「もうお日様も高いよ。起きなよ」
揺り起こされて苛立って、棋打ちのラルンは寝返りを打ちながら腕を振り回す。
「うるせえ。だまっとけ!」
「もう!」
声は慣れたものだ。ラルンの腕をひょいとかわして、さらに続ける。
「夕べも一晩中どこへいってたのさ。胴元さんが探してたよ。あんた、棋打ちなんだから」
「うるせえ!」
棋打ちとは、その通り棋駒を打つもののことだ。ウラナングでは、賭け打ちであったり、代打ちであったりする。
何しろ聖都ウラナングにはたくさんの人がいて、色町があって、お金持ちの商人がいる。色町には賭け事がつきものだし、お金持ちの賭け事には面子もかかる。代打ちは、棋打ちはそういうところで打つ。
ラルンは強い打ち手だ。自分でもそう思っていた。何しろ棋打ち待ち屋の一枚目に名札が並んでいる。待ち屋の並びのどこに名前があるかで、打ち賃はまるで違ってくる。
そのラルンが、勝てなかった。゜一晩考えても、勝てなかった。確かに酔ってはいた。だがラルンは棋打ちだ。酔ったうえで賭け打ちはしない。負ければ段が下がる。何より負けるのが気に入らない。
ラルンは横になったまま腕組みをした。起こしに来た女、テハルは不機嫌なラルンに呆れたのか、いつの間にかいなくなっている。女は男の気持ちなどわかりはしない。こんなにくさくさしているときに、うるさくつきまとってはああしろこうしろと言い立てる。
だいたい、棋打ちなんぞに付きまとっても、いいことなど一つもない。はした金は入るが、明日の暮らしもわからない。ラルンは太く生きて短く死ぬつもりだった。酒も飯も食らいたいだけ喰らった。それでも強ければ棋打ちは何とかなる。一人なら。
「・・・っ!」
うなってラルンは起き上がり、胡坐の膝を打つ。綺麗に勝って、いい気分で酔っ払ったのが台無しだった。
酔って騒いで思いつきで、ラルンは神殿へ行った。何しろ神様は数えきれないほどいる。棋駒や棋打ちの神様もいる。酔ったついでに神頼みすることにしたのだ。今日のようにちょろい相手に会いますように、良い勝負ができますように、と。
酔った勢いだがとりあえず拝んで、そのまま帰ろうとしたとき、なぜか気付いた。
呼ばれたのかもしれない。酔いに任せてふらふら歩いて行った先にそれはあった。
棋板だとすぐにわかった。神殿の裏手の何があるわけでもない草生したそこに、卓のような石板がある。その上に、石が並んでいる。
棋板と棋駒だとすぐにわかった。
もとは何かの礎石だったのかもしれない。ラルンでも抱えきれないほどの大きな石で、平らな上までの高さはだいたい膝までだ。
雨と砂とに汚れていたけれど、石で傷つけ引いたらしい微かな升目の跡はわかった。そこに石がある。石の上にはやはり傷で印が書かれている。棋打ちの血が騒いだ。
妙手がそこにあった。後手は大罠をかけている。先手がこのまま攻め進めば、二十手ばかりでひっくり返される。
そして手番を示す石は、先手側を示したままであった。
酔いもすっかり醒めていた。ラルンは棋板をじっと睨み据えた。いつの間にか棋板の石の端に座り込んで、腕組みをして睨みつけていた。
手が浮かばない。少しも浮かばない。
「・・・ラッハマク・・・」
神殿に似つかわしくないつぶやきが口を突いて出る。こんな手筋を打つのは、神か魔物か、とてつもない奴だ。脇に嫌な汗がにじむ。
棋板を見ているだけで棋順がわかる。後手は先手を引きこんでいた。引き込むというのがふさわしかった。攻めてかからねば、先手の利を失ってゆく。そのように動いていた。二段にしのがねばならない。引き込まれている今この手筋をしのぎ、そうしながら二十手先にある大罠をしのがねばならない。
腕組みをしたまま動けなかった。読んでも読んでも先が見えなかった。こんなに強い打ち手と手合せしたことはなかった。生まれて初めて会った、本当の強敵だった。
