国際交流のススメ

舞台芸術・海外公演に関する情報をニューヨークから発信します。

表現って

2009年09月24日 | 海外公演

@ Beth Martin (本文とは直接関係ありませんが、ジャパン・ソサエティで10月15日、16日、17日の開催されるinkboatの“Ame to Ame (Candy and Rain)”の舞台写真。http://www.japansociety.org/event_detail?eid=120f411a)



さて、いつか読んだアエラの巻頭コラムで養老孟司氏が日本語表現は曖昧さと多様性が多い、「愛している」と言う代わりに「あなた私のことがお嫌いなんでしょ」と言って愛を伝えることもできる(すみません、手元にそのアエラがなくて、ちょっと勝手な解釈込みです・・・)と言ってた。たしかに。

舞台表現でも同じようなことがある。もちろん手法としてそういう表現方法を用いることもあるだろうが、端的な言葉にしてしまうと、表現者が思っていたニュアンスと違ってしまうこともあるだろうし、またその複雑な心象や風景を端的に表現する言葉が存在しないこともある。イメージを重ねることでしか伝えられない心象風景もあるだろう。表現者の好みや美意識もある。日常会話に近い新劇ですら、上記したような婉曲的な心情の伝え方ぐらいはするであろうし、コンテンポラリーな作品であればさらに曖昧な意思表示になるだろうし、これが前衛となれば、もはや原型を想像することすら難しくなるかもしれない。

取り扱い説明書であれば、簡潔で間違いようのない表現が求められるが、日常会話ですら常にそのような表現を用いていては、日々の会話が全く味気ないものとなってしまう。表現者は程度の違いこそあれ、表現したい内容を見る者に伝えたいという思いを持っていると思うが、それを取り扱い説明書のごとく説明していては作品とはなりえない。表現者や作品の個性とは、形があるようでないような心象風景や思いを舞台上でどのように表現するかだと思う。その個性に対して観客は、面白い、趣味が合う、難解、退屈、どこにでもある、新しい、美しい、借りてきたような、独特、変わった、いつか見た、懐かしい、驚いた、自分と似ている、悲しい、楽しい、といった感想を持つのではないだろうか。

分かりやすさが表現として低いと言っているのではないが、取り扱い説明書のように解説されても人は感動しない。もちろん日常生活同様、個性を騙っても観客には見透かされるものである。個性的であるというのはなかなか難しい行為である。しかし、個性といういものを万人に理解される必要もない。個性は個性であって、本来あるがままに内から湧き出るものであるのだから。他人は、そして観客はそれを勝手に解釈して色々感じるものであり、観客と作品の距離感はそのぐらいで良いのではないかなと思う。


最新の画像もっと見る