Runners-81☆StopTPP☆ @sunlight9501 さんが
――朝日がコンスを就活擦込「日本式は気付けのままで礼」笑い威張肘を出す辞儀など無い。 "http://www.asahi.com/articles/photo/AS20140110002149.html …" コンス朝鮮呑【朝鮮式(韓国式)立礼】 ”" 朝鮮族が日本人と紛らす立礼を押付けた有害食品を紛らすために〔7:27 - 2014年10月29日 〕――
というツイートをしてました。
下のような、
画像がついてました。
底本を探したら、
こんな画像が見つかりました。
さて、朝鮮女性が立礼している際の
手を組む形は、
いわゆる「叉手(さしゅ)」と言われるものです。
たとえば、日本でも
僧侶や宮司が参列する本当に正式な儀式では、
この立礼の仕方が常識のはずです。
宮中でも
正式な行事の場合、
皆がしている所作でしょう。
ただ、普通の人は、
宮中の行事に参加できるわけでもなく、
知らないはずです。
それをいいことに
「皇室の作法や国際儀礼を著したマナー本も
小笠原流礼法が基本でした、
と言い切るのは、
妄想の始まりじゃないでしょうか。
小笠原流礼法と言ったって、
皇室中心に考えたら
坂東武者という一群の田舎者の流儀に過ぎません。
もし、皇室が
小笠原流礼法を取り入れたとしても、
それは、
下々の者と接する必要のためと言うに尽きるでしょう。
すなわち、
下々の者に親近感を持たせるため、
それら者の間に
流通している作法に従ったまでだろうと思います。
叉手は、
普通の庶民には難しく、
教えてもらっていないので出来なくて当たり前です。
そこは責めませんが、
自分が普段、見聞していないからと言って
排撃する心の狭量さに
呆れます。
馴染みがないから受け入れられないと言うのであれば、
所作をマスターすればいいでしょう。
やりたい方は、
次の図書がお勧めです。
☆ 書名「仏教がみるみるわかる本~ 禅僧が説くお釈迦様の教えから出家まで」:http://books.google.co.jp/books?id=sK27bhhHA-QC&pg=PT44&lpg=PT44&dq=%E5%8F%89%E6%89%8B+%E5%83%A7%E4%BE%B6&source=bl&ots=og8G2Gi9bk&sig=g_sA0H79uzLtZNM0eQz14zvJdPw&hl=ja&sa=X&ei=AnJRVNXHHM_q8AWwaA&ved=0CDwQ6AEwBw#v=onepage&q=%E5%8F%89%E6%89%8B%20%E5%83%A7%E4%BE%B6&f=false
この手を前に組む形は、
中国起源です。
下の画像を見て下さい。
なぜ、こんな風な手の恰好するかと言うと、
もともとは武器の不使用を
相手に伝えるためだったでしょう。
神道に
この作法が厳然として受け入れられている
証拠が下の画像です。
典拠:「古神道 神理教の作法」*http://www.sinri.or.jp/page/saho.html
典拠:「潜伏中なブログ」*http://ameblo.jp/nethaijin2010/entry-11482246819.html
典拠:「緋袴白書:備忘録」*http://hibakama.seesaa.net/article/242238158.html
典拠:「拝殿の回廊を千家国麿さんに続いて進まれる高円宮家の典子さま」拝殿の回廊を千家国麿さんに続いて進まれる高円宮家の典子さま=近藤誠撮影(出雲大社で)*http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4755725.html
一番下の写真の、
典子さまの後ろを歩いている女性、
手を叉手にしてます。
神道のこの作法
仏教からの流入なんでしょう。
武家の作法の
源流と言われる小笠原流から
紛れ込んだものでは少なくともないはずです。
折あらば、
仏閣をお参りした際に注意深く観察して御覧なさい。
たとえば、
皆さん、このような
立ち姿で
深々と一礼されます。
典拠:「授業 ~経行・提唱~」*http://www.komazawa-u.ac.jp/~hareyama/jikido/jugyo3.html