思えばラルンは、これまでずっと勝ってきた。気が乗らなければ負けていたし、気が乗らないのは仕方がないとうそぶいていた。もしかしたら、負けそうになったときの言い訳を自分のしていたのかもしれない。負けを認めるか。誰にだ。
駒を突けば突くほど引き込まれる。端を攻めれば無駄手となって後手を利するばかりだ。陣を整えるのも同じだ。だが、少しは長らえる。そう長らえる。ラルンの好かぬ手筋だ。
好かぬ手筋に入るか。それとも今、投げるか。投げたくない。好かぬ手筋でも長らえれば、流れを変えられるかもしれない。しかしどのように打てば良いか。それが読み切れない。汗が流れて目に障る。唾を飲み込んでも喉が渇いて仕方ない。
動かすこともできず、動くこともできず、ラルンは石台に座り続けていた。時も忘れ、己も忘れ、ただ手筋とだけ相対していた。駒が動き流れて見える。手筋が進み阻まれる。手筋が進み阻まれる。手筋が進み阻まれる。手筋が進み阻まれる。
ゆえに構えを変える。一手失い、けれど構えを変えて、手筋を進める。阻まれる。手筋を進め阻まれる。手筋を進め阻まれる。手筋を進め阻まれる。手筋を進め阻まれる。そしてじりじりと攻め込まれながら、退いてゆく。
勝てない。勝てぬのだ。
空に鳥が鳴く。
ラルンは顔を上げた。気付けば東の空は白んでいた。風が吹く。汗ばんだ体が震える。ラルンは体を抱え込み、そして思った。打ちの刻が来たのだと。打ちの刻までに次の手を打てねば、棋駒は負けだ。
それだけは嫌だった。だからラルンは、駒の石を取り、きつく目を閉じて、一手進めた。
そして逃げ帰ってきた。
判っていた。負けに一手進めただけだ。勝てなかった。そしてそれを仕方ないことと己に思い込ませることもできなかった。悔しさに髪をかきむしり、声を上げて寝床にころがる。目を閉じてもあの石の棋盤が目に浮かぶ。
あれだけ睨みつけていれば、目にも移ろうというものだ。
長屋の一部屋を見渡し、そして自分は駒組みの一つすら持っていないのかと驚いた。それからラルンは土間に降りた。指で升目を引いて、それを睨みつける。
揺り起こされて苛立って、棋打ちのラルンは寝返りを打ちながら腕を振り回す。
「うるせえ。だまっとけ!」
「もう!」
声は慣れたものだ。ラルンの腕をひょいとかわして、さらに続ける。
「夕べも一晩中どこへいってたのさ。胴元さんが探してたよ。あんた、棋打ちなんだから」
「うるせえ!」
棋打ちとは、その通り棋駒を打つもののことだ。ウラナングでは、賭け打ちであったり、代打ちであったりする。
何しろ聖都ウラナングにはたくさんの人がいて、色町があって、お金持ちの商人がいる。色町には賭け事がつきものだし、お金持ちの賭け事には面子もかかる。代打ちは、棋打ちはそういうところで打つ。
ラルンは強い打ち手だ。自分でもそう思っていた。何しろ棋打ち待ち屋の一枚目に名札が並んでいる。待ち屋の並びのどこに名前があるかで、打ち賃はまるで違ってくる。
そのラルンが、勝てなかった。゜一晩考えても、勝てなかった。確かに酔ってはいた。だがラルンは棋打ちだ。酔ったうえで賭け打ちはしない。負ければ段が下がる。何より負けるのが気に入らない。
ラルンは横になったまま腕組みをした。起こしに来た女、テハルは不機嫌なラルンに呆れたのか、いつの間にかいなくなっている。女は男の気持ちなどわかりはしない。こんなにくさくさしているときに、うるさくつきまとってはああしろこうしろと言い立てる。
だいたい、棋打ちなんぞに付きまとっても、いいことなど一つもない。はした金は入るが、明日の暮らしもわからない。ラルンは太く生きて短く死ぬつもりだった。酒も飯も食らいたいだけ喰らった。それでも強ければ棋打ちは何とかなる。一人なら。
「・・・っ!」
うなってラルンは起き上がり、胡坐の膝を打つ。綺麗に勝って、いい気分で酔っ払ったのが台無しだった。
酔って騒いで思いつきで、ラルンは神殿へ行った。何しろ神様は数えきれないほどいる。棋駒や棋打ちの神様もいる。酔ったついでに神頼みすることにしたのだ。今日のようにちょろい相手に会いますように、良い勝負ができますように、と。
