(続き)
――ただ、現在、SEALDsが反・安保法制のシンボルどころか実際に運動の中心になっているのは間違いないですよね。SEALDsがデモを止めてしまったらその熱がどうなってしまうのかとも思いますし、あるいは、既にT-ns SOWL(Teens Stand up to Oppose War Law)のような高校生の団体も立ち上がっているので、熱はますます高まっていくのかもしれない。はっきりと言えるのは、今、反・安保法制の運動は若者が引っ張っているということで、それは、やっぱり、いくら安倍政権が「徴兵制はあり得ない」と言っても、若者たちは強い危機感を感じているということですよね。
小林 そうだね。安保法制だけでなく、少子高齢化の問題から何から、全部、若者に降りかかっていくわけだから。
奥田 そう考えると、いま〝緊急アクション〟って謳ってますけど、もう、今の政権があること自体が存立危機事態なので(笑)。子どもの貧困率も5人に1人とか言われていて、奨学金を借りてる人も半端ない数いて、しかも、経済的徴兵制じゃないですけど、「借金を返せない人は自衛隊に行くインターンもオプションとしてあり得る」、みたいな微妙な言い方をされていて。実際、友達でも「返せないでしょ」っていうやつもいるんですよね。そういう状況の中で僕たちは生きていかないといけないってなると……薬害エイズ事件のように、近年も左派的な学生運動っていろいろとあったと思うんですけど、リアリティが、全然、違う。「運動のための運動」とか「祭りを続けたいだけなんでしょ」とかケチをつけてくるひともいるものの、はっきり言ってそんな余裕はない。
小林 まったくそのとおりで、現実は相当厳しいはずですよ。これから先は特にね。
奥田 だから、なんでいま若者がこんなに声を上げているのかっていうと、余裕が無いからだと思うんです。みんな、本当に危機が迫っていると感じていて。このぐらいで食い止めておかないと、次に何か起こる時はもう手遅れになっているかもしれない。
今だって運動なんかやりたくないと思っているけど、ここでやっておかないと、いざ戦争が起こったら、何がどうなるか分かんないし、そうなっちゃった時にはもう抵抗できないから。
――小林さんは、薬害エイズ事件の際に運動に関わっていた学生たちと、SEALDsとではバックグラウンドが違うと感じますか?
小林 もう全然違うね、あの頃とは。とにかく、今は格差がどんどん開いているから。もうわしなんか歳だから、本当のことを言うとこのまま逃げ切れるのね。
奥田 うらやましいです。
小林 裕福に逃げ切れるんですよ、わしは。だけど、若い人が心配なわけですよ。とにかく、若い人が社会問題に関心を持ったほうがいい。いま起こっていることは、全部、自分たちの問題になってくるんだから。もちろん、きみたちのように既に社会問題に目覚めつつある若者もいる。そういう人たちをわしは大人として応援してあげたい。まあ、はっきり言って強者の余裕ですよ。
奥田 余裕っすか(笑)。
小林 武藤なんて強者じゃないでしょう。そういう若者たちのことを守ろうという気持ちがないんだから。経済的にどうかはともかく、精神的に弱者。安保法制にしてもやっぱりあなたたち若い人の問題なんだ。わしはそれを応援する側。だから、今日は牛田くんも来ればよかったのに(笑)。
奥田 ここで、今日、牛田が来なかった理由を補足しておきたいのですが、彼は『戦争論』だけでなく『卑怯者の島』(小学館、15年)なども読んで、「戦争のリアリティが分かってんのか?」という怒りを感じたみたいなんですね。
小林 ああ、わしに対してね。
――ちなみに、今日、欠席するにあたって牛田くんから送られてきたメールがあるんですよね?
奥田 そうですね。僕が代読するのも変なんですが、聞いていただけたらと思います。
小林 分かった。
奥田 読みます。「そもそも、〝日本〟という国家はヨーロッパ式の近代国家の枠組みの上で、ある種、フィクションとして、物語として形成されたものであり、そのヨーロッパ式のフィクションに基づいて〝愛国〟というものが成り立っている。では、そのヨーロッパ式の近代国家とは何か? それは、近代の立憲主義に基づく民主国家である。また、国家を構成する憲法(Constitution)の基礎となっているのは国民の憲法制定権力である。国家とは国民がつくるものであり、国家の本体は国民なのだ。そして、このように憲法を制定するのは、個々人の生の基盤を、自由で民主的な生活を守るためであり、そのためにこそ、国家というものがある」
「では、〝愛国〟とは何か? それは、憲法を遵守することである。なぜなら、憲法こそがフィクションとしての〝国家〟を形成しているからである。国のために、犠牲になる意志が〝愛国〟というのは自己矛盾である。なぜなら、〝愛国〟という時の〝国〟は〝国民を生きさせるために〟こそ存在しているからである」
「〝愛国〟の名の下で犠牲になっても良い、犠牲になることが仕方のない命などひとつもない。日本国民全員、自分も含めて誰ひとり死んでほしくない。そう考えること、そして、憲法を守り、自由で民主的な社会を守るために、今、路上に立って声を上げることこそ真の〝愛国〟だ」。
……そして、この後がちょっとキツい言い方なんですが、僕なりに要約すると、愛国者を自称しているのならば、国会前に来て欲しいと。ワンオブゼムとして、愛国者として、主権者として声を上げて欲しいと。また、ネトウヨのような自称愛国者たちは、こんなクソみたいな社会にしてしまったことに対して謝罪して欲しいと。……で、次が最後の段落です。
「本当の敵、つまり、対話不能なエイリアンが攻めてきたなら、戦う意志は当然ある。しかし、ネトウヨどもが敵としている韓国や中国の人たちは対話不能なエイリアンではない。そもそもそのような想定はおかしい。確かに対話の難しい人たちがいる。例えばイスラム国の人たちはそうかもしれない。しかし、お互いに言葉をもつ限り、絶対に不可能ではない。その対話の、決してゼロにはならない極小の可能性に賭け続けること、そして、勝利し続けること、それこそが、われわれの政治であり、国民の命を守護する、国家の使命だ」。……以上です。
小林 なるほど。
奥田 これを読む限り、牛田と小林さんの国家観は実は近いと感じます。ただ、どこですれ違っているかということを僕なりに整理するとですね、彼は小林さんの本を読んで、徴兵制を肯定的に捉えるような言い回しに納得出来なかったと思うんです。
