奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

①"奇跡"とはなんだろう? "闇"とはなんだろう?

2020年06月09日 11時38分00秒 | ACIM奇跡のコースという生き方

奇跡とは、自然な結果として心のレベルで起きるもののことで

心の反映として形のレベルで現れる奇跡は
心が聖霊を受け入れた分だけ、その心の状態の反映として極々自然に引き起こるもの。(とはいえこの種の奇跡が絶対的に必要なわけでもない)


「このような奇跡そのものは問題ではない。重要なのは奇跡の源だけであり、その源は評価できる範囲をはるかに超えている」(奇跡講座テキスト 奇跡の原理2)


奇跡という(決断の)結果が現れるための
プロセス(障壁に気がつきそれを光に運ぶ)のために忍耐強くある訓練が基本的に養われるべきものなんだろうと思う。




"奇跡"とはなんだろう? "闇"とはなんだろう?


について、言葉でも明確にしてみよう。
これから日数がかかるかもしれないけれど、これについて書いていこうかな?と思う。


、、自分にとって思い出せる最初の闇と奇跡はこれかな?


・母は私を出産時に出血多量で(帝王切開をすればよかったらしい)死にかけて
町医者の自家用車で女子医大に運ばれた。
私の頭には血腫みたいなものができていたので手術をしたらしいが
母は死にかけたので、私よりも長く入院していた。
この時点でとても危険だと思えることは
母の入院中(おそらく1〜2ヶ月間だろうか)に
今でいうところの統合失調症(結構重度)の父が入院中の母の代わりに私の育児をしていたことだ。


当然彼はパニックになり妄想的になり新生児の私を黙らせる方法として
その口の中にガス管をつっこみガスを流した(流そうとしていた?)そうだ。
これは奇跡ではなくて、闇(心のレベルの罪の実在性の信念がこの物理的世界に投影・責任転嫁されたもの)に見えることだった。

なんで当時新生児だった私がこの話しを知っているかというと、のちに兄が私に教えてくれたのだった。

・父がガス管を私の口に突っ込んだ時(もしくはガスを流していた時)に、当時15才の兄が帰宅してそれを発見した。
(その時に住んでいた家は平屋だったので発見しやすかっただろう)
そして、兄が父をぶっ飛ばし私を救ってくれたのだそうだ。
これを奇跡としてとらえるなら、兄はインスピレーションを感じて帰るべき時に帰ったんだろうな、と思う。
もしくは、父は加害者のように見えるけれども、このドラマは起きざるを得なかった脚本だったので
それであっても、もっとも最善の方法で「兄が帰宅するであろう時間に自動的に行動していた」とも言える。

起こるべきことが起きたんだなと思う。
誰かのせいにできるようなことではなくて
脚本に書かれていた演技が次から次に展開していった。



そんなことがあったなんて30代半ばまで知らなかったので、幼少のころの私は父が好きだった。
父の病気や発作のことは母が必死で私には隠していた。
でも、隠しきれず父がおかしくなっていたのを7才くらいの時に見てしまった。
父はある日の昼間、泣きながら「雀さんがかわいそう」と庭にいる雀に向かって叫んでいたのだ。そしてまもなく親族が集まった。長身の彼をみんなでなだめて入院させるためだったんだろう。

それでもまだ彼のことは嫌いになれなかった。



これを書いてて思うのは
このようなドラマが闇なのではない。っていうこと

それは、闇なのではなく
無意識内に抑圧否認された巨大な闇
「影の1シーン」に過ぎない。

私たちが時間をかけながらも認めるべきは巨大な闇

影の原因を認めることで
影も原因も浄化されていく。




次は、奇跡の話。
幼少期〜子供のころの五井先生との出会いと、交流について。

(つづく)












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