酔った勢いだがとりあえず拝んで、そのまま帰ろうとしたとき、なぜか気付いた。
呼ばれたのかもしれない。酔いに任せてふらふら歩いて行った先にそれはあった。
棋板だとすぐにわかった。神殿の裏手の何があるわけでもない草生したそこに、卓のような石板がある。その上に、石が並んでいる。
棋板と棋駒だとすぐにわかった。
もとは何かの礎石だったのかもしれない。ラルンでも抱えきれないほどの大きな石で、平らな上までの高さはだいたい膝までだ。
雨と砂とに汚れていたけれど、石で傷つけ引いたらしい微かな升目の跡はわかった。そこに石がある。石の上にはやはり傷で印が書かれている。棋打ちの血が騒いだ。
妙手がそこにあった。後手は大罠をかけている。先手がこのまま攻め進めば、二十手ばかりでひっくり返される。
そして手番を示す石は、先手側を示したままであった。
酔いもすっかり醒めていた。ラルンは棋板をじっと睨み据えた。いつの間にか棋板の石の端に座り込んで、腕組みをして睨みつけていた。
手が浮かばない。少しも浮かばない。
「・・・ラッハマク・・・」
神殿に似つかわしくないつぶやきが口を突いて出る。こんな手筋を打つのは、神か魔物か、とてつもない奴だ。脇に嫌な汗がにじむ。
棋板を見ているだけで棋順がわかる。後手は先手を引きこんでいた。引き込むというのがふさわしかった。攻めてかからねば、先手の利を失ってゆく。そのように動いていた。二段にしのがねばならない。引き込まれている今この手筋をしのぎ、そうしながら二十手先にある大罠をしのがねばならない。
腕組みをしたまま動けなかった。読んでも読んでも先が見えなかった。こんなに強い打ち手と手合せしたことはなかった。生まれて初めて会った、本当の強敵だった。
思えばラルンは、これまでずっと勝ってきた。気が乗らなければ負けていたし、気が乗らないのは仕方がないとうそぶいていた。もしかしたら、負けそうになったときの言い訳を自分のしていたのかもしれない。負けを認めるか。誰にだ。
駒を突けば突くほど引き込まれる。端を攻めれば無駄手となって後手を利するばかりだ。陣を整えるのも同じだ。だが、少しは長らえる。そう長らえる。ラルンの好かぬ手筋だ。
好かぬ手筋に入るか。それとも今、投げるか。投げたくない。好かぬ手筋でも長らえれば、流れを変えられるかもしれない。しかしどのように打てば良いか。それが読み切れない。汗が流れて目に障る。唾を飲み込んでも喉が渇いて仕方ない。
動かすこともできず、動くこともできず、ラルンは石台に座り続けていた。時も忘れ、己も忘れ、ただ手筋とだけ相対していた。駒が動き流れて見える。手筋が進み阻まれる。手筋が進み阻まれる。手筋が進み阻まれる。手筋が進み阻まれる。
ゆえに構えを変える。一手失い、けれど構えを変えて、手筋を進める。阻まれる。手筋を進め阻まれる。手筋を進め阻まれる。手筋を進め阻まれる。手筋を進め阻まれる。そしてじりじりと攻め込まれながら、退いてゆく。
勝てない。勝てぬのだ。
空に鳥が鳴く。
ラルンは顔を上げた。気付けば東の空は白んでいた。風が吹く。汗ばんだ体が震える。ラルンは体を抱え込み、そして思った。打ちの刻が来たのだと。打ちの刻までに次の手を打てねば、棋駒は負けだ。
それだけは嫌だった。だからラルンは、駒の石を取り、きつく目を閉じて、一手進めた。
そして逃げ帰ってきた。
判っていた。負けに一手進めただけだ。勝てなかった。そしてそれを仕方ないことと己に思い込ませることもできなかった。悔しさに髪をかきむしり、声を上げて寝床にころがる。目を閉じてもあの石の棋盤が目に浮かぶ。
あれだけ睨みつけていれば、目にも移ろうというものだ。
長屋の一部屋を見渡し、そして自分は駒組みの一つすら持っていないのかと驚いた。それからラルンは土間に降りた。指で升目を引いて、それを睨みつける。