典拠:同上。低頭(いわゆるお辞儀)をしたところ
典拠:「新庫院・法要堂落慶 」*http://kouanji.jp/sub521.htm
大寺院と呼ばれる寺院において、
お辞儀ではなく
「合掌」か「叉手」をして相対される姿を目にするでしょう。
名刹といわれるところで、
そうしないところは、
宗派にかかわらず、
まず、ありえないんじゃないでしょうか。
(ただし、曹洞宗の僧侶のみ
形が違って伝えられたようですが――)。
嘘と思うなら、
実際に足を運ばれて観察されたらよろしいでしょう。
下の画像は、
天台大師智のようです。
典拠:「buddhachanel」の記事「日本仏教及び伝来」*http://www.buddhachannel.tv/portail/spip.php?article16305
この座像の手の組み方、
上掲、武人の像と同じでしょ。
叉手をされていると認められます。
天台系列の最澄、
すなわち、伝教大師はもちろん、
密教を伝えた
空海こと、弘法大師もこの所作を受け継いでいたでしょう。
それを証する
座像に
次のようなものを見つけました。
典拠:「東寺」*http://www.toji.or.jp/2012_autumn.shtml
衣で手が隠れておりますが、
叉手されていると見ていいでしょう。
叉手は、これ、何百年もかけて培われた
礼儀そのものですから、
僧侶の方が叉手されているお姿
その気になれば、結構、目撃できるはずです。
ところで、
「合掌」が「お辞儀」ではないように
「叉手」もまた「お辞儀」ではありません。
「お辞儀」ではないから、
「合掌」を否定、「叉手」も否定というのは、
可笑しいでしょ。
ただのお辞儀なら、
ダチョウの玩具だってやります。
そこに
国柄を持ち込んで、
朝鮮人は、
こんなお辞儀しかできないけど、
日本人は違うんだみたいな
みっともない話、
なぜ、できるのか不思議です。
確かに、
和服を着た人の
正しいとされるお辞儀の仕方というのは、
手を組み合わさず、
体の真横につけていていいようになってます。
ただ、それが
立礼の仕方として
伝統的な正統性があるのかと言えば違うような気がします。
本来なら正しいマナーであるはずなのに、
叉手は
僧侶や貴族、神官にのみ
許され、
当時の身分制社会にあって
武士には、
二級の為政者層として、
略式の
作法しか許されなかったということでしょうか。
この問題、
誰が文化の伝承者であったかと
関係すると思います。
中国の文化を
伝えたのは日本の場合、
僧侶でした。
そして伝えられた文化として
叉手がありました。
ただ、日本の武士階級が叉手をする僧侶、
たとえば、伝教大師や弘法大師を前にして
正しくそれが
武器の不使用を誓う仕草と理解される可能性があったでしょうか。
多分、無かったでしょう。
見るからに
「殺気」
と無縁な人に
武器の不使用を誓う仕草など、
不必要だったはずです。
結局、叉手の習俗は、
やはり戦闘行為と無縁な宮司が受け継ぎ、
当時の“庶民”である武士たちは、
頭を下げる仕草のみ、
今に「お辞儀」として伝えることになったのではないでしょうか。
自らの階級の挨拶の礼法の重心を
武士階級は、
畳文化を反映させて、
立礼から座礼へと移しました。
その結果、
座礼が土下座として日本独特な形で発展する一方、
立礼がおざなりになり、
叉手が簡略化(忘却)されたということでしょう。
ただ、現在、皮肉なことに、
簡略化された形が普通の形として認知された反面、
かつて正式なものだった挨拶の仕方が、
逆に差別の材料になるという…
なんか可笑しなことになっているんですな。
思うに、
相手に敬意を表するのに
国柄によって
天地の違いがあるという発想そのものが異様です。
改めて言うまでもなく、
「叉手」は、
相手に敬意に表するためにする作法です。
伝統に則った話をする限り、
この点につき、
朝鮮と日本の間に差があるわけではないです。
すなわち、
言葉本来の意味での「礼」は、
同じということです。
上掲、
ツイートに
分ったような解説がなされていますが、
なのに、なぜ、日本で
このような排外主義的な主張が普通になされるようになったのでしょう?