小林 そうみたいだね。
奥田 牛田いわく、本来〝愛国〟っていうのはこの国のすべての人に生きていってほしいと願うことだし、戦争にしても勇ましく死んでいったストーリーだけじゃないはずだと。
小林 日本は、明治の時に近代国家に変貌したんだよね。明治維新がなかったら国民は平等じゃなかったんだよ。それまでは身分差別があったわけだ。で、高杉晋作が奇兵隊を作る時に身分に関係なく兵隊を募集したことを、百姓はみな喜んだわけだ。「武器を持って戦える」と。「武士と同じ身分になれるのだ」と。つまり、自分たちが武器を持って戦うっていうことがものすごい喜びだったの。
奥田 フランス革命にもそういう側面がありましたよね。
小林 そうそう。なぜ、ナポレオンは戦争が強かったか。フランスの国民、全員が武器を持って戦い始めたから圧倒的に強かったわけだ。それが国民国家の始まりであって、明治の日本もそのフランスのような近代国民国家の枠組みを取り入れた。だから、国民国家は徴兵制(国民皆兵)を基本にしている。
あと、スイスっていう国はどうなのか考えた方がいいよね。スイスでは、「同盟国をつくらないで、自分たちだけで自国を守る」っていうことを、国民の70%が支持している。「いざとなったら俺たちが戦う」っていう覚悟があるから、戦争に巻き込まれないっていう状態になっている。
ひるがえって、同盟国があるから、アメリカと安全保障条約を結んでいるから日本がこれまで平和だったのだとしたら、同盟国があることによって戦争に巻き込まれかねない今の状況をどう考えるのか。それは、やっぱり、日本が本当の国民国家じゃないから、こういうことになっているわけだよね。だって、自分たちに主権がないだもん。
奥田 そうですね。だから、今回のいわゆる〝存立危機事態〟っていうのも、アメリカ側の要請を断れないこと自体が〝存立危機事態〟みたいな感じになってますもんね。
あと、恐らく、牛田がいちばん言いたかったのは、そもそも、「国民国家のコンセプトにはこの国のすべての人に生きて欲しいという願いがある」っていうことなんだと思うんですけど、スイスの場合はそのためにいざとなったらひとりひとりが戦うっていう形を取った。ただ、それもひとつの形でしかないし、戦うこと自体が目的ではないですね。
小林 全然違うよ。だから、牛田くんが願うような国家のパターンって、この国際社会の中でどの国にあたるのか探した方がいいよ。そもそも、そういう国があるのかどうか。ただ、現在の国民国家を乗り越える思想ってないんですよ。
奥田 いや、だからこそ、彼も国民国家の思想に基づいて、〝愛国〟という言葉を使っているわけで。その上で、フランス革命にしても考えなければいけないのは、勇ましく戦って死んだから国民国家なんだっていうことではなく、もうちょっと根源的な……「なぜ自分たちを国民だと考えた時に自由だって思えたのか。究極的には何と戦おうとしていたのか。そこがいちばん問われているんじゃないか」っていうことを牛田は言おうとしているのかなと。
――それと、奥田さんは優しいので代読の際に濁していましたが、途中、牛田さんはメールではっきりと小林さんに対して、こんなクソみたいな社会にしてしまったことを謝罪して欲しいと書いているんですね。先ほど、小林さんは「わしの本はちょっと売れすぎてしまったんだな」と言われていました。また、近刊『新戦争論』(幻冬舎、15年)の第18章「『戦争論』の正しい読み方」の中で「ネトウヨは『戦争論』の副作用である! 圧倒的に効く特効薬には副作用があってもしかたがないっ!」と書かれた上で、いわゆる〝ネトウヨ〟を批判されている。ただ、自身の責任については謝罪されていない。要するに、牛田くんが求めているのは明確な謝罪なんです。
小林 ……(苦笑)。
――牛田くんが書くところの〝こんなクソみたいな社会〟の根源に、『戦争論』があるのではないかと。ネトウヨだけでなく、安倍総理だったり武藤議員だったりも〝『戦争論』チルドレン〟と言えるのではないかと。それに対して明確に謝罪して欲しいと彼は言っているわけです。
小林 そこまで言い始めたら全体主義になるよ。誰にでも表現の自由や思想の自由はあるんだから。わしは今も『戦争論』の中で描いたことは何ひとつ間違っていないと思っている。それは、全部ひとつずつはっきりと言える。その上で、『戦争論』を描いたことを謝罪するんだとしたら、あの本を絶版回収にしないといけないよ。もう誰も読めないようにしないといけない。そういうことを求めるのが、自分を正義だと信じている人間の恐ろしさだよ。スターリンもそうだし、ポルポトもそう。自分が正義だと信じている人間は、表現の自由を許さなくなるのよ。自分と違う思想の人間を許せない。つまり、百田尚樹や今の安倍政権と一緒なの。
――「沖縄のふたつの新聞社は潰さなあかんのですけども」という発言ですか。
小林 うん、そうなってしまう。わしから見ても、沖縄の新聞で異常だと感じるものはある。これはおかしいんじゃないっていうところがある。まったく無責任に琉球独立論を謳っている人間とか。国防を考えずにそんなことをしたらたちまちのうちに侵略されちゃうわけで、その発言の責任は大きいと思うよ。ただ、それでも百田尚樹みたいなことを言うと、全体主義になってしまうんだな。
まぁ、彼(牛田)はまだ若いからね。特に批判する気にはならない。わしだって若かったし、徐々にものの考え方が変わってきているところもあるから。若い人がつっぱってそういう風に言う気持ちも分かるし、きっと、情熱の強い人なんだろうね。でも、正義の罠にハマると全体主義になることには気を付けた方がいいよ。だから、『脱正義論』なのよ。わしが薬害エイズ事件の運動から学んだのは正義を信奉すると危ないということだったのね。
やっぱり、思想っていうのは固まったらダメなの。イデオロギーはどこかで固まるわけ。例えばマルクス主義に凝り固まってしまう。
そうではなく、思想は延々と考え続けないといけない。なぜなら、状況はどんどん変わる。それによって、自分の考え方も変わらなければいけない。ネトウヨにしても、やつらは思想するのを止めたんだな。
奥田 いや、僕が代弁するのもおかしいんですけど、牛田が、小林さんの本をいろいろと読んで感じたのは、「『戦争論』を絶版にしろ」とかっていうことよりも、〝愛国〟という言葉が、たとえば武藤議員が主張するような「戦争に行きたくないと言うのは利己的である」みたいな形に定義されてしまった要因が、「ああ、ここから来ているのか」っていうことなんだと思うんですよね。
