを出版し、他人の目にさらされることを前提とした場合、
実在の人物を思い描きながら歌うことは、
ある意味苦しい作業である。

その苦しみを乗り越えて、鈴木英子の歌は、
作品としてのスタイルを完成させているのだと思う。

(つづく)

『淘汰の川』 を読んで④

2004年10月04日 13時42分06秒 | ★私の好きな歌人たち
<愛・家族・そして死 ①>

鈴木英子の第2歌集『淘汰の川』は、Ⅰ~Ⅲの3部立てである。

Ⅰは、1985年~1987年
Ⅱは、1987年~1990年
Ⅲは、1990年~1992年 に詠まれた歌である。

彼女の第1歌集『水薫る家族』の巻頭でも、
新井貞子が評しているように、
鈴木英子の歌うテーマは「人間存在の確認と認識」であると思う。

彼女の肉体と精神を通して、<生と人間>を根源的に問うているのだ。
男女の愛、家族の愛、そして友人の死を通して、
自分を、人間を、社会を歌っているのだ。

この『淘汰の川』でも、根源的テーマは変わらない。

祖母の死、友人の死、親しい人の死を乗り越えながら、
「死者を身近に」感じるようになっていく過程が見える。

実らなかった恋、失った恋から、やがて夫となる人との出会い、
結婚し、新婚の思いへと、男女の愛の歌も形を変えていく。

ひとり欠けた家族(祖母)への思いから、父への思い、
結婚して思う実家への思いなど、家族への思いも変化していく。

そうした環境、年代の変化の中にあっても、ずっと変わらずに、
鈴木英子の「眼」は確かに人間を見つめ続けてきた。

第Ⅲ部には、少し異色にも見える、実験的作品が収められているが、
彼女の「インド~ケニア」・「マレーシア」への旅と、
「新婚生活」という旅が、まるで同列の旅のように描かれ、
その根底にあるものも、また「人間存在の確認と認識」なのである。

(つづく)

『淘汰の川』 を読んで③

2004年09月29日 16時55分36秒 | ★私の好きな歌人たち
<固有名詞の使い方>


「鈴木英子」は歌人である。
歌人であると同時に、当然のことながら1人の生活者である。

彼女は、1980年代半ば頃、塾教師をしていた。

当時、東京のとある中学校の二年生が、
クラスによる”お葬式ごっこ”の為に自殺した事件があった。
その「クラスメイト」の1人が、彼女の塾の生徒の中にいた。

彼は「いじめる」側にいたわけではなく、中立の立場であったのだろう。
ただ、中立であったこと、すなわち何もしなかったこともまた、
級友を死に至らしめた要因の1つだということを知った彼は、
自分を責め、無口になった。


  言葉少なき以前の君よ事件後は言葉も文字も葬りしかや

      (鈴木英子 『淘汰の川』 Ⅱ 塾教師)


そうして、「いじめ」の心は誰にでもひそんでいることに鈴木英子は着目する。


  小学期、われも多数の側にいし独り立ちいるあの子を囲む

      (鈴木英子 『淘汰の川』 Ⅱ 塾教師)


この「塾教師」の中には、個人名(固有名詞)が多く使われている。
自殺した者、死に至らしめた者、という構図を考えれば、
個人名を書いて良いものか、鈴木英子の中でも葛藤があったに違いない。

しかし、この歌を読めば、それはあくまでも「個人名」ではなく、
生きている人間すべてにあてはまる「概念」となっていることがわかる。


  残酷は無邪気な顔にはびこりぬわたくしの中にも「○○君」がいる

      (鈴木英子 『淘汰の川』 Ⅱ 塾教師)


歌集では、「○○君」は人名なのだが、ここはブログという性質上、
ほにゃらかの判断で勝手に匿名にしておいた。

鈴木英子にとって「固有名詞」は、「具体性のある概念」とでも言おうか、
この歌に書かれるのは、この名前以外あり得ない具体性を持ちながら、
どんな名前でもあり得てしまう「概念」として受け止められるのだ。


他にも「個人名」を使った歌がある。
「鈴木英子 『淘汰の川』 を読んで ②」で紹介した、この歌も、その一つだ。


  戸籍から戸籍へ移るも旅ならん<英子>の二字がわが具体なり

      (鈴木英子 『淘汰の川』 Ⅱ 旅の絵本)


<英子>はもちろん、鈴木英子その人である。

鈴木英子さんという、一人の女性が、結婚して戸籍を移し、名字が変わる。
この結婚という重大事の一幕から、結婚を「旅」ととらえるところが面白い。
その旅はいかなるものか、順風満帆か、嵐にみまわれるのか。
行く末を、じっと凝視する鈴木英子のするどい目がある。

そしてまた、結婚しても変わらない<英子>という人間の、
自分を自分として確立させ続けようとする決意が感じられる歌である。

では、<英子>は英子でしかないのか?
否である。
結婚して姓の変わった経験のある女性なら、きっと感じたであろう思いを
他の人にはできない表現力で、歌っているのである。