何も知らないくせに、
たまたま見つけた和服姿の立礼の仕方を見て
日本という辺境の地で成り立った独特の風習である
「お辞儀」をもって礼の模範とする
傲慢さに
鼻持ちならないものを
感じました。
そこにあるのは、
「片肘を張る」
という慣用句から連想される
否定的なニューアンスのみを根拠にした、
よく分らないもの、
言うなれば、
上に紹介した
小笠原流の範疇外の挨拶の型を
叉手、
すなわち、妙なお辞儀として
「伝統」的な作法が断罪されています。
もっとも、
下図のような型は、
叉手ではありませんが――。
典拠:噂のツイート!!@8633121y さんのツイート〔6:30 - 2014年11月1日 〕
これは、
肘鉄ですね、失礼しました。
冗談は、
さて置き、
ショックだったのは、
「みいすけ☆9条守れ!★脱原発・反TPP」さん
という方がリツイート したことです。
在特会に入っているような連中が言うのなら
無視したのですけど、
草の根のつながりを尊重しなければ実現しない
憲法9条の精神を守ろうとする
庶民派が言っていたことに大きなショックを受けました。
聖徳太子の教えである
「和をもって尊し」
とする思想の基底にある
国際主義は
一番、二番を競い合う
グローバリズムとは相入れない思想です。
もし、
日本の伝統を語りたいなら、
その点にこそ、
デリカシーを持つべきです。
もし、どうしても日本で発達した
挨拶の仕方に拘泥するなら、
人と出会う度に
土下座しておればいいでしょう。
それが日本独特の敬意の表し方です。
そういう立ち居振る舞いに、
卑屈さを感じるので、
僕自身は日常的には行いません。
しかし、だからと言って、
そのような土下座文化を生んだ
日本の
「辺境」性を恥じているわけではありません。
むしろ、
似非「中華」に陥ることを恥じます。
それをやっている内は、
日本は、
いつまで経っても中国の亜流です。
手をだらんとさせて
お辞儀しない奴は朝鮮人やという
デマを垂れ流して
得意になっているガキどもを見るにつけ、
一時代前に
日本に溢れかえっていた
中華思想の亜流である者の浅ましさを強く感じます。
どこがどう浅ましいのか――。
筋違いなことを言って、
弱い立場にいる相手を捻じ伏せようとするあたりが
自己欺瞞であり、
浅ましく感じる根本の部分です。
夕刻あった、
早雲 @souun_udokuさんのツイート、
――結局、在日特権、在日特権と騒ぐのは、自分たちが優越していると感じる相手に対してだけで、差別意識の裏返しみたいなものではないかな。劣等感持っている相手の米軍とか白人とかには、特権むさぼっててもだんまり。 情けない。http://sun.ap.teacup.com/souun/15668.html … …〔21:31 - 2014年10月29日 〕――を、
百回でも千回でも
読んで欲しいと思います。
ただ、一言だけ
老婆心ながら言うなら、
文化的なレベルで
日本は、
別に朝鮮人や中国人に優越しているわけではない
ということ。
むしろ、
彼らから文化を受け継いだ
関係にあることを
片時も忘れちゃいけないと思います。
忘れると、
石原慎太郎や
橋下徹みたいになっちゃいます。
すなわち、野蛮の権化!
同じ東洋人を侮蔑したがるのは、
「脱亜」
の意識があるからでしょう。
しかし、
「脱亜」という
精神論だけで
ヨーロッパ人になれるわけがないです。
そればかりじゃないです。
知らず知らずの内に卑屈さを
胸に宿すでしょう。
その結果はと言うと、
根なし草にしかならないです。
すなわち、
アイデンティの喪失。
「脱亜」によって
失くしたものの価値を
嘲笑っていると、
そうなるのが運命です。
無知って
怖いものです。
アイデンティの喪失ばかりでなく、
悪徳をも伴います。
冒頭に引用したツイートが
その醜悪さをよく示しています。
どういう悪徳か――。
イギリスの作家、
Samuel Butlerがうまい表現を残していますので
紹介します。
――The truest character of ignorance are vanity and pride and arrogance.
(無知の真の正体は、虚栄心と思い上がりと傲慢である)――
叉手をしている朝鮮女性を
「変なお辞儀」
と排撃する態度の裏側にある無知・無教養と、
それを支える
甘えた心を余すところなく描写しているでしょ?
