奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

存在論的"罪悪感" 私たちはどのレベルの罪悪感を扱うのか?

2019年03月14日 20時09分51秒 | 奇跡講座.奇跡のコース.ACIM勉強会/学習会

「存在論的 罪悪感」

これ(究極的な誤った自己概念なのだと思う)についての信念が
癒されてゆくとき、そのまま、神と私との関係が癒されてゆくことになります。


どうしてもその言葉の中身を、概念のレベルではない深い深いレベルで
心がすんなり受け入れることはなかなか起きません。


それまでには、浄化のプロセスが相当必要なようです。

そうだったんだ。。。
と、2018年11月以降 思い知りました。


浄化のプロセス中には、
どうしてもコースの内容を受け入れることに対する抵抗が生じます。


ということは、、、
「抵抗が生じていること」そのものを謙虚に受け止めるプロセスが必要です。
それは悪ではなく、自我の仕掛けに過ぎないからです。


深刻になる必要は全くありませんが、
自分自身に隠さないことは非常に大切です。


↓この、ワプニックさんが言っていることを
実際に自分の人生・日常でそのまま実践して行くか否か?
が、大きなポイントになります。

見たくもない、知りたくもない、気づきたくもない、
それを認めてしまったら死より恐ろしいことになる。
と信じて、隠蔽してきたものを、光のもとへ晒すことになります。

いずれ、そういう実践が必要となります。

今現在、そのためのプロセスにあるらしい。
ということを謙虚に受け止めることが大切なんですね。

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http://www.jacim.com/acim/?p=1631

精神分析における「罪を明るみに出すプロセス」は、『奇跡講座』が目指しているのと同じ目的へ向かわせることもできますが、
一般に行なわれているそれは、実際のところ、自我の防衛戦略の術策にはまり込んでいます。
精神分析が露見させようとしている罪悪感は、依然として、外的な煙幕の一部にすぎず、
私達が心の中の真の問題に戻れなくするために自我が構築したこの世界に属するものです。

それは、まだ、肉体を持った人間や、人間同士の関わり合いに関連した罪悪感であり、
この罪悪感は依然として一つの結果であって、『奇跡講座』が取り扱っているような、
存在論的な意味で潜在している原因ではありません。

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とはいえ、まずは、私たちはそういうプロセス(人間ドラマの中の罪悪感を見つめて浄化を受け入れる準備)
を経るしかないのだろうと思います。

なぜなら、ものすご〜〜〜〜〜〜〜く、この夢を現実のものと信じているし
(どんなに顕在意識では奇跡講座を理解していてもなお)
ものすごく、自分のことを人間だと信じているからです。

だんだんと、その人間レベルの罪悪感から
無意識レベルに追いやって抑圧・解離してきた存在論的罪悪感まで

「癒されることを求め、隠さず光にさらされるようになるまで、浄化されてゆくことを受け入れてゆく」

そういうことが必要なのだなあ。。。。
そう感じています。

これを見たら死より恐ろしいことになる!
絶対に見てはならない!

と、頑なに神からの分離の実在性を信じて
永遠と思えるほど防衛し続けたり、心を蹴散らし続けているトリックに気が付いていって
そのトリックから出て、存在論的罪悪感を光に晒すようになってゆくでしょう。


そして、やがては

分離の欲望は消滅してゆき
浄化された心が 統一された願望として

神のみを求め
真の自己・全てであるすべての自覚が復活するのだろう。

そう感じています。




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