――『戦争論』を始めとした小林さんの諸作こそが、SEALDsが対峙している現状をつくったテキストだと。
小林 いや、だから……『戦争論』1冊が安倍晋三からネトウヨからありとあらゆるやつらを洗脳してしまったんだって言うのならば、そこまで影響力を持っているということは、わしにとってはある意味で誇らしいことだよ(笑)。ただ、わしがあの本で肯定しているのは自主防衛と自衛戦争だから。そこは変わっていない。
で、前の戦争だって自主防衛と自衛戦争っていう概念から始まったんですよ。それが、支那事変あたりで怪しくなってくるものの、やっぱり、満州事変までは自衛戦争なのよ。要因には、ロシアの南下が恐いっていうのがあったから。確かにその辺の分析は歴史家によって違ってくるんだけども。そして、わしは安保法制が想定している、中東に戦争しに行くようなことは自主防衛の範囲じゃないと思っている。
奥田 小林さんと牛田くんのいちばんの違いは……牛田くんは根源的なところにこだわるので、彼が考えているのは「民主主義のコンセプトは国民を生かすことだし、たとえ防衛戦争であっても戦争には変わりないし、それがあった方が良かったかどうか、それを肯定出来るかどうかって言ったら、人が死んでる時点で肯定できない、けれど、事実としてあった」っていうことなんですよね。
小林 防衛戦争まで否定するってことになるともう……。
奥田 いや、「本当の敵、つまり、対話不能なエイリアンが攻めてきたなら戦う意志は当然ある」と言ってるので、否定はしていないんですよ。
小林 地球人なら誰でも話し合えて、戦争せずに済む?
奥田 いや、地球人でも対話不能ならエイリアンですよね、彼の定義では。だから、繰り返しになりますけど、彼も「いざとなったらやるしかないでしょう」ってことは肯定していて。どっちかと言うと、「9条は変えてもいいんじゃない?」と言っていたようなやつなんで。ただ、だからといって、戦争を美談にしてはならないと。そして、小林さんの作品にそういった語り口を感じて、それがネトウヨ的なものを生んだのではないかという意見なんだと思います。
小林 それはね、どうにもならない。ものを描く時に、その作品がどんな効果を生むかなんてことを考えて制御は出来ない。さっきも言ったように、『戦争論』を出す前はすごく左傾化した世の中だったから、売れるとも思っていなかったし、批判だけされて終わりかもと覚悟すらしていた。ましてや、ネトウヨが生まれるなんて夢にも思ってなかったわけ。
奥田 うーん……。
小林 わしが本当に『戦争論』を描いたこと自体を謝罪しなければいけないほどまずかったって思うんだったら、その本はやっぱり回収しないとダメ。
奥田 だから、今日、牛田と朝まで話して僕からもいろいろと言ったんですけど、結果的に、彼は来なくて良かったと思うんですよ。
小林 ん? なんで?
奥田 いや、話し合うのは大事ですけど、牛田が最初から謝罪を要求するつもりで来るなら、それは対話じゃないじゃないですか。
小林 そうだね。
奥田 だから失礼ですよね。もちろん、当日ドタキャンすることもめちゃくちゃ失礼だと思うんですけど(笑)。
小林 なんて言うのかな……やっぱり、そういう態度を人に知られた時に誰も支持しないよ。一般人は常識で判断するから、「うわ、ちょっと狂ってるな」という風に見ちゃう。でも、わしは、若いんだしそれで良いとも思うわけよ。平和主義を信じてるんだろうし、戦争を防ぎたいと思ってるんでしょう。ただ、こうやって議論はした方が良いよ。民主主義を信じているのならば、なんでわしを説得できないんですか? じゃあ、わしはエイリアンですか? っていう話になる。わしは辻元清美とだって仲良く出来るよ。
奥田 (笑)。先ほども言いましたけど、彼は小林さんと会って決裂することによって、どういう風に描かれるか気にしたんだと思います。
小林 それはおかしいと思う。自分がどう描かれるかを気にするのは党派性。それじゃあ、個人じゃないよ。どう描かれようと反論していけばいいわけであって。
奥田 そうなんですけど、牛田も、今回、こういう形ではなくて、普通に個人として小林さんと喋るっていうことだったら来たと思うんですね。ただ、この対談が世に出たら、どうしても〝SEALDsの若者〟の意見として読まれるわけじゃないですか。小林さんもブログに「SEALDsの若者と議論することになった」って書いていたし。奥田、牛田、という個人ではなく。
――自分では個人としてやっているつもりでも、周りからは集団として捉えられてしまう。昨晩の牛田さんの「明日はキャンセルしようと思います」というツイートも、SEALDsの意見として即行でまとめサイトに上げられちゃったわけですからね。
小林 そうなんだよー。そうやって出回っちゃってるわけですよ。だけど、当の言われたわしは全然怒ってない。むしろ、若いんだから血が滾りますよと。そういう意味では非常に愛国的な人ですねと(笑)。そう思っているってことでいいじゃない。
――では、牛田さんの意見だけを代弁していても抽象的な話になってしまうので、一方、奥田さんがこの場に来ようと思った理由と、今日の対話の中で感じたことを聞かせてください。
奥田 この場に来ようと思ったのは、やっぱり、〝SEALDsの奥田〟ではなくて、個人の〝奥田愛基〟としてです。個人って、当然、それぞれ意見が違うんですよ。僕と小林さんは意見が違うし、たぶん『ゴー宣道場』にいるひとも、ひとりひとり意見が違いますよね? 冒頭で言ったようにSEALDsもそうで、実際、意見が割れて、今日、ひとり来なかったわけです(笑)。
ただ、僕としては意見が違っても個人と個人として話すことが出来るし、1点で共闘して戦うことだって出来ると思うんです。もし、みんなが同じ意見だったら民主主義じゃなくて、独裁国家でもいいわけじゃないですか。だから、逆に言えば、僕は民主主義っていうのは単なる制度ではなくて、ひとりひとりの意見が違う中でどう生きていくかっていうことを考える能力だと思うんです。そして、今の日本はその能力が低い。特に安倍さんの周りの人たちは非常に低い。期待出来ない。
小林 そうだね。