さすが作家ですな。
ちなみに、この作家、生きていたのは、
1835~1902年です。
19世紀、
まだパソコンがないと言うに、
当時、世界中にネトウヨ気質の愚か者が
溢れていたってことですかね。
そんなものかもしれんな、
と思う昨今です。
――朝日がコンスを就活擦込「日本式は気付けのままで礼」笑い威張肘を出す辞儀など無い。 "http://www.asahi.com/articles/photo/AS20140110002149.html …" コンス朝鮮呑【朝鮮式(韓国式)立礼】 ”" 朝鮮族が日本人と紛らす立礼を押付けた有害食品を紛らすために〔7:27 - 2014年10月29日 〕――
というツイートをしてました。
下のような、
画像がついてました。
底本を探したら、
こんな画像が見つかりました。
さて、朝鮮女性が立礼している際の
手を組む形は、
いわゆる「叉手(さしゅ)」と言われるものです。
たとえば、日本でも
僧侶や宮司が参列する本当に正式な儀式では、
この立礼の仕方が常識のはずです。
宮中でも
正式な行事の場合、
皆がしている所作でしょう。
ただ、普通の人は、
宮中の行事に参加できるわけでもなく、
知らないはずです。
それをいいことに
「皇室の作法や国際儀礼を著したマナー本も
小笠原流礼法が基本でした、
と言い切るのは、
妄想の始まりじゃないでしょうか。
小笠原流礼法と言ったって、
皇室中心に考えたら
坂東武者という一群の田舎者の流儀に過ぎません。
もし、皇室が
小笠原流礼法を取り入れたとしても、
それは、
下々の者と接する必要のためと言うに尽きるでしょう。
すなわち、
下々の者に親近感を持たせるため、
それら者の間に
流通している作法に従ったまでだろうと思います。
叉手は、
普通の庶民には難しく、
教えてもらっていないので出来なくて当たり前です。
そこは責めませんが、
自分が普段、見聞していないからと言って
排撃する心の狭量さに
呆れます。
馴染みがないから受け入れられないと言うのであれば、
所作をマスターすればいいでしょう。
やりたい方は、
次の図書がお勧めです。
☆ 書名「仏教がみるみるわかる本~ 禅僧が説くお釈迦様の教えから出家まで」:http://books.google.co.jp/books?id=sK27bhhHA-QC&pg=PT44&lpg=PT44&dq=%E5%8F%89%E6%89%8B+%E5%83%A7%E4%BE%B6&source=bl&ots=og8G2Gi9bk&sig=g_sA0H79uzLtZNM0eQz14zvJdPw&hl=ja&sa=X&ei=AnJRVNXHHM_q8AWwaA&ved=0CDwQ6AEwBw#v=onepage&q=%E5%8F%89%E6%89%8B%20%E5%83%A7%E4%BE%B6&f=false
この手を前に組む形は、
中国起源です。
下の画像を見て下さい。
なぜ、こんな風な手の恰好するかと言うと、
もともとは武器の不使用を
相手に伝えるためだったでしょう。
神道に
この作法が厳然として受け入れられている
証拠が下の画像です。
典拠:「古神道 神理教の作法」*http://www.sinri.or.jp/page/saho.html
典拠:「潜伏中なブログ」*http://ameblo.jp/nethaijin2010/entry-11482246819.html
典拠:「緋袴白書:備忘録」*http://hibakama.seesaa.net/article/242238158.html
典拠:「拝殿の回廊を千家国麿さんに続いて進まれる高円宮家の典子さま」拝殿の回廊を千家国麿さんに続いて進まれる高円宮家の典子さま=近藤誠撮影(出雲大社で)*http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4755725.html
一番下の写真の、
典子さまの後ろを歩いている女性、
手を叉手にしてます。
神道のこの作法
仏教からの流入なんでしょう。
武家の作法の
源流と言われる小笠原流から
紛れ込んだものでは少なくともないはずです。
折あらば、
仏閣をお参りした際に注意深く観察して御覧なさい。
たとえば、
皆さん、このような
立ち姿で
深々と一礼されます。
