だよね?という語尾を多用する人がいる。
質問ではなく確認の意味で。
つまりアナタとワタシの間には共通の知識もしくは思考、思想が
存在する事を暗に示す「ね?」だったり「な?」だったり。
人は言葉で思考します。
もちろん言語外の思考も多々あるわけですが、
基本的な思考は言語だと思っています。
思い悩む時は、思いっきり脳内でヒトリゴトを言いますよね?
(この「ね?」も確認)
で、常々思うのですが、思考の柔軟性はその人の持つ
コトバの多様さによるところが大きいと思うのです。
ご飯を食べて美味しい、という事柄を思考する時に
食べ物によって微妙においしさが違うのですが
それをただ「ウマイ」「マズイ」だけで表現する
人がいます。表現手法が無いだけで、繊細に
感じているのかもしれませんが……
日本人の僕らには、赤、朱、桃、が違う色に見えますが
それを違うと思えない人たちもいるのです。
例えが悪いな……
「思考が言語によるものなのであれば、
より多くの表現を体感できる人間の方が
柔軟な思考を持つことが出来るのではないか?」
という思いは昔から抜けなくて、それは幼き日に
級友達に使う表現を選ばないと伝わらない
つまり、彼我の差を認識しないと意思疎通が出来ない
という事実に気付いた時に、語彙の違いは思考の違いに
繋がるではないかな?って思った気持ちだったりします。
いい年こいたオッサンなので、人は一人一人違うと
いうことも判っているのですが、
例えば、電車内での高校生の会話を漏れ聞く事があっても
ボキャブラリが違う上に、共通体験が無いので
何言ってんだか良く判らない瞬間の方が多いのですが
それでも、彼らとボクとが同じものを見て同じように
考える事があるのだろうか?
「事象」という入力と、「行動」という出力に限定してみれば
例えば高校生のそれと、ボクのそれが一致することも
あるのだから、何かしら共通のシステムが働いているのでは?
と思うんだけど、言語以外には何が影響しているのだろう?
とか…
何が言いたいのかというと、
これを書いてて思ったんだけど
この男子高校生と俺のモノの考え方が一致する時は
来るのだろうか?と、それ以前に会話が成立するのだろうか?
と思ってしまったのです。
それでも同じ感覚を共有できる瞬間があるだろうし
だとしたら一体それはどういう不思議によるものだろう?
と、何となく思ってみたり。みなかったり。
「よね?」つながりで
今日の幸せ:
そうですね、に慣れるとにトラックバック