株式会社 希望(のぞみ)のブログです。

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「 八尾市の歴史、中世・近世編 」

2012-08-16 21:45:05 | 日記

 

【本日のNews】
◆8.16 【東大阪(八尾)情報】→ →8/20(月)~8/24(金) ウルトラサマーフェスタの平日はウルトラヒーローパレード開催! 時間:午後4時 場所:1Fレッドコートスタート
◆8.16 【NEWS】→ →来年度成長率、民間予測1.5%=消費増税で駆け込み需要
◆8.16 【物件ニュース】→ →八尾市新築一戸建て 物件広告!! 《恩智南町2丁目》
◆WEB 【当社HP】→ →みつかるいいホーム



奈良時代以降、この地一帯は難波と大和国を結ぶ中継地として栄え、渋川道(→竜田越奈良街道)、十三街道などが設置され、さらに仏教の広まりとともに、寺院への参道として信貴道や東高野街道などが設置された。 平安時代以降、平安京遷都により、都から遠いこの地域の文化は衰退し、かつてこの地域で勢力を保っていた氏族は衰退していった。この地域は多くの寺社や貴族の荘園となる。

戦国時代から江戸時代初期にかけて、この一帯は、たびたび合戦が繰り広げられる場所であった。初期に久宝寺や萱振で寺院を中心に寺内町・環濠集落が形成され、時の権力に対抗する勢力の拠点となった。また、大坂夏の陣においては北の若江(東大阪市)、南の道明寺(柏原・藤井寺市)と並んで序盤の激戦地となった。 江戸時代初期には浄土真宗の宗派対立を発端とし、八尾寺内町が創設され、現在の八尾市発展の基となった。

江戸時代中期、それまで八尾市域を貫流して淀川水系と合流する流路を形成していた大和川の付け替え工事が行われ、堺方面に流れるようになった。これにより度々水害に悩まされていた状況が改善されると共に、大和川の付け替え後の川床は新田として新規農用地の開拓が進んだ。川床跡の砂地は木綿栽培に適しており大坂という消費地が近かったため、商品作物としての木綿の栽培や農村工業としての紡績が盛んになり、全国でも有数の裕福な農村となった。

古代、中世、近世と八尾市は繁栄の時代を着実に歩んできたことが歴史を通じて感じ取れます!

戦国時代にたびたび合戦が繰り広げられる場所であったというのは意外ですが?当時はどの地域も戦火によって多大なる損失を蒙っていた時代!

江戸時代中期に全国でも有数の裕福な農村になったということは、先人たちの努力と勤勉さが身を結んだ結果なんでしょう!そんな先祖を持つ私たちの体の中にも少なからずDNAが継承されているはずデスよね?

いや、是非そうあって欲しいものだと!念じるばかりですが(笑)

また、お逢いしましょう!


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