典拠:「授業 ~経行・提唱~」*http://www.komazawa-u.ac.jp/~hareyama/jikido/jugyo3.html
典拠:同上。低頭(いわゆるお辞儀)をしたところ
典拠:「新庫院・法要堂落慶 」*http://kouanji.jp/sub521.htm
大寺院と呼ばれる寺院において、
お辞儀ではなく
「合掌」か「叉手」をして相対される姿を目にするでしょう。
名刹といわれるところで、
そうしないところは、
宗派にかかわらず、
まず、ありえないんじゃないでしょうか。
(ただし、曹洞宗の僧侶のみ
形が違って伝えられたようですが――)。
嘘と思うなら、
実際に足を運ばれて観察されたらよろしいでしょう。
下の画像は、
天台大師智のようです。
典拠:「buddhachanel」の記事「日本仏教及び伝来」*http://www.buddhachannel.tv/portail/spip.php?article16305
この座像の手の組み方、
上掲、武人の像と同じでしょ。
叉手をされていると認められます。
天台系列の最澄、
すなわち、伝教大師はもちろん、
密教を伝えた
空海こと、弘法大師もこの所作を受け継いでいたでしょう。
それを証する
座像に
次のようなものを見つけました。
典拠:「東寺」*http://www.toji.or.jp/2012_autumn.shtml
衣で手が隠れておりますが、
叉手されていると見ていいでしょう。
叉手は、これ、何百年もかけて培われた
礼儀そのものですから、
僧侶の方が叉手されているお姿
その気になれば、結構、目撃できるはずです。
ところで、
「合掌」が「お辞儀」ではないように
「叉手」もまた「お辞儀」ではありません。
「お辞儀」ではないから、
「合掌」を否定、「叉手」も否定というのは、
可笑しいでしょ。
ただのお辞儀なら、
ダチョウの玩具だってやります。
そこに
国柄を持ち込んで、
朝鮮人は、
こんなお辞儀しかできないけど、
日本人は違うんだみたいな
みっともない話、
なぜ、できるのか不思議です。
確かに、
和服を着た人の
正しいとされるお辞儀の仕方というのは、
手を組み合わさず、
体の真横につけていていいようになってます。
ただ、それが
立礼の仕方として
伝統的な正統性があるのかと言えば違うような気がします。
本来なら正しいマナーであるはずなのに、
叉手は
僧侶や貴族、神官にのみ
許され、
当時の身分制社会にあって
武士には、
二級の為政者層として、
略式の
作法しか許されなかったということでしょうか。
この問題、
誰が文化の伝承者であったかと
関係すると思います。
中国の文化を
伝えたのは日本の場合、
僧侶でした。
そして伝えられた文化として
叉手がありました。
ただ、日本の武士階級が叉手をする僧侶、
たとえば、伝教大師や弘法大師を前にして
正しくそれが
武器の不使用を誓う仕草と理解される可能性があったでしょうか。
多分、無かったでしょう。
見るからに
「殺気」
と無縁な人に
武器の不使用を誓う仕草など、
不必要だったはずです。
結局、叉手の習俗は、
やはり戦闘行為と無縁な宮司が受け継ぎ、
当時の“庶民”である武士たちは、
頭を下げる仕草のみ、
今に「お辞儀」として伝えることになったのではないでしょうか。
自らの階級の挨拶の礼法の重心を
武士階級は、
畳文化を反映させて、
立礼から座礼へと移しました。
その結果、
座礼が土下座として日本独特な形で発展する一方、
立礼がおざなりになり、
叉手が簡略化(忘却)されたということでしょう。
ただ、現在、皮肉なことに、
簡略化された形が普通の形として認知された反面、
かつて正式なものだった挨拶の仕方が、
逆に差別の材料になるという…
なんか可笑しなことになっているんですな。
思うに、
相手に敬意を表するのに
国柄によって
天地の違いがあるという発想そのものが異様です。
改めて言うまでもなく、
「叉手」は、
相手に敬意に表するためにする作法です。
伝統に則った話をする限り、
この点につき、
朝鮮と日本の間に差があるわけではないです。
すなわち、
言葉本来の意味での「礼」は、
同じということです。
上掲、
ツイートに
分ったような解説がなされていますが、
なのに、なぜ、日本で
このような排外主義的な主張が普通になされるようになったのでしょう?