奥田 もちろん、「個人だから意見が違って当たり前」と言っても、絶対に許せないものはあると思うんですよ。たとえばヘイトスピーチだとか、人を殺すことだとか、戦争をすることだとか。もしくは、ひとによってはもっと瑣末な「あいつだけは許せない」みたいな話かもしれないし。ただ、僕のスタンスとしては、それ以外だったら、どんな政党の人にも会いに行くし、どんな思想の人にも会いに行く。まぁ、「小林さんの『戦争論』は安倍さんにも影響を与えたネトウヨ的なカルチャーの源流のひとつだから許せない」というひともいると思うんですけど、僕は、小林さんが、今、その安倍政権に危機感を持っていて、SEALDsの若者と話してもいいとおっしゃってくださったのならば、ぜひ会いましょうと。ただし、個人と個人として会うので、当然、細かい意見は違いますよと。
だって、僕なんてたった23歳だし、人生の経験が全然足りないし。それこそ、60になったら絶対違うことを言っているだろうし。でも、その前提の上でいま話すべきことがあると思ったので、僕は今日、ここに来ました。
小林 いや、立派だと思います。最近、宮台真司とか東浩紀とかも『ゴー宣道場』にゲストで来てるけど、まぁ、基本的な考え方は違いますよ。違うけど、やっぱり、安倍政権そのものに疑念を持っているというところでは一緒なんです。だからこそ、話し合うことが出来るっていう状態なのね。
わしは誰もが一緒くたの考えになった方が良いとは思わないし、あるいは、考えを転向したって良いと思っているから。あと、繰り返しになるけど、若い人は危ない。今も攻撃されているだろうし、これから先ももっと攻撃されるかもしれない。それで、実際に会ってみて、特に党派性とか極左に取り込まれているような実態がないんだったら、ちゃんと擁護したいと思ったから会いに来たの。
たとえば、もし、悪く言う人がいた時に「いや、彼らはそういう人たちじゃないよ」と。わしが言うだけでけっこう効く場面はあると思いますよ。そう言えるようになったから、今日、会ってすごく良かったと思います。
奥田 最後にもうひとつ言わせていただくと、僕はカルチャーそのものも変えないといけないと思うんですよ。
小林 ほう。
奥田 これは僕なりの見方なんですけど、90年代に経済状況が安定しなくなって、自民党でさえも社会保障の面倒を見るのを止めて新自由主義に走ろうとしていく中で、2ちゃんねるみたいなものが出来て。『戦争論』が刊行されて。小林さんの意図とは違ったのかもしれないですけど、『戦争論』に影響を受けて『嫌韓流』なんかも出てきて。それに対して、オールド・リベラルはバカにしてたと思うんですよ。「ネットとかマンガで何言ってんの?」みたいな。でも、結果、ちょっと前の2ちゃんとか、今だったらニコ生とか、すごく冷笑的で、誰かのせいにし続ける上に責任を取らないカルチャーが日本で大きくなって。終いには、日本の経済がダメなのは在日特権があるからだって言うような人たちまで出てきて。しかも、その人たちに応援される形で安倍さんが首相になって。僕はそういうカルチャーをバカにせずにちゃんと対抗していかなきゃいけないと思うんですよ。あるいは、もっと引き受けるカルチャーをつくらないといけないと思うんです。だって、震災以前だったら在特会がいちばんデモをやっていたんですよ。それをオールド・リベラルも「どうしようもないね、あの人たち。まぁ一部だもんね」と冷笑して、実際に政治に影響を与えるまで放っといたんですもん。だから、僕はこの負の連鎖みたいなものを断ち切って、新しいカルチャーをつくりたいんです。それが僕なりに思うことですね。
小林 うん。いいんじゃない。若い人がずっとカルチャーをつくってきたんだもん。昔はもっとサブカルチャーって華々しかったよね。今のようにカルチャーそのものが貧しくなってしまった時代っていうのは、ないよ。60年代、70年代、80年代、90年代、00年代 と見てきて、現代がいちばんカルチャーが萎んでしまっている。「今の若者って楽しいのかな? こんな世の中で」ってよく思ったりするよ。だから、SEALDsには期待しています。
――残念ながら、もう時間です。
小林 また話しましょうね。
奥田 よろしくお願いします。
対談日時:2015年8月8日@渋谷
text:磯部涼 photo:江森康之 editorial:北尾修一
――ただ、現在、SEALDsが反・安保法制のシンボルどころか実際に運動の中心になっているのは間違いないですよね。SEALDsがデモを止めてしまったらその熱がどうなってしまうのかとも思いますし、あるいは、既にT-ns SOWL(Teens Stand up to Oppose War Law)のような高校生の団体も立ち上がっているので、熱はますます高まっていくのかもしれない。はっきりと言えるのは、今、反・安保法制の運動は若者が引っ張っているということで、それは、やっぱり、いくら安倍政権が「徴兵制はあり得ない」と言っても、若者たちは強い危機感を感じているということですよね。
小林 そうだね。安保法制だけでなく、少子高齢化の問題から何から、全部、若者に降りかかっていくわけだから。
奥田 そう考えると、いま〝緊急アクション〟って謳ってますけど、もう、今の政権があること自体が存立危機事態なので(笑)。子どもの貧困率も5人に1人とか言われていて、奨学金を借りてる人も半端ない数いて、しかも、経済的徴兵制じゃないですけど、「借金を返せない人は自衛隊に行くインターンもオプションとしてあり得る」、みたいな微妙な言い方をされていて。実際、友達でも「返せないでしょ」っていうやつもいるんですよね。そういう状況の中で僕たちは生きていかないといけないってなると……薬害エイズ事件のように、近年も左派的な学生運動っていろいろとあったと思うんですけど、リアリティが、全然、違う。「運動のための運動」とか「祭りを続けたいだけなんでしょ」とかケチをつけてくるひともいるものの、はっきり言ってそんな余裕はない。
小林 まったくそのとおりで、現実は相当厳しいはずですよ。これから先は特にね。
奥田 だから、なんでいま若者がこんなに声を上げているのかっていうと、余裕が無いからだと思うんです。みんな、本当に危機が迫っていると感じていて。このぐらいで食い止めておかないと、次に何か起こる時はもう手遅れになっているかもしれない。
今だって運動なんかやりたくないと思っているけど、ここでやっておかないと、いざ戦争が起こったら、何がどうなるか分かんないし、そうなっちゃった時にはもう抵抗できないから。
――小林さんは、薬害エイズ事件の際に運動に関わっていた学生たちと、SEALDsとではバックグラウンドが違うと感じますか?
