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諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

源頼家の殺され方は異常だ。北条政子はサイコパスではないのか? その1

2022年08月19日 13時48分29秒 | 永井直勝
「鎌倉殿の13人」、ちらっと見ています。脚本は三谷幸喜ですね。

以前、彼の脚本で「新選組」や「真田丸」を大河ドラマでやってますが、あんまり面白いとは思わなかった。大体、どうなるのか読めていましたし、おふざけが過ぎる様だったし。

映画の「素敵な金縛り」は面白かったが、同じく映画の「清州会議」は最低の出来だった。そのせいで「鎌倉殿の13人」には期待せずに見なかったのです。歴史は大好きなんですけどね。

でも、今回の「鎌倉殿の13人」は面白い。コロナのせいで仕事が無いのか俳優陣が自力を出し切った演技をしている。

特に北条時政役の坂東彌十郎の演技が素晴らしい。歌舞伎出身なんだろうけど坂東彌十郎なんて役者、知らなかったよ。

彼が2時間推理ドラマの主役でやっていれば、人気シリーズになっていたと思う。66歳みたいだけどもっと早くテレビに出て欲しかったな。

北条政子役の小池栄子も良い。以前の大河ドラマの「義経」だかで巴御前役をやっていたのでこんがらがっているか、中々良い起用だと思う。

惚れた弱みと言うのか、馬鹿な元プロレスラ-の旦那の大借金を頑張って払っているみたいだけど、女優として一皮剥けたとは思います。私の北条政子像とはちょっと違うけど。

そして主役・北条義時役の小栗旬。役柄的に没個性を演じているからなのかも知れんが、何か気が抜けている感じがする。目が泳いでいる様な。

調べてみたらガーシ-砲とやらのターゲットになっているみたいですね。

スッポンポンでカラオケを歌っている動画もネットに載せられているし、何か芸能界追放級の秘密もガーシ-とやらに握られているらしいし。

そんな状態で主役を演じているのだから、頑張っている方なのかな。身から出た錆なのかも知れないが、お気の毒な事です。

さて、来週の「鎌倉殿の13人」では、2代目鎌倉殿である源頼家は殺されるのでしょうか。まっ、遅くても再来週には殺されると思います。

でもねぇ-、諸説は或るのでしょうけど、私が想定する殺し方はしないでしょうね。三谷幸喜脚本の北条政子は、真っすぐな性格で悲劇の主人公を演じさせていますし。

私の予想では架空の人物ですが、善児に苦しませずにサクッと楽に殺させ「本当は殺したくは無かったのよ、うわぁ-ん」と北条政子が泣くシーンが出るのだと思います。

私、大河ドラマは或る程度の脚本は良いですが、史実に基づいて欲しいと思っています。脚本では北条政子をお笑いなどで、ほのぼのな感じで描いてますけど私のイメージは全然違います。

私の北条政子像は権力欲の権化のサイコパスだと考えています。もしかしたら大江広元に操られているのかも知れませんが。


続く。
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源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その7

2022年08月15日 18時13分44秒 | 永井直勝
タイトルから逸脱しているのに気付きながら続きます。

源頼朝の人間形成に置いて重要な出来事と言えば、保元の乱と平治の乱でしょう。

保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇との兄弟間の争いです。覇権闘争と言えます。詳しい経緯は差し控えますが、崇徳上皇が負けてます。讃岐に流されています。