何も知らないくせに、
たまたま見つけた和服姿の立礼の仕方を見て
日本という辺境の地で成り立った独特の風習である
「お辞儀」をもって礼の模範とする
傲慢さに
鼻持ちならないものを
感じました。
そこにあるのは、
「片肘を張る」
という慣用句から連想される
否定的なニューアンスのみを根拠にした、
よく分らないもの、
言うなれば、
上に紹介した
小笠原流の範疇外の挨拶の型を
叉手、
すなわち、妙なお辞儀として
「伝統」的な作法が断罪されています。
もっとも、
下図のような型は、
叉手ではありませんが――。
典拠:噂のツイート!!@8633121y さんのツイート〔6:30 - 2014年11月1日 〕
これは、
肘鉄ですね、失礼しました。
冗談は、
さて置き、
ショックだったのは、
「みいすけ☆9条守れ!★脱原発・反TPP」さん
という方がリツイート したことです。
在特会に入っているような連中が言うのなら
無視したのですけど、
草の根のつながりを尊重しなければ実現しない
憲法9条の精神を守ろうとする
庶民派が言っていたことに大きなショックを受けました。
聖徳太子の教えである
「和をもって尊し」
とする思想の基底にある
国際主義は
一番、二番を競い合う
グローバリズムとは相入れない思想です。
もし、
日本の伝統を語りたいなら、
その点にこそ、
デリカシーを持つべきです。
もし、どうしても日本で発達した
挨拶の仕方に拘泥するなら、
人と出会う度に
土下座しておればいいでしょう。
それが日本独特の敬意の表し方です。
そういう立ち居振る舞いに、
卑屈さを感じるので、
僕自身は日常的には行いません。
しかし、だからと言って、
そのような土下座文化を生んだ
日本の
「辺境」性を恥じているわけではありません。
むしろ、
似非「中華」に陥ることを恥じます。
それをやっている内は、
日本は、
いつまで経っても中国の亜流です。
手をだらんとさせて
お辞儀しない奴は朝鮮人やという
デマを垂れ流して
得意になっているガキどもを見るにつけ、
一時代前に
日本に溢れかえっていた
中華思想の亜流である者の浅ましさを強く感じます。
どこがどう浅ましいのか――。
筋違いなことを言って、
弱い立場にいる相手を捻じ伏せようとするあたりが
自己欺瞞であり、
浅ましく感じる根本の部分です。
夕刻あった、
早雲 @souun_udokuさんのツイート、
――結局、在日特権、在日特権と騒ぐのは、自分たちが優越していると感じる相手に対してだけで、差別意識の裏返しみたいなものではないかな。劣等感持っている相手の米軍とか白人とかには、特権むさぼっててもだんまり。 情けない。http://sun.ap.teacup.com/souun/15668.html … …〔21:31 - 2014年10月29日 〕――を、
百回でも千回でも
読んで欲しいと思います。
ただ、一言だけ
老婆心ながら言うなら、
文化的なレベルで
日本は、
別に朝鮮人や中国人に優越しているわけではない
ということ。
むしろ、
彼らから文化を受け継いだ
関係にあることを
片時も忘れちゃいけないと思います。
忘れると、
石原慎太郎や
橋下徹みたいになっちゃいます。
すなわち、野蛮の権化!
同じ東洋人を侮蔑したがるのは、
「脱亜」
の意識があるからでしょう。
しかし、
「脱亜」という
精神論だけで
ヨーロッパ人になれるわけがないです。
そればかりじゃないです。
知らず知らずの内に卑屈さを
胸に宿すでしょう。
その結果はと言うと、
根なし草にしかならないです。
すなわち、
アイデンティの喪失。
「脱亜」によって
失くしたものの価値を
嘲笑っていると、
そうなるのが運命です。
無知って
怖いものです。
アイデンティの喪失ばかりでなく、
悪徳をも伴います。
冒頭に引用したツイートが
その醜悪さをよく示しています。
どういう悪徳か――。
イギリスの作家、
Samuel Butlerがうまい表現を残していますので
紹介します。
――The truest character of ignorance are vanity and pride and arrogance.
(無知の真の正体は、虚栄心と思い上がりと傲慢である)――
叉手をしている朝鮮女性を
「変なお辞儀」
と排撃する態度の裏側にある無知・無教養と、
それを支える
甘えた心を余すところなく描写しているでしょ?
さすが作家ですな。
ちなみに、この作家、生きていたのは、
1835~1902年です。
19世紀、
まだパソコンがないと言うに、
当時、世界中にネトウヨ気質の愚か者が
溢れていたってことですかね。
そんなものかもしれんな、
と思う昨今です。
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