小林 もう全然違うね、あの頃とは。とにかく、今は格差がどんどん開いているから。もうわしなんか歳だから、本当のことを言うとこのまま逃げ切れるのね。
奥田 うらやましいです。
小林 裕福に逃げ切れるんですよ、わしは。だけど、若い人が心配なわけですよ。とにかく、若い人が社会問題に関心を持ったほうがいい。いま起こっていることは、全部、自分たちの問題になってくるんだから。もちろん、きみたちのように既に社会問題に目覚めつつある若者もいる。そういう人たちをわしは大人として応援してあげたい。まあ、はっきり言って強者の余裕ですよ。
奥田 余裕っすか(笑)。
小林 武藤なんて強者じゃないでしょう。そういう若者たちのことを守ろうという気持ちがないんだから。経済的にどうかはともかく、精神的に弱者。安保法制にしてもやっぱりあなたたち若い人の問題なんだ。わしはそれを応援する側。だから、今日は牛田くんも来ればよかったのに(笑)。
奥田 ここで、今日、牛田が来なかった理由を補足しておきたいのですが、彼は『戦争論』だけでなく『卑怯者の島』(小学館、15年)なども読んで、「戦争のリアリティが分かってんのか?」という怒りを感じたみたいなんですね。
小林 ああ、わしに対してね。
――ちなみに、今日、欠席するにあたって牛田くんから送られてきたメールがあるんですよね?
奥田 そうですね。僕が代読するのも変なんですが、聞いていただけたらと思います。
小林 分かった。
奥田 読みます。「そもそも、〝日本〟という国家はヨーロッパ式の近代国家の枠組みの上で、ある種、フィクションとして、物語として形成されたものであり、そのヨーロッパ式のフィクションに基づいて〝愛国〟というものが成り立っている。では、そのヨーロッパ式の近代国家とは何か? それは、近代の立憲主義に基づく民主国家である。また、国家を構成する憲法(Constitution)の基礎となっているのは国民の憲法制定権力である。国家とは国民がつくるものであり、国家の本体は国民なのだ。そして、このように憲法を制定するのは、個々人の生の基盤を、自由で民主的な生活を守るためであり、そのためにこそ、国家というものがある」
「では、〝愛国〟とは何か? それは、憲法を遵守することである。なぜなら、憲法こそがフィクションとしての〝国家〟を形成しているからである。国のために、犠牲になる意志が〝愛国〟というのは自己矛盾である。なぜなら、〝愛国〟という時の〝国〟は〝国民を生きさせるために〟こそ存在しているからである」
「〝愛国〟の名の下で犠牲になっても良い、犠牲になることが仕方のない命などひとつもない。日本国民全員、自分も含めて誰ひとり死んでほしくない。そう考えること、そして、憲法を守り、自由で民主的な社会を守るために、今、路上に立って声を上げることこそ真の〝愛国〟だ」。
……そして、この後がちょっとキツい言い方なんですが、僕なりに要約すると、愛国者を自称しているのならば、国会前に来て欲しいと。ワンオブゼムとして、愛国者として、主権者として声を上げて欲しいと。また、ネトウヨのような自称愛国者たちは、こんなクソみたいな社会にしてしまったことに対して謝罪して欲しいと。……で、次が最後の段落です。
「本当の敵、つまり、対話不能なエイリアンが攻めてきたなら、戦う意志は当然ある。しかし、ネトウヨどもが敵としている韓国や中国の人たちは対話不能なエイリアンではない。そもそもそのような想定はおかしい。確かに対話の難しい人たちがいる。例えばイスラム国の人たちはそうかもしれない。しかし、お互いに言葉をもつ限り、絶対に不可能ではない。その対話の、決してゼロにはならない極小の可能性に賭け続けること、そして、勝利し続けること、それこそが、われわれの政治であり、国民の命を守護する、国家の使命だ」。……以上です。
小林 なるほど。
奥田 これを読む限り、牛田と小林さんの国家観は実は近いと感じます。ただ、どこですれ違っているかということを僕なりに整理するとですね、彼は小林さんの本を読んで、徴兵制を肯定的に捉えるような言い回しに納得出来なかったと思うんです。
小林 そうみたいだね。
奥田 牛田いわく、本来〝愛国〟っていうのはこの国のすべての人に生きていってほしいと願うことだし、戦争にしても勇ましく死んでいったストーリーだけじゃないはずだと。
小林 日本は、明治の時に近代国家に変貌したんだよね。明治維新がなかったら国民は平等じゃなかったんだよ。それまでは身分差別があったわけだ。で、高杉晋作が奇兵隊を作る時に身分に関係なく兵隊を募集したことを、百姓はみな喜んだわけだ。「武器を持って戦える」と。「武士と同じ身分になれるのだ」と。つまり、自分たちが武器を持って戦うっていうことがものすごい喜びだったの。
奥田 フランス革命にもそういう側面がありましたよね。
小林 そうそう。なぜ、ナポレオンは戦争が強かったか。フランスの国民、全員が武器を持って戦い始めたから圧倒的に強かったわけだ。それが国民国家の始まりであって、明治の日本もそのフランスのような近代国民国家の枠組みを取り入れた。だから、国民国家は徴兵制(国民皆兵)を基本にしている。
あと、スイスっていう国はどうなのか考えた方がいいよね。スイスでは、「同盟国をつくらないで、自分たちだけで自国を守る」っていうことを、国民の70%が支持している。「いざとなったら俺たちが戦う」っていう覚悟があるから、戦争に巻き込まれないっていう状態になっている。