天皇家の場合、戦で敗れても処刑されることはありませんが、武家は大抵は処刑されます。

この保元の乱は源氏・平家をそれぞれ二分した戦いです。

後白河天皇側に着いたのは平清盛と源義朝。

崇徳上皇側に着いたのは平清盛の叔父の平忠正とその息子達の長盛、忠綱、維盛。

そして源氏では源義朝の父の源為義。そして義朝の弟達である頼仲、為成、為仲です。

これらの者達はそれぞれ平清盛、源義朝によって斬首されています。

地獄ですよね。源義朝は父と弟達を斬首した。それを見た源頼朝はどう思ったか。祖父や叔父たちを父が処刑した。そうしなければ源氏は生きられない。

後白河法皇に忠誠を誓う為に殺した。頼朝は後白河法皇に畏怖と憎しみを感じた事と思います。

後白河法皇に父や弟達を殺すほどの忠誠を示した源義朝ですが、保元の乱が収まったら平清盛のみ重用された。

清盛は叔父と従兄弟を殺した。自分は父と弟達を殺した。後白河法皇への忠義は自分の方が示した筈。源氏の方が犠牲を払った。

それなのに平家を重用する後白河法皇。これは義朝でなくても怒りを感じます。

そして源義朝は平治の乱を起こした。結果は平家に敗退。頼朝は父・義朝らと共に命からがら落ちのびた。体力のない頼朝は逃亡中に落伍した。

頼朝の兄であり義朝の次男である朝長は戦で足を射抜かれていた。歩行が困難。逃亡の足手まといになった。それで父に朝長は告げた。「自分を殺して逃げてくれ」と。

そして父に首を討たれた。埋葬されたが平家に朝長の墓を暴かれて首が並べられた。死んでからも辱められた。

仕方が無いとはいえ義朝は次男の朝長を殺した。足手まといになる。ちょっとした切欠が命取りになる時代。それを頼朝は義朝から学んだと思います。

話は逸れましたが、源氏は人殺しの家系の頂点です。頼朝も父・義朝と同じ兄弟殺しを演じた。不安要素は確実に潰しておく。その異常さを見た家臣、御家人たちはどう思うか。

北条氏も源氏の血に恐怖したと思います。そしてその反面、頼朝に倣った。だから二代目鎌倉殿の源頼家も殺せたのだと思います。

しかし、北条家にそこまでの知恵と決断力、そして非情さがあったのか。

平家討伐に抜群の働きを見せた長田親子を、全ての用が済んだら殺した頼朝。その頼朝に全ての御家人は恐怖した。血なまぐさい源氏の血統ではこの世は平穏に統治できない。

実は北条氏は平家の家系です。そして長田親子も平家の家系。そして鎌倉ナンバー2の男・大江広元も平家の血筋です。

不思議な話ですが、長田忠致の兄である長田親致の子孫に徳川家康に仕えた長田伝八郎がいます。そして家康は「義朝を討った長田姓は不吉」と言って、大江広元流に入り永井姓を名乗り永井直勝となった。

長田忠致と大江広元とは接点があったのか。有ったと思えるのです。因幡あたりで。

大江広元は朝廷の下級貴族であったが、長田親子が討たれた後、鎌倉に下った。朝廷とのパイプ役となった。木曽義仲の失敗を踏まない為に頼朝からの信頼も厚かった。

私は北条政子や北条義時にそれ程の知恵があったとは思えません。大江広元がやって来てから行動が鋭利になった。裏で操ったのは大江広元だと思います。

話はとんでもない方向に行ってしまいました。書いてて失敗したなぁーと思っています。

源氏もそうですが、平家も平家同士で仲が悪いのです。長田忠致も元々平清盛との仲が悪かった。だから鎌田政清に娘を嫁がせた。大江広元も平家とは不仲だからこそ鎌倉に下った。

しかし、その目的は源氏打倒だった。長田家とは因幡で接点が有ったと思える。その敵を討ちたかった。

その可能性を証明するのは難しいですが、長田姓の永井直勝が大江流に入った理由が分かれば、その鍵を掴めると思います。


ではでは。








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源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その6

2022年08月13日 14時29分37秒 | 永井直勝
続きです。

源頼朝の人生観で影響を及ぼした人物と言えば後白河法皇でしょう。

まっ、それは置いといて、生きる上で参考にした人物は平清盛と父親の源義朝だと思います。

最初の源平合戦で源氏は負けた。頼朝は平家に捕まった。処刑される寸前となった。しかし、助かった。

平清盛の継母・池禅尼の助命嘆願があったからとは言われているが、やっぱり平清盛に慢心があったの間違いないでしょう。

「平家にあらずんば人にあらず」。平家に味方した御家人は源氏に勝ってからの平家の傲慢な態度に驚いたと思いますが、平清盛は後白河法皇の子であるとの説が当時からあった。

