のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

受容はするが、許容はしない

2018年08月25日 09時46分57秒 | いじめ根性



上のツイートに、

いろいろと許容の条件が書き連ねてある。

全部、覚えてられないので、

もっと単純化すべきではないかと思う。

相手に即するか、

自分に即するか区別して考えたらどうか――。

虐待をする相手に即した場合は、

どんな非人道的な行為でも、止むを得ないというしかないのではないか。

他方、虐待を受けた自分に即する場合、

その残虐度によって、

到底許せないという結論になることがあるだろう。

まずは、

到底、許せないと考える自分を許すべきだ。

僕は、

考える枠組みとして、

相手に即する場合を「受容」の問題と呼び、

自分に即する場合を「許容」の問題と呼び両者を区別している。

さて、以上の心的態度を保つものとして

太平洋戦争は、

国内でのいじめが戦争を駆り立てていた事情を考察する。

戦後、己の非を認めたくないがために

事実を捻じ曲げる動きがある。

「歴修正主義」は、

その動きの総称である。

この動きの核心にあるのはとても卑怯な打算だ。

いわく、

仕方なかった云々。

楽しんでやっていたくせにそれを認めない!

すなわち、明らかに自分たちが

好んで、

若者を追い込んで死地に追い込んでおいて

「我々が非難されるのは甘んじて受け入れるが、国のために散った若者を馬鹿にしないで欲しい」

(大原 勢司@jojo113soharaさんのツイート〔 11:34 - 2018年8月23日〕参照)

などと、

自分たちの若者への悪意について白を切る

戦犯たちの言い分と同じだ。

なお、

タイトルにある

「受容はするが、許容はしない」

ということは、

子育てに関して言われる

(副島 賢和著、PDF「子どもの褒め方叱り方」参照)。

☆ 記事URL:https://www.misawa-kenpo.or.jp/contents/health/backnum/no156/no156_16.pdf

いじめっ子に対して

あたかも親であるかのような心的態度を

取ることは、

とても難しい。

しかし、そのこだわりを捨てないと

自由にならない。


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