つまり、あくまでも<英子>は英子でありながら、
<花子>であり、<陽子>であり、<真由美>であり…。
それは具体性を持った<女の名前>という概念なのだ。

たった一つ、鈴木英子という、情熱的でありながら理性的な人間の
その人柄がオーバーラップしているからこそ、
ますます、この歌が成功しているのだということも忘れてはならない。

(つづく)

『淘汰の川』 を読んで②

2004年09月29日 13時26分53秒 | ★私の好きな歌人たち
歌集というものは、他のジャンルの書籍
(とくに散文)に比較して、圧倒的に文字数が少ない。

「散文」は、文字をそのまま飲み込んでいけば大概意味は分かるものだが、
「韻文」というものは、文字のその向こうにあるものを、読みとる必要がある。

ほにゃらかは、韻文読解力が足りないのか、へたをすると、
ふだんは「歌集」一冊どころか、一首を読むのにも時間がかかることがある。

しかし、鈴木英子さんの歌集は違う。
第一歌集『水薫る家族』を初めて手にした時もそうであったが、
鈴木英子さんの歌は、まるで乾いた砂に水が吸い込まれていくように、
ほにゃらかの心の中に染み込んで来るのだ。

余談だが、昨日は、ほにゃらかの子供の運動会があり、
ほにゃらかの身体は、昨夜いささか疲労状態にあった。
そのせいか、夕方より頭痛に悩まされてもいた。

しかし、『淘汰の川』が届くや、頭痛は何処かへ飛んでいき、
きのうから今日へと日付がかわるのもかまわず、
鈴木さんへのお礼のメールを打つのも後回しに(すみません)、
最後まで読んでしまった。

今は、ちょっとした興奮状態にあるほにゃらかなので、
もう少し冷静になって、もっと深く、きちんと読み返してみるつもりだ。
そして、色々とテーマごとに好きな歌、印象に残った歌を取り上げ、
「おみそしる」で、ご紹介したいと思っている。

まずは「1回」読み終えた感想の段階ではあるが、
ほにゃらかが、とても「好き」だと思った歌をご紹介する。


  もう二度と逢わざる人を記憶とう器のうちに溺れさせたり

                 ( Ⅰ 「かすかにその時」)             


  冬に立つ水仙(はな)を水切りする心、こころはわれを急(せ)かせておりぬ

                 ( Ⅰ 「太陽が私へ降りる」)


  戸籍から戸籍へ移るも旅ならん<英子>の二字がわが具体なり

                 ( Ⅱ 「旅の絵本」)


  「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて」サバンナで逢う古典の光

                 ( Ⅲ 「淘汰の川」)


  唐突に海より来たる海亀は背にしっかりと月背負いいる

                 ( Ⅲ 「海亀産み亀」)


        ( 以上5首 鈴木英子 『淘汰の川』より ) 


(つづく)

『淘汰の川』 を読んで①

2004年09月29日 12時46分48秒 | ★私の好きな歌人たち
昨晩、深夜に帰宅した主人が、
郵便受けから1冊の本を持って来てくれた。
それは、ほにゃらかが、数日来探し続けていた本だった。

鈴木英子さんの第二歌集 『淘汰の川』である。

かなり遠くの、大きな書店まで探しに行っても売っておらず、
取り寄せてもらおうと調べてもらったところ、絶版になっているという。
もう手に入れることができないと諦めるには、あまりにも残念すぎて、
鬱々とした気分になっていた矢先のことであった。

そもそも、この本が出版されたのは1992年6月のこと。
その頃、ほにゃらかは、和歌・短歌の世界から遠いところにいた。
というよりも、和歌や短歌を詠むどころか、読むことも辛く、
書店の和歌・短歌のコーナーに近寄ることも避けていた時代だった。

人づてに、鈴木英子さんの第二歌集が出版されたことは聞いていたが、
どうしても手にすることが出来なかったのだ。

しかし、短歌から遠ざかってから、20年もの時が流れた今、
ほにゃらかの心は、再び少しずつ短歌への思いに引っ張られるようになった。

ブログに「和歌のメッセージ性」と題して記事を掲載し始めて約1ヶ月。
先日、鈴木英子さんご自身から、コメントを頂いた。

実はほにゃらか、鈴木さんとは20年ほど前に面識があり、
鈴木さんは、ほにゃらかが尊敬する先輩なのだが、
人柄を尊敬している、面識があるから「鈴木英子」の歌を
「和歌のメッセージ性」の中で絶賛していたわけではない。
「鈴木英子」の作品そのものが好きなのだ。

その憧れの鈴木さんからコメントを頂き、
「第二歌集も出ていますよ」とおっしゃるのを読んでしまったら、
もう矢も楯もたまらず、書店に走ってしまったというわけなのだ。

主人から手渡された封筒の裏面を見ると、差出人は「鈴木英子」とある。
ああ、鈴木さんが、ご本を送って下さったのだと、すぐにわかった。
封を開ける手ももどかしく、取り出すと、そこには
念願の『淘汰の川』と、鈴木さんからのメッセージが入っていた。

主人の夕食の支度を整える時間も惜しんで、てきとうに済ませ、
(旦那よ、ごめんね)
さっそく本の表紙を開くと、そこには「鈴木英子ワールド」が広がっていた。

(つづく)