最近、またある段階まで癒しを受け入れる体制が整ってきたからなのか
思いっきり、認めることができてきたことがあります。
文章で正確に表現することは難しいですが、、
「もしも、今、ほんの瞬間であっても、100%完璧に欠けること無く、感謝感動状態でなければ、
祝福賛美状態でなければ、そこは天国ではなく、地獄なのだ。」
というニュアンスの認識です。
奇跡講座が目指す「神の平安」とは、
一切の欠けた感じや空っぽな感じが無い、完全な充足感、100%フルに満ち足りた状態のことを言いますから
その平安は、真の知覚(言葉では表せない喜び)が、今まさにこの瞬間、ここに臨在している。
ということに気がつくことができるだろうと思います。
「そうでないと、ダメなんだよ。」という意味ではなく、
今、そうでないのなら、自分は惨めさの真っ只中にいるんだ。
ということを認めないと、逆に、そこから脱することが難しいんだ。
ということなんですね。
しかし、実のところ、、これは顕在意識として自覚している「私」は、
「そんなことないもん!」
と、言ってのけることができるくらい、
その惨めさを抑圧していて、そんなの無いことにできていますし
「自我ってさ、居ないんだよね。」と、言ってのけるのですが、、、、
であれば、その「私」は、今、
世界や日常や人生で何があろうが無かろうが、ほんの一瞬もイラっとすることが無いのかい?
と、いうことを自分に問いかける必要はあります。
もしも、どんな誹謗中傷を受けたところで、
何らかの事故に巻き込まれたところで、一瞬も恐れや不安や怒りを感じることがなく
完全に、幸せのみを知覚しているのであれば、その「私」は、真に悟っているのだと言えるかも知れません。
非二元でよく言うところの「それが私ではない。それが起きているだけだ。」
と、わかっていても、ダメなんです。
(実のところ、、それは、世界を長引かせたままでいたい言い訳の一つにすぎません)
ほんの一瞬でもイラっとすることを認識して、そうであることを認められるなら
「自分は惨めさの真っ只中にいるんだ。」と、、、
いずれは認めてゆくことが、だんだんとできると思います。
これは、真の悟りのためには、目を背けることが不可能なところかも。と思いますが
いかに、そこから脱することをコミットするかどうかが、問われて来るわけなんですね。
実は、先日その想いで、、大号泣しました。。
それは、悲しみにくれて泣いているのではなく、
「もう、これ以上 狂い続けるのは嫌だ~~~~~。もうやめる!!!」という涙でした。
自分で自分が入り続けるための檻を作って、自分で自分をそこに閉じ込める作業を
延々と繰り返し続けていることを
「夢を見たくて、夢を見続けている状態」
と、言いますが
何かを知覚している。という状態自体が、、地獄と同じなんだ。
ということに麻痺してしまっているというのかな。抑圧させているわけです。
一切の知覚が不要なんだ。という認識状態が、天国を受け入れることができる正気の心の状態というのかな。
うまく言葉で表せないのですが。。
その状態ではないことが、いかに惨めであったのだろうか??
ということを、受け入れての号泣。という感じなんです。
「だから、更に、すべてをお任せしよう。そうでなければ、私はもうやってゆけない。」
そんな感じです。
とてもパラドックスのように聞こえると思いますが、すると、また更に
開かれた心の状態という心の状態に、一歩近づいていった感じがしているんです。
パラドックスですね。
以前よりも、至福感・歓喜・感動が純度を増してきているという感じがします。
(そうなってはじめて、以前はもう少し濁っていた。ということに気がつきます)
まだまだ癒しを受け入れかねている私たちは、気を張っていなければいけませんでしたから
「私は大丈夫!!私には、もはや癒しなんて、ヒーリングなんて、必要ない。」
と、思っていなければやってゆけなかったわけなんですね。
「エゴなんて、いないんです。いないものを手放すなんて、無理なんですよ~ 笑」
と、思っていなければ、、やってゆけなかったんですね。
いえいえ!猛烈に癒される必要がありますよ^^私たち。
はあ。どんどん認めますよ。
そして、神を求めること以外、なんの意味も無いことなんだ。
と、受け入れてゆきます。
すべての兄弟たちのおかげさまです。
聖霊と神が見放さなかったおかげさまです。
奇跡講座テキスト編 P367
中央アート出版社
T-14.2.1:1~5
聖霊は幸せな学習者を必要としている。聖霊の使命は、幸せな学習者の中で幸せに達成される。
ひたすら不幸に献身しているあなたは、まず最初に、自分が惨めであり、幸せではないと認識しなければならない。
聖霊はこの対称性なくしては教えることができない。
というのも、あなたは不幸こそが幸福だと信じているからである。
こうしたことによりひどく混乱してきたため、あなたは決してできるはずのないことができるようにならない限り
幸せになれないと信じ、それを学ぶことに取り組んできた。
あなたは、この最も奇妙な学びのゴールが依拠している土台はまったく意味のないものだと気づいていない。
※上記テキスト引用内の文字が大きくなっている部分は、スルーしないように強調するために大橋が行いました。
今日の記事のようなことを、今すぐ受け入れられなくても、認められなくても、大丈夫です。
けれども、自分が意志してゆけば、必ず聖霊が導いてくれる道のりの中の、通過点の一つかも知れません。
.