ひるがえって、同盟国があるから、アメリカと安全保障条約を結んでいるから日本がこれまで平和だったのだとしたら、同盟国があることによって戦争に巻き込まれかねない今の状況をどう考えるのか。それは、やっぱり、日本が本当の国民国家じゃないから、こういうことになっているわけだよね。だって、自分たちに主権がないだもん。
奥田 そうですね。だから、今回のいわゆる〝存立危機事態〟っていうのも、アメリカ側の要請を断れないこと自体が〝存立危機事態〟みたいな感じになってますもんね。
あと、恐らく、牛田がいちばん言いたかったのは、そもそも、「国民国家のコンセプトにはこの国のすべての人に生きて欲しいという願いがある」っていうことなんだと思うんですけど、スイスの場合はそのためにいざとなったらひとりひとりが戦うっていう形を取った。ただ、それもひとつの形でしかないし、戦うこと自体が目的ではないですね。
小林 全然違うよ。だから、牛田くんが願うような国家のパターンって、この国際社会の中でどの国にあたるのか探した方がいいよ。そもそも、そういう国があるのかどうか。ただ、現在の国民国家を乗り越える思想ってないんですよ。
奥田 いや、だからこそ、彼も国民国家の思想に基づいて、〝愛国〟という言葉を使っているわけで。その上で、フランス革命にしても考えなければいけないのは、勇ましく戦って死んだから国民国家なんだっていうことではなく、もうちょっと根源的な……「なぜ自分たちを国民だと考えた時に自由だって思えたのか。究極的には何と戦おうとしていたのか。そこがいちばん問われているんじゃないか」っていうことを牛田は言おうとしているのかなと。
――それと、奥田さんは優しいので代読の際に濁していましたが、途中、牛田さんはメールではっきりと小林さんに対して、こんなクソみたいな社会にしてしまったことを謝罪して欲しいと書いているんですね。先ほど、小林さんは「わしの本はちょっと売れすぎてしまったんだな」と言われていました。また、近刊『新戦争論』(幻冬舎、15年)の第18章「『戦争論』の正しい読み方」の中で「ネトウヨは『戦争論』の副作用である! 圧倒的に効く特効薬には副作用があってもしかたがないっ!」と書かれた上で、いわゆる〝ネトウヨ〟を批判されている。ただ、自身の責任については謝罪されていない。要するに、牛田くんが求めているのは明確な謝罪なんです。
小林 ……(苦笑)。
――牛田くんが書くところの〝こんなクソみたいな社会〟の根源に、『戦争論』があるのではないかと。ネトウヨだけでなく、安倍総理だったり武藤議員だったりも〝『戦争論』チルドレン〟と言えるのではないかと。それに対して明確に謝罪して欲しいと彼は言っているわけです。
小林 そこまで言い始めたら全体主義になるよ。誰にでも表現の自由や思想の自由はあるんだから。わしは今も『戦争論』の中で描いたことは何ひとつ間違っていないと思っている。それは、全部ひとつずつはっきりと言える。その上で、『戦争論』を描いたことを謝罪するんだとしたら、あの本を絶版回収にしないといけないよ。もう誰も読めないようにしないといけない。そういうことを求めるのが、自分を正義だと信じている人間の恐ろしさだよ。スターリンもそうだし、ポルポトもそう。自分が正義だと信じている人間は、表現の自由を許さなくなるのよ。自分と違う思想の人間を許せない。つまり、百田尚樹や今の安倍政権と一緒なの。
――「沖縄のふたつの新聞社は潰さなあかんのですけども」という発言ですか。
小林 うん、そうなってしまう。わしから見ても、沖縄の新聞で異常だと感じるものはある。これはおかしいんじゃないっていうところがある。まったく無責任に琉球独立論を謳っている人間とか。国防を考えずにそんなことをしたらたちまちのうちに侵略されちゃうわけで、その発言の責任は大きいと思うよ。ただ、それでも百田尚樹みたいなことを言うと、全体主義になってしまうんだな。
まぁ、彼(牛田)はまだ若いからね。特に批判する気にはならない。わしだって若かったし、徐々にものの考え方が変わってきているところもあるから。若い人がつっぱってそういう風に言う気持ちも分かるし、きっと、情熱の強い人なんだろうね。でも、正義の罠にハマると全体主義になることには気を付けた方がいいよ。だから、『脱正義論』なのよ。わしが薬害エイズ事件の運動から学んだのは正義を信奉すると危ないということだったのね。
やっぱり、思想っていうのは固まったらダメなの。イデオロギーはどこかで固まるわけ。例えばマルクス主義に凝り固まってしまう。
そうではなく、思想は延々と考え続けないといけない。なぜなら、状況はどんどん変わる。それによって、自分の考え方も変わらなければいけない。ネトウヨにしても、やつらは思想するのを止めたんだな。
奥田 いや、僕が代弁するのもおかしいんですけど、牛田が、小林さんの本をいろいろと読んで感じたのは、「『戦争論』を絶版にしろ」とかっていうことよりも、〝愛国〟という言葉が、たとえば武藤議員が主張するような「戦争に行きたくないと言うのは利己的である」みたいな形に定義されてしまった要因が、「ああ、ここから来ているのか」っていうことなんだと思うんですよね。
――『戦争論』を始めとした小林さんの諸作こそが、SEALDsが対峙している現状をつくったテキストだと。
小林 いや、だから……『戦争論』1冊が安倍晋三からネトウヨからありとあらゆるやつらを洗脳してしまったんだって言うのならば、そこまで影響力を持っているということは、わしにとってはある意味で誇らしいことだよ(笑)。ただ、わしがあの本で肯定しているのは自主防衛と自衛戦争だから。そこは変わっていない。
