桜川大龍(さくらがわ だいりゅう)は、1809年(文化6年)、近江国神崎郡神田村(現東近江市神田町)に生まれ、1890年(明治23年)81歳没。
江戸末期の1829年(文政12年)、本名は西沢寅吉は20歳の頃、板前修業のため、当時の市場町であった神崎郡八日市(現東近江市八日市町)に出てきた。その頃、八日市に来た武蔵国の祭文語りの名人「桜川雛山」から「貝祭文」を習い、歌念仏・念仏踊りを祭文に採り入れた独特の節回しを考案し、話芸を踊りと融合させた新たな音頭を作り上げたのが江州音頭の始まりだといわれている。これは祭文音頭と言われ、当初は近江国神崎郡八日市(現在の滋賀県東近江市)で踊られた。
祭文語りとしての芸名「桜川」を受け継ぎ「桜川大龍」と称し宗家となった。
祭文とは、祈願、祝呪、賛嘆の心を神や仏に奉る詞章のことで、人道、仏教、儒教にも用いた。祭文を大衆化(芸能化)したのは山伏だった。
江州音頭は、「でろれん祭文」(貝祭文)から派生した。「でろれん」は合いの手に使った言葉である。
江州音頭の発祥地は豊郷町とも言われるが天正年間(1573-92年)、日枝村(現豊郷町)千樹寺で遷仏式があったとき、村人が手踊りしたのが「江州踊り」の始まりと伝えられているからである。
1846年(弘化3年)、寅吉が37歳の時、千樹寺本堂再建の時、祭文語りの大龍が招かれ音頭が披露されたとも言われる。
この頃、大龍は妻を迎え、金屋村に住居した。家の近くの「壷冠の地蔵」があり、毎年夏に盆踊りが行われ、祭文を工夫した。この頃から江州八日市祭文音頭と呼ばれるようになった。
しかし、江州音頭に大成するには「真鍮家好文」という大龍の協力者の出現以降のことになる。
「真鍮家好文」は「奥村久左衛門」といい、1839年(天保10年)金屋村に生まれ、1920年(大正9年)81歳没。金屋村は中世から鋳物師村として、全盛期は近江の寺院の釣り鐘を多く生産していた。その関係で金物細工職人も多く、奥村家は代々真鍮細工を家業とし、「真鍮家」と称していた。
「久左衛門」は近くに住む「桜川大龍」から祭文を習い、二人で協力して江州音頭を作り上げて行った。
江州音頭は、「屋台音頭(盆踊り用)」と「座敷音頭」の2つの流れがり、貝祭文は座敷音頭に引き継がれている。
江戸から明治初期に、大阪に貝祭文専門の寄席があり、祭文を改良し、物語風に変えた座敷音頭が近江から京都、大阪に広がった。江州音頭を取り入れた河内音頭が大成し、真鍮家好文の弟子「志賀淡海」が淡海節を生み出した。大阪の音頭取りには桜川性が多いがいずれも桜川大龍に由来している。
江州音頭が全国的に広まるのは1897年(明治30年)以降で、明治24-25年頃にになると屋外の盆踊りは座敷音頭として全盛を迎えた。大阪を始め近江商人がいるところ、全国に広まった。桜川大龍は全盛期に遭遇することなく1890年(明治23年)81歳に没している。
「桜川大龍」の協力者「真鍮家好文」は大龍の没後も滋賀にいて、江州音頭の弟子を育成した。上方漫才の祖、玉子屋円辰は音頭を学ぶため八日市に来ていた。
明治末に大龍の門弟らは大阪千日前界隈の寄席にこぞって進出し、落語や音曲と並んで人気の演目となった。
近江商人兼業の音頭取り達が東海道・京街道・清滝街道・伊賀街道など行商で各地の人々に江州音頭を伝えたことが基となり、各地で独自の改良を加えられ大阪の江州音頭が生まれ、河内音頭の成立にも多大な影響を及ぼした。
大正年間、座敷音頭より屋台音頭(盆踊り)の方が盛んになり、屋台音頭を継承していた真鍮家の節が広まった。
江州音頭には、家元の桜川(座敷)と真鍮家(屋台)の2つの流れがある。祭文の要素を多く伝えているのが座敷であり、桜川雛山以来の桜川の性を名乗り、真鍮家好文は敢えて桜川を名乗らなかったのは祭文ではない、踊りにあった江州音頭を創り出した自負の表れとも言える。
江州音頭の発祥地とされる場所は2か所あり、両地に石碑が建立されているが、どちらが真の発祥地とも言い難い。
八日市が桜川大龍のフランチャイズで江州音頭「創作の地・発祥」の地、豊郷が江州音頭「初踊り・公演」の地が妥当なところか。
延命公園: 滋賀県東近江市八日市松尾町(桜川大龍が江州音頭を考案した場所とされる)
千樹寺: 滋賀県犬上郡豊郷町下枝(初めて江州音頭を披露した場所とされる)
桜川大龍も真鍮家好文も、八日市金屋町(現東近江市)の「金念寺」墓地に葬られている。また、碑文もある。
因みに、金念寺には、江戸ー明治期の郷土の教育者「島村紀孝」や医師「馬淵駿斎」(幕末彦根藩井伊直弼の師範であり、腹心となった長野主膳に師事)の碑文や墓もある。
<近江を築いた人びと・上(鈴木俊亮記)引用>