何故か平清盛の母の名は不明となっている。昔の女性の地位は低いが、平清盛程の男の母が誰なのか不明なのはおかしい。

清盛の父・忠盛は後白河法皇の側女を嫁として遣わされた。既にその側女は後白河法皇の子を身籠っていたとの話がありますが、実際は白河法皇が祇園の女御に身籠らせ、その女を忠盛の正室にさせたとする説が濃厚です。

白河法皇は自分の孫の嫁にも手を付けて子供を産ませた程の女好きですが、当時の天皇家は近親婚も珍しくなかったので、私もその通りだろう思います。

平清盛もそれを認識していた。だから武家ではない。公家だ。天皇の血筋だ。その思いから武家を軽んじ始めた。武家に対して高慢になった。

さらに平清盛は源義朝の側室である常盤御前を妾とし、その後、公卿の一条長成の側室にしたとされています。流石にそれでは清盛に不信感を持つ武家も増えるでしょう。

まっ、公家は争いを好まない。手を下さない。だから頼朝の命も助かったと言えますが。

源頼朝は平清盛に微妙な感情を持っていたと思われます。父の敵ではあるが、自分の命は助けてくれた。

それと天皇家と婚姻関係を結び、安徳天皇の祖父となった。それは武家の棟梁の証明と言える。

源氏の世を続かせるには武家の棟梁であり続けなければあらない。だから清盛同様、天皇家と婚姻関係になる事を望んだ。後白河法皇に翻弄されながらも。

天皇家には忠誠を誓う。それには安徳天皇を殺した源義経は源氏の汚点。

後白河法皇は汚点である義経を使って源氏を潰す駒にしようとした。それを読んだ頼朝は義経も殺さなくてはならなくなった。

ちょっとした切欠も滅亡に繋がる。それは父・義朝から学んだ。兄弟であっても源氏の世を続かせる為には殺すでしょうね。

清盛は天皇の血筋。だから武家ではなく公家として振る舞った。それが武家から反感を食らった。

頼朝は天皇の血筋ではない。あくまでも武家の棟梁を目指す。だから御家人に対しても存外には扱わない。その考えは有ったと思います。


続く。


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源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その5

2022年08月12日 14時36分53秒 | 永井直勝
続きです。

源頼朝とはどう言う人物なのか。

これは現代人の感覚で考えては駄目です。当時の人々の感覚で考えないと。

当時は乳兄弟の関係が実の兄弟よりも絆が深かった。兄弟は自分の立場を危うくする存在。ライバルと考えるのが一般的でした。だから頼朝の父・義朝も乳兄弟で側近の鎌田政清と行動を共にしたのです。

因みに源頼朝の乳兄弟は山内首藤経俊と言います。

1180年に頼朝は挙兵。経俊へも参陣を要請したが、経俊は頼朝の悪口を叩き拒否しています。1160年の平治の乱で父と兄を討たれていたので、もう源氏には付きたくなかったのだと思います。

それでか石橋山合戦に置いて経俊は平家方の大庭景親に従い参戦。頼朝に矢を射かけてます。結果は源氏の敗戦となりました。

しかし、何時の世も諸行無常。その10か月後に経俊が参戦した大庭景親軍は源氏に敗戦。大庭景親の軍は源氏側に付く事で多くの兵は罪を免れたが、経俊は斬首が決定した。

そこに経俊の母であり頼朝の乳母である山内尼が現れ、息子の助命を懇願。

頼朝は自分の鎧に突き刺さった矢を持って来させた。矢には討った持ち主である経俊の名前が書かれていた。それを見た山内尼は言葉なく引き下がる。

でも、経俊は処刑されずに済んだのです。一番の理由は乳母を悲しませたくないからでしょうが、経俊が乳兄弟と言う点もあったと思えます。

それと経俊は大凡人だった。それを頼朝も知っていた。凡人ゆえに世の流れが見えない。頼朝の肉親は油断ならない者ばかりだったが、経俊は何の取柄も無い男。生かしていても問題は無い。そう思ったのではないでしょうか。