で、前の戦争だって自主防衛と自衛戦争っていう概念から始まったんですよ。それが、支那事変あたりで怪しくなってくるものの、やっぱり、満州事変までは自衛戦争なのよ。要因には、ロシアの南下が恐いっていうのがあったから。確かにその辺の分析は歴史家によって違ってくるんだけども。そして、わしは安保法制が想定している、中東に戦争しに行くようなことは自主防衛の範囲じゃないと思っている。
奥田 小林さんと牛田くんのいちばんの違いは……牛田くんは根源的なところにこだわるので、彼が考えているのは「民主主義のコンセプトは国民を生かすことだし、たとえ防衛戦争であっても戦争には変わりないし、それがあった方が良かったかどうか、それを肯定出来るかどうかって言ったら、人が死んでる時点で肯定できない、けれど、事実としてあった」っていうことなんですよね。
小林 防衛戦争まで否定するってことになるともう……。
奥田 いや、「本当の敵、つまり、対話不能なエイリアンが攻めてきたなら戦う意志は当然ある」と言ってるので、否定はしていないんですよ。
小林 地球人なら誰でも話し合えて、戦争せずに済む?
奥田 いや、地球人でも対話不能ならエイリアンですよね、彼の定義では。だから、繰り返しになりますけど、彼も「いざとなったらやるしかないでしょう」ってことは肯定していて。どっちかと言うと、「9条は変えてもいいんじゃない?」と言っていたようなやつなんで。ただ、だからといって、戦争を美談にしてはならないと。そして、小林さんの作品にそういった語り口を感じて、それがネトウヨ的なものを生んだのではないかという意見なんだと思います。
小林 それはね、どうにもならない。ものを描く時に、その作品がどんな効果を生むかなんてことを考えて制御は出来ない。さっきも言ったように、『戦争論』を出す前はすごく左傾化した世の中だったから、売れるとも思っていなかったし、批判だけされて終わりかもと覚悟すらしていた。ましてや、ネトウヨが生まれるなんて夢にも思ってなかったわけ。
奥田 うーん……。
小林 わしが本当に『戦争論』を描いたこと自体を謝罪しなければいけないほどまずかったって思うんだったら、その本はやっぱり回収しないとダメ。
奥田 だから、今日、牛田と朝まで話して僕からもいろいろと言ったんですけど、結果的に、彼は来なくて良かったと思うんですよ。
小林 ん? なんで?
奥田 いや、話し合うのは大事ですけど、牛田が最初から謝罪を要求するつもりで来るなら、それは対話じゃないじゃないですか。
小林 そうだね。
奥田 だから失礼ですよね。もちろん、当日ドタキャンすることもめちゃくちゃ失礼だと思うんですけど(笑)。
小林 なんて言うのかな……やっぱり、そういう態度を人に知られた時に誰も支持しないよ。一般人は常識で判断するから、「うわ、ちょっと狂ってるな」という風に見ちゃう。でも、わしは、若いんだしそれで良いとも思うわけよ。平和主義を信じてるんだろうし、戦争を防ぎたいと思ってるんでしょう。ただ、こうやって議論はした方が良いよ。民主主義を信じているのならば、なんでわしを説得できないんですか? じゃあ、わしはエイリアンですか? っていう話になる。わしは辻元清美とだって仲良く出来るよ。
奥田 (笑)。先ほども言いましたけど、彼は小林さんと会って決裂することによって、どういう風に描かれるか気にしたんだと思います。
小林 それはおかしいと思う。自分がどう描かれるかを気にするのは党派性。それじゃあ、個人じゃないよ。どう描かれようと反論していけばいいわけであって。
奥田 そうなんですけど、牛田も、今回、こういう形ではなくて、普通に個人として小林さんと喋るっていうことだったら来たと思うんですね。ただ、この対談が世に出たら、どうしても〝SEALDsの若者〟の意見として読まれるわけじゃないですか。小林さんもブログに「SEALDsの若者と議論することになった」って書いていたし。奥田、牛田、という個人ではなく。
――自分では個人としてやっているつもりでも、周りからは集団として捉えられてしまう。昨晩の牛田さんの「明日はキャンセルしようと思います」というツイートも、SEALDsの意見として即行でまとめサイトに上げられちゃったわけですからね。
小林 そうなんだよー。そうやって出回っちゃってるわけですよ。だけど、当の言われたわしは全然怒ってない。むしろ、若いんだから血が滾りますよと。そういう意味では非常に愛国的な人ですねと(笑)。そう思っているってことでいいじゃない。
――では、牛田さんの意見だけを代弁していても抽象的な話になってしまうので、一方、奥田さんがこの場に来ようと思った理由と、今日の対話の中で感じたことを聞かせてください。
奥田 この場に来ようと思ったのは、やっぱり、〝SEALDsの奥田〟ではなくて、個人の〝奥田愛基〟としてです。個人って、当然、それぞれ意見が違うんですよ。僕と小林さんは意見が違うし、たぶん『ゴー宣道場』にいるひとも、ひとりひとり意見が違いますよね? 冒頭で言ったようにSEALDsもそうで、実際、意見が割れて、今日、ひとり来なかったわけです(笑)。
ただ、僕としては意見が違っても個人と個人として話すことが出来るし、1点で共闘して戦うことだって出来ると思うんです。もし、みんなが同じ意見だったら民主主義じゃなくて、独裁国家でもいいわけじゃないですか。だから、逆に言えば、僕は民主主義っていうのは単なる制度ではなくて、ひとりひとりの意見が違う中でどう生きていくかっていうことを考える能力だと思うんです。そして、今の日本はその能力が低い。特に安倍さんの周りの人たちは非常に低い。期待出来ない。
小林 そうだね。
