続きです。
大江広元は1125年6月10日、急に下痢を伴う病となり、その日の内に死亡したと言われてます。享年78歳です。
北条政子は1125年5月29日に発病し、頑張ったが同年7月11日に死亡している。
北条政子の発病と大江広元の死はたった11日の違いです。偶然で片付けられない。毒殺だとしたら犯人は同一人物と考えられます。やはり暗殺だったとしたら北条泰時の犯行だと思います。
ところで大江広元ですが、彼が存在していなかったら私の姓は長田でした。だから凄く興味があったのです。
でも、目的が分からない。名誉欲があった。自分の力を試したかったとの思いは感じられますが、それだけでは論じられない。私は空恐ろしさを感じます。
もし大江広元について回答を出さねばならないのであれば、「大江広元はサイコパス」だった。人に伏したり、煽てたり、時には恫喝し、自分の思い通りに駒を動かした。人との争いそして戦を楽しんでいた。
自分は戦わない。戦うのは机上の上でのみ。将棋を楽しむが如く戦を楽しんでいたのではないか。
そうなるとやっぱりサイコパス。とてつもない知能と知識を有しているサイコパスだと私は思う。
それに北条泰時も気が付いた。ほっておいても長くは生きれないのは解っているが、鎌倉の御家人、そして源氏を翻弄した大江広元を病では殺さない。
暗殺しなければ鎌倉御家人や源頼朝とその子達が浮かばれない。その想いから北条泰時は大江広元の暗殺を決行したと考えます。
北条義時、北条政子、そして大江広元は死んだ。これで北条泰時は終わりとした。
執権とはなったが、鎌倉御家人の実質的なトップには三浦義村が握った。泰時もそれを許した。っと言うより自分は大江広元を目指した。
北条家には長老として北条時房が存在する。泰時と時房は北条家のツートップとして互いに対峙しながらも、北条家の存続の為に協力した。共に時政、義時みたいな真似はしたくないという思いがあったから。
その後、鎌倉幕府は蒙古襲来となり、戦は勝利し御家人たちに与える報奨が出せず、北条家は御家人から不満を持たれてしまう。そして滅亡。北条氏とは親戚筋の足利尊氏が室町幕府を起こしています。
結論から言うと、この時代の文化、思想、命よりも面子と権力、権威、そして領地が重要視される感情では、誰が政権を握っても長くは続かなかったと思いますね。
さて、タイトルに対しての総括ですが、鎌倉幕府を動かしていたのは大江広元。として新たな大江広元にならんとした男が北条泰時。
大ボスで対峙したラスボスの泰時。その想いが「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思いました。
北条泰時は私情を捨て、北条家同士の争いは避け、政敵になる要素のある時房、政村、朝時を重んじた。例え騙されても義時のようには生きたくない、その想いが強くあったと思いますね。
ではでは。
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