ルヴェルトガ氏が撮影した首里城正殿と御庭の写真。大龍柱は正面を向いている。1877年5月撮影とされる(後田多敦氏提供)
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1877(明治10)年に撮影されたとみられる首里城正殿の写真が確認された。撮影時期が正しければ首里城正殿を撮影した最古の写真となる。写真は同年5月、那覇港にフランスの巡洋艦が寄港した際、同艦に乗っていたフランス人の海軍中尉、ジュール・ルヴェルトガ氏が撮影した1枚。
正殿前の大龍柱の向きが論争を呼んでいるが、写真の大龍柱は正面を向いている。
神奈川大学非文字資料研究センターの後田多敦准教授が14日、インターネットで配信された琉球民族独立総合研究学会のシンポジウムで発表した。
ルヴェルトガ氏は琉球を訪問した記録「琉球諸島紀行」を1882年にフランスの雑誌に発表し、当時の首里城正殿、瑞泉門などの版画を数点掲載している。版画は『青い目が見た「大琉球」』(ニライ社、1987年)でも紹介されているが、今回確認されたのはその版画の基になった写真。写真は巡洋艦の船長の子孫が2010年の論文で紹介していた。しかし、写真については存在が知られておらず、1992年の首里城正殿復元の際には活用されていない。
後田多准教授は同センターの熊谷謙介同大教授の協力のもと、「琉球併合(琉球処分)」期の来琉者に関し研究する中で、船長の子孫が論文で紹介した写真の中に、版画の基になった首里城の関連写真があることを確認した。
フランスの巡洋艦が那覇港に寄港した際、琉球とフランスは条約を締結していた。後田多氏によると、1870年代にはフランスやイギリス、ドイツの一行などが首里城への入城を許されていた。
後田多氏は、この写真の資料的価値について
(1)撮影日時が特定された最も古い首里城正殿の写真
(2)琉球国末期だが首里城には尚泰王が居住しており、王城の様子を伝えている
(3)正殿の大龍柱は正面
(4)1877年当時、フランス人に首里城入城と写真撮影を許した事実を確認できる、としている。
後田多氏は「首里城正殿の版画は、その年代が誤解されていたのか注目されてこなかった。1877年段階で大龍柱は正面を向いていたことが裏付けられる写真だ」と話した。
大龍柱向き再検討へ 首里城討論会 復元委・高良氏が言及
2020-11-23琉球新報
首里城再建に向けて活発な議論が交わされた「首里城再興に関する公開討論会」=22日午後、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館
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首里城再建への課題や論点を議論する「首里城再興に関する公開討論会」(首里城再興研究会主催)が22日、那覇市の県立博物館・美術館で開かれた。国の「首里城復元に向けた技術検討委員会」委員長の高良倉吉琉球大名誉教授は、首里城正殿の大龍柱の向きについて「新しい事実など、さまざまな資料を突き合わせ、技術検討委などの場で検討していくことになるだろう」と述べ、大龍柱の向きを再検討する考えを示した。
1877年にフランス人が撮影した首里城の写真では、正殿の大龍柱が正面向きだった。技術検討委ではこれまで、相対(横)向きの予定で作業を進めてきた。
1877年の写真はフランスの巡洋艦で那覇港に寄港した海軍中尉ジュール・ルヴェルトガが撮影したとされる。神奈川大学の後田多(しいただ)敦准教授(琉球史、日本近代史)が14日に開かれた琉球民族独立総合研究学会のシンポジウムで発表した。
この写真に関連し、高良氏は22日の討論会で、新たな資料として同艦のフランス人が首里城を訪問した際の記録とみられる、尚家文書「御書院日記」(那覇市歴史博物館所蔵)の記述を紹介した。同日記には、1877年の写真撮影時と同時期に、フランス人の一行が日本の明治政府の役人と一緒に2日連続で首里城を訪問し、琉球側が北殿で茶や菓子でもてなしたことが記されている。
写真を撮影したことについて記述がないが、高良氏は「(1877年の写真と一緒に)紹介されている紀行文と一致、符合する琉球側の記録だ」と、フランス人の一行が同時期に首里城を訪れたことを裏付けているとした。