思いっきり、認めることができてきたことがあります。
文章で正確に表現することは難しいですが、、
「もしも、今、ほんの瞬間であっても、100%完璧に欠けること無く、感謝感動状態でなければ、
祝福賛美状態でなければ、そこは天国ではなく、地獄なのだ。」
というニュアンスの認識です。
奇跡講座が目指す「神の平安」とは、
一切の欠けた感じや空っぽな感じが無い、完全な充足感、100%フルに満ち足りた状態のことを言いますから
その平安は、真の知覚(言葉では表せない喜び)が、今まさにこの瞬間、ここに臨在している。
ということに気がつくことができるだろうと思います。
「そうでないと、ダメなんだよ。」という意味ではなく、
今、そうでないのなら、自分は惨めさの真っ只中にいるんだ。
ということを認めないと、逆に、そこから脱することが難しいんだ。
ということなんですね。
しかし、実のところ、、これは顕在意識として自覚している「私」は、
「そんなことないもん!」
と、言ってのけることができるくらい、
その惨めさを抑圧していて、そんなの無いことにできていますし
「自我ってさ、居ないんだよね。」と、言ってのけるのですが、、、、
であれば、その「私」は、今、
世界や日常や人生で何があろうが無かろうが、ほんの一瞬もイラっとすることが無いのかい?
と、いうことを自分に問いかける必要はあります。
もしも、どんな誹謗中傷を受けたところで、
何らかの事故に巻き込まれたところで、一瞬も恐れや不安や怒りを感じることがなく
完全に、幸せのみを知覚しているのであれば、その「私」は、真に悟っているのだと言えるかも知れません。
非二元でよく言うところの「それが私ではない。それが起きているだけだ。」
と、わかっていても、ダメなんです。
(実のところ、、それは、世界を長引かせたままでいたい言い訳の一つにすぎません)
ほんの一瞬でもイラっとすることを認識して、そうであることを認められるなら
「自分は惨めさの真っ只中にいるんだ。」と、、、
いずれは認めてゆくことが、だんだんとできると思います。
これは、真の悟りのためには、目を背けることが不可能なところかも。と思いますが
いかに、そこから脱することをコミットするかどうかが、問われて来るわけなんですね。
実は、先日その想いで、、大号泣しました。。
それは、悲しみにくれて泣いているのではなく、
「もう、これ以上 狂い続けるのは嫌だ~~~~~。もうやめる!!!」という涙でした。
自分で自分が入り続けるための檻を作って、自分で自分をそこに閉じ込める作業を
延々と繰り返し続けていることを
「夢を見たくて、夢を見続けている状態」
と、言いますが
何かを知覚している。という状態自体が、、地獄と同じなんだ。
ということに麻痺してしまっているというのかな。抑圧させているわけです。
一切の知覚が不要なんだ。という認識状態が、天国を受け入れることができる正気の心の状態というのかな。
うまく言葉で表せないのですが。。
その状態ではないことが、いかに惨めであったのだろうか??
ということを、受け入れての号泣。という感じなんです。
「だから、更に、すべてをお任せしよう。そうでなければ、私はもうやってゆけない。」
そんな感じです。
とてもパラドックスのように聞こえると思いますが、すると、また更に
開かれた心の状態という心の状態に、一歩近づいていった感じがしているんです。
パラドックスですね。
以前よりも、至福感・歓喜・感動が純度を増してきているという感じがします。
(そうなってはじめて、以前はもう少し濁っていた。ということに気がつきます)
まだまだ癒しを受け入れかねている私たちは、気を張っていなければいけませんでしたから
「私は大丈夫!!私には、もはや癒しなんて、ヒーリングなんて、必要ない。」
と、思っていなければやってゆけなかったわけなんですね。
「エゴなんて、いないんです。いないものを手放すなんて、無理なんですよ~ 笑」
と、思っていなければ、、やってゆけなかったんですね。
いえいえ!猛烈に癒される必要がありますよ^^私たち。
はあ。どんどん認めますよ。
そして、神を求めること以外、なんの意味も無いことなんだ。
と、受け入れてゆきます。
すべての兄弟たちのおかげさまです。
聖霊と神が見放さなかったおかげさまです。
奇跡講座テキスト編 P367
中央アート出版社
T-14.2.1:1~5
聖霊は幸せな学習者を必要としている。聖霊の使命は、幸せな学習者の中で幸せに達成される。
ひたすら不幸に献身しているあなたは、まず最初に、自分が惨めであり、幸せではないと認識しなければならない。
聖霊はこの対称性なくしては教えることができない。
というのも、あなたは不幸こそが幸福だと信じているからである。
こうしたことによりひどく混乱してきたため、あなたは決してできるはずのないことができるようにならない限り
幸せになれないと信じ、それを学ぶことに取り組んできた。
あなたは、この最も奇妙な学びのゴールが依拠している土台はまったく意味のないものだと気づいていない。
※上記テキスト引用内の文字が大きくなっている部分は、スルーしないように強調するために大橋が行いました。
今日の記事のようなことを、今すぐ受け入れられなくても、認められなくても、大丈夫です。
けれども、自分が意志してゆけば、必ず聖霊が導いてくれる道のりの中の、通過点の一つかも知れません。
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