奥田 もちろん、「個人だから意見が違って当たり前」と言っても、絶対に許せないものはあると思うんですよ。たとえばヘイトスピーチだとか、人を殺すことだとか、戦争をすることだとか。もしくは、ひとによってはもっと瑣末な「あいつだけは許せない」みたいな話かもしれないし。ただ、僕のスタンスとしては、それ以外だったら、どんな政党の人にも会いに行くし、どんな思想の人にも会いに行く。まぁ、「小林さんの『戦争論』は安倍さんにも影響を与えたネトウヨ的なカルチャーの源流のひとつだから許せない」というひともいると思うんですけど、僕は、小林さんが、今、その安倍政権に危機感を持っていて、SEALDsの若者と話してもいいとおっしゃってくださったのならば、ぜひ会いましょうと。ただし、個人と個人として会うので、当然、細かい意見は違いますよと。
だって、僕なんてたった23歳だし、人生の経験が全然足りないし。それこそ、60になったら絶対違うことを言っているだろうし。でも、その前提の上でいま話すべきことがあると思ったので、僕は今日、ここに来ました。
小林 いや、立派だと思います。最近、宮台真司とか東浩紀とかも『ゴー宣道場』にゲストで来てるけど、まぁ、基本的な考え方は違いますよ。違うけど、やっぱり、安倍政権そのものに疑念を持っているというところでは一緒なんです。だからこそ、話し合うことが出来るっていう状態なのね。
わしは誰もが一緒くたの考えになった方が良いとは思わないし、あるいは、考えを転向したって良いと思っているから。あと、繰り返しになるけど、若い人は危ない。今も攻撃されているだろうし、これから先ももっと攻撃されるかもしれない。それで、実際に会ってみて、特に党派性とか極左に取り込まれているような実態がないんだったら、ちゃんと擁護したいと思ったから会いに来たの。
たとえば、もし、悪く言う人がいた時に「いや、彼らはそういう人たちじゃないよ」と。わしが言うだけでけっこう効く場面はあると思いますよ。そう言えるようになったから、今日、会ってすごく良かったと思います。
奥田 最後にもうひとつ言わせていただくと、僕はカルチャーそのものも変えないといけないと思うんですよ。
小林 ほう。
奥田 これは僕なりの見方なんですけど、90年代に経済状況が安定しなくなって、自民党でさえも社会保障の面倒を見るのを止めて新自由主義に走ろうとしていく中で、2ちゃんねるみたいなものが出来て。『戦争論』が刊行されて。小林さんの意図とは違ったのかもしれないですけど、『戦争論』に影響を受けて『嫌韓流』なんかも出てきて。それに対して、オールド・リベラルはバカにしてたと思うんですよ。「ネットとかマンガで何言ってんの?」みたいな。でも、結果、ちょっと前の2ちゃんとか、今だったらニコ生とか、すごく冷笑的で、誰かのせいにし続ける上に責任を取らないカルチャーが日本で大きくなって。終いには、日本の経済がダメなのは在日特権があるからだって言うような人たちまで出てきて。しかも、その人たちに応援される形で安倍さんが首相になって。僕はそういうカルチャーをバカにせずにちゃんと対抗していかなきゃいけないと思うんですよ。あるいは、もっと引き受けるカルチャーをつくらないといけないと思うんです。だって、震災以前だったら在特会がいちばんデモをやっていたんですよ。それをオールド・リベラルも「どうしようもないね、あの人たち。まぁ一部だもんね」と冷笑して、実際に政治に影響を与えるまで放っといたんですもん。だから、僕はこの負の連鎖みたいなものを断ち切って、新しいカルチャーをつくりたいんです。それが僕なりに思うことですね。
小林 うん。いいんじゃない。若い人がずっとカルチャーをつくってきたんだもん。昔はもっとサブカルチャーって華々しかったよね。今のようにカルチャーそのものが貧しくなってしまった時代っていうのは、ないよ。60年代、70年代、80年代、90年代、00年代 と見てきて、現代がいちばんカルチャーが萎んでしまっている。「今の若者って楽しいのかな? こんな世の中で」ってよく思ったりするよ。だから、SEALDsには期待しています。
――残念ながら、もう時間です。
小林 また話しましょうね。
奥田 よろしくお願いします。
対談日時:2015年8月8日@渋谷
text:磯部涼 photo:江森康之 editorial:北尾修一
日本はアメリカの属国、つまり家来国家である! アメりカの洗脳広告代理店、電通による、テレビ、新聞、週刊誌、ラジオ等の、マスコミを使った偏向報道で、見事な国民洗脳をされ続ける日本人は、自分自身の脳、すなわち思考そのものを点検せよ! さらにネット洗脳システムのツイッターやフェイスブックの利用、まとめサイトには注意が必要である。 我々はハッ、と気付いて、常に注意深く、用心して、警戒し、疑いながら生きれば、騙されることはない。 すべてを疑うべきなのだ!
分かっているじゃないか。その通りだ。嘘つきの書いた本は、「この本は事実か否かの検証をせずに書かれました」との事実を明記し、徹底的に否定し尽くさねばならない。
小林の書物は間違いだらけじゃないか。上海上陸戦で「歓迎のふりをしてわが日本軍を射殺した卑劣な女性便衣兵」などいないことなど、従軍塀の日記を読んだだけで分かる。南京虐殺の範囲は、東京23区よりも広い特別市全域で行われていたのだから「安全区」の狭い地域だけで限定しても無意味。
ネルーの自伝は都合の悪い文章を平気で削除して書く。こんな事実を誤って認識させるものの何が言論だ?
「書をことごとく信ずるは、書無きに如かず」という言葉をこの男に貼りつけなくてはならない。