昨日の勉強会で
「自分が、なぜか当たり前のように考えている考えについて
その考えによって自分はどこへ向かっていって、その結果どんなゴールに辿り着くことができるのだろうか?
を、徹底的に追及しきって、納得できるメリットがあったならば、その考えを考え、その考えに従うのが賢いやり方なんじゃない?」
という内容の話をしたのだけど
勉強会が終わってから、テキストのこのセクションが浮かんできました。
私にとってはこれが答えだなぁ、、と感じたのでシェアします。
奇跡講座テキスト
第12章 聖霊のカリキュラム
セクションⅣ 探すこと、見出すこと
第1〜4段落
自我は愛が危険なものだと確信しており、これが常に自我の教えの中心をなしている。
自我が自らそのように述べることはなく、それどころか、自我が救済であると信じている者たちはみな
愛の探求に熱心に携わっているように見える。
だが自我は、愛の探求をきわめて積極的に奨励しているとはいえ
そこに 一つの但し書きをつけている。
すなわち、それを見つけてはならない、というものである。
したがって、自我の命令を簡潔に要約すると
「探せよ、されど見つけることなかれ」となる。
これが、 自我があなたに差し出している唯一の約束であり、自我が守る唯一の約束でもある。
自我は自分のゴールを狂信的な執拗さで追及しており
しかも自我の判断はひどく損われているとはいえ、完全に一貫している。
したがって、自我の行う探求は挫折すると決まっている。
また自我は、あなたと自我が同一であるとも教えるので
自我による導きは、自滅と知覚されるもので終わる以外にない旅へとあなたを連れて行く。
というのも自我は愛するということができず
その狂信的な愛の探求において自ら見つけるのを恐れているものを探しているからである。
こうした探求は不可避である。
なぜなら、自我はあなたの心の一部だからであり
また、そのような自我の起源のゆえに、自我は完全に分裂しきってはいないからである。
そうでなかったなら、自我が信じられることはまったくあり得ない。
それを信じて存在させているのはあなたの心だからである。
だが自我の存在を否定する力を持っているのもあなたの心である
そして、自我があなたをどんな旅に連れ出そうとしているのか
その旅の正体を悟るとき、あなたは確実にその力を行使するだろう。
当然のことながら、誰も自分を完全に挫折させるものを見つけたいとは思わない。
愛することのできない自我は、愛の臨在の前では完全に力不足となる。
まったく応答できなくなるからである。
そうすると、あなたは自我の導きを捨てなければならなくなる。
なぜならあなたに必要な応答を自我はあなたに与えてくれなかったことが、明らかになるからである。
それゆえに自我は愛を歪曲し
自我にも教えることができるような応答を愛が本当に呼び 起こすのだと、あなたに教える。
だから、自我の教えに 従うなら、あなたは愛を探し求めるが、それを認識することはない。
自我は、むなしさや憂うつの感覚に至るだけの旅にあなたを連れ出さざるを得ないのだが
あなたはこのことに気づいているだろうか。
探しても見つからないというのは、およそ喜ばしいことではない。
これがあなたの守りたい約束だろうか。
聖霊はあなたに別の約束を差し出す。
それはあなたを喜びへと導く約束である。
聖霊の約束は常に
「探せよ、さらば見出さん」というものであり
聖霊の導きのもとであなたが挫折することはあり得ない。
聖霊の旅は達成への旅であり、聖霊があなたの前に置くゴールは
聖霊自身があなたに与えるゴールである。
聖霊は、自らが父の愛と同じ愛で愛している神の子を、決して欺かないからである。
以上、奇跡講座テキストより
-----------------------
思うに
「愛」とは、完全なる一体性のことで
一体性から独立したかに見え、自立したかに見える「私」とは、恐れにまみれた私という感覚そのものだと思う。
地獄とは気が付かない地獄の状態で、痛みを麻痺した痛み抑圧の惨めな状態なのだと思う。
ひとたび、心がそれを地獄だと垣間見た場合
よろこんで独立や自立の願望の握りしめを弛めるのだろう。
「メンツを保つとか、自分を保つとか、、、んなもん、どーでもええわ」
と、なっていくだろうと思う。
必死で探せよ。
でも、絶対に見つけるなよ。
↑ 完全に頭がおかしいところからの声だよね。
狂人に従うのは危険すぎると思う。