現にあの時代としては珍しく89歳まで生きたそうです。

実力以上に出世して天寿を全うした。何の影響も及ぼさない男だったら、敵を作らなかった。それが長生きの秘訣なのでしょうね。

ちょっと話は逸れましたが、頼朝は何度も女性に助けられて生き延びた。だから頼朝は女性には甘かった。そして能力がある者を警戒していたのだと思います。

頼朝は平家に捕まった時、平清盛の継母である池禅尼の助命嘆願により命が助かった。その恩に報いて平家滅亡後も池禅尼を大切に扱ったいたそうですが、女性は自分の味方になってくれる。

頼朝の女好きは、そんな感情があったからだと思えます。


続き。


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源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その4

2022年08月10日 22時40分54秒 | 永井直勝
続きです。

戦と言うのは勝つまでが大変ですが、勝ってからも中々大変なんです。味方に付いた家臣や武将に領地と言う恩賞を与えねばなりませんからね。

事実、鎌倉幕府を引き継いだ北条氏も蒙古襲来で滅んだ様なものです。

蒙古に勝っても蒙古の土地を分け与える訳にはいかない。蒙古と戦い勝ったのに恩賞が貰えない。北条氏に従った武家は不満を持つ。

日本の土地は有限です。当時は北海道も無かった。それで織田信長は焼き物に価値を見出して恩賞として与えようとしたが、それが定着する前に明智光秀に討たれた。

明智光秀の領地を取り上げて、他の武将の恩賞として分け与えようとしたが、光秀は納得しなかった。それが元で討たれた部分が確実にあると思います。

豊臣秀吉も朝鮮出兵し、大陸の領地を得て恩賞として分け与えようとしたが、完全に失敗した。

源頼朝もその難しさを熟知していた。長田忠致に美濃と尾張を与えたら、他の有力な武家にもそれ以上の領地を与えねばならん。そんなのは無理だ。

長田親子はよく働いた。しかし親の仇である。言い訳が立つ。殺しても御家人達は納得する筈。

そして1090年。「約束通り、褒美を取らす」として長田親子を呼び出した。そして捕えた。

まっ、ここからも諸説あるんです。平家が滅んだ後に頼朝は兵を出して長田親子を殺そうとしたが、長田親子は逃げ回った。そしてとうとう捕まったとか。

一般的なのは「約束通り褒美として美濃と尾張をくれてやる」と呼び出し、その場で取り押さえ松の木に磔にして処刑したと言うヤツです。長田親子が磔にされた松の木も朽ちてはいますが残っていますしね。

でもねぇ-、今から830年以上前の話なんです。朽ちているとは言え、その松が830年前に磔に出来るほどの太さがあったのか疑問です。多分、観光客目当て??で、誰かがでっち上げたのではないかなぁ-。

私が一番信憑性が高いと思うのは戸板に磔にして道に横たえて、木刀でぶっ叩いたり、爪を剥いだり、顔の皮を削いだりして数日かけて処刑した説です。

何たって頼朝の父・義朝は風呂場で長田親子の兵に襲われて、「せめて木刀の一本でもあれば戦えたものを」と言い残して討たれていますから。その最後の言葉を受けて木刀で殴り殺したのではないかと思います。

それと頼朝が長田親子の処刑に当たって、「約束通り身の終わり(美濃・尾張)をくれてやる」と言ったのも後の創作だと思います。

だって刑場の高札に「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守、身の終わり(美濃・尾張)をぞ今ぞ賜る」と長田忠致の辞世の句が書かれてあったと言うのです。

処刑される前に長田親子が、こんなダジャレの辞世の句を語る訳が無いですよ。

自害ではないのです。大変残酷な処刑の前なのです。ダジャレで笑わせる心境の筈無いじゃないですか。

もし本当にその辞世の句が掲げられていたとしたら、源頼朝がふざけ半分で掲げた。それほどまでに源頼朝は残酷な男なのだと思います。


続く。





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