goo blog サービス終了のお知らせ 

諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その3

2022年08月09日 10時18分34秒 | 永井直勝
続きです。

私、正負の法則を信じているのですが、親が不遇の人生を送ったり、不慮の事故で亡くなったら、その子は何故か幸運に恵まれるケ-スが多いと感じています。

さて、打倒!!平家。源頼朝は同族の木曽義仲に先を越された。最初に木曽義仲が京の平家を攻めた。万事休すです。

でも源頼朝は運が良い。木曽義仲の軍勢が京都で乱暴狼藉を働き、朝廷は木曽義仲討伐を源頼朝に命じた。頼朝は弟・義経らに命じて木曽義仲を討つ。更には平家も滅亡させた。そして武家の棟梁の地位に就いた。

この時点での長田忠致・景致親子はどうなっていたのか。

実は1180年の鎌田の戦い(治承・寿永の乱)で平家方として戦い、源氏方の武田信義に討たれたとの話もあるのです。また、武田信義が甲斐の国に逃がしたとの話もある。

更には父親の長田忠致が壱岐島に赴任。息子の景致のみが残ったとの話もあります。

その説が正しければ後の長田親子の物語は続かないのですが、私としては鎌田の戦いで武田信義に投降し、源義朝の臣下となった可能性の方が高いと思います。

そして平家が滅亡し源氏が武家の棟梁となった。残るは奥州藤原氏のみ。

頼朝としては運が良い事に弟・義経と対立する事となった。

後白河法皇は木曽義仲に幽閉されていたのを義経に助けられた。義経は恩人だ。それなのに後白河法皇は頼朝の依頼だろうが、義経を朝敵として討つように頼朝に命じた。義経は奥州藤原氏の元に逃げ帰った。

頼朝としては好機到来。義経を討つ名目で奥州藤原氏まで滅ぼした。1089年だった。

これで源氏の天下となった。もう恐れる武家は無くなった。怖いものはない。

そうなると長田親子との約束を果たさなければならない。美濃と尾張を与えると言ってしまった。

そこで頼朝はこう思った筈。「何で父を殺した奴に美濃と尾張と言う広大な領地を与えなければならないのか」。

頼朝は平家に敗れた時、父・義朝一行と共に逃避行していた。途中、父の一行とはぐれた。そして平家に捕まった。

平家には捕まったが、伊豆に幽閉されて命だけは助かった。

もし、父・義朝一行とはぐれずに長田忠致の屋敷に辿り着いていたらどうなっていたのか。

長田忠致は父・義朝だけではなく、自分の婿である鎌田政清まで殺している。そうなると自分も殺されていたのは間違いない。

運良く父とはぐれたから助かった。こんな幸運は無い。自分に運が無ければ長田忠致に殺されていたのだ。それなのにどうして長田親子に美濃と尾張の領地を与えねばならんのか。


つづく。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その2

2022年08月06日 14時19分13秒 | 永井直勝
続きです。

平家にあらずんば人にあらず。

源義朝が亡くなり武家の棟梁となった平家は増長します。

まぁーね、源義朝と平清盛を操って源平合戦をさせたのは後白河法皇です。後白河法皇は自分の権力を高める事しか頭にない。

武家を好ましく思っていない後白河法皇は、台頭してきた平家にもにも牙を向ける。平家討伐令をだす。

それに多くの武家が呼応した。

平家は公家になった。武家なのに武家を軽んじた。源氏の棟梁である源義朝を討った長田忠致に対しても十分な恩賞を与えず、逆に命を狙った。

これでは多くの武家が平家に対して不満を抱く。武家の棟梁として相応しくないと考えるのも当然。

そして伊豆に流されていた源義朝の息子である頼朝が平家打倒に名乗りを上げる。

長田忠致・景致親子はどう出たか。二つ説があります。

一つは平家に命を狙われて源頼朝に助けを求めた。もう一つは源頼朝に攻められて降伏し帰順した。このどちらかです。

長田忠致・景致親子は、自分達の命と引き換えに一族を守って欲しいと頼朝に懇願した。

頼朝は父の事は忘れる。私怨は水に流す。自分に力を貸してくれるのであれば、希望していた美濃と尾張を与えても良いと語る。

この時の頼朝の頭には長田親子を助ける事による多大なメリットを計算したと思います。

平清盛・重盛親子は源氏の棟梁を討った長田忠致に十分な恩賞を与えず、不満を述べた長田忠致に激高。命を狙う様になった。その状況に武家たちは平家に対して不信感を持った。

長田親子は自分の父親である義朝を卑怯な手で討った。頼朝は父の敵を討って当然。武家達はそれには納得するだろう。

しかし、私怨を捨てて長田親子を助ければどうなるか。

長田親子は感激し自分に忠誠を誓う。平家には命を狙われている。平家打倒に命を捨てる働きをするのは間違いない。

武家達には長田親子に対する平家の対応と、自分の対応の違いを明確に示せる。多くの武家は自分の器量に感服する。そして自分の元に武家達が馳せ参じる。

現にその言葉に感激した長田親子は、比類なき働きをしたとの事です。

更にはライバル関係と言える奥州藤原家に身を投じていた義経も、藤原秀衡が止めるのも聞かず頼朝の元に駆け付けた。多くの武家が頼朝の元に駆け付けた。

これは長田親子を助けた効果が間違いなくあったと思えます。


続く。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源氏や平家が滅んだのは、長田忠致・景致親子が切欠ではないのか。その1

2022年08月04日 11時31分14秒 | 永井直勝
今までも何度か語っておりますが、私の家系は源頼朝・義経兄弟の父・源義朝を卑怯にも風呂場で殺した長田忠致に繋がっています。

何故、源義朝を殺さなくてはならなかったのか。

ご存じだとは思いますが、平清盛と源義朝は共に朝廷の為に働いていたのです。当然、面識があります。互いに良く知った存在です。

二人は共に一族を犠牲にして朝廷に忠義を尽くした。それなのに朝廷は平清盛を贔屓にした。源義朝が不満に思うのも当然。

それで謀反を起こし源氏と平家は戦う事となった。平家が勝利した。源義朝一行は落ちのびた。

そして側近であり乳兄弟でもある鎌田政清の舅・長田忠致の屋敷に逃げ込んで来た。

これは長田忠致にとっては堪ったものではない。流石に出て行けとは言えない。

平清盛は鎌田政清の存在も当然知っている。平家の探索が長田屋敷まで辿り着くのは時間の問題。

長田家は平家の家系だが、匿っていたのを知られたら長田一族は全員処刑される。一族を守る為には源義朝を殺さなければならない。

断腸の思いだったでしょう。そうなると婿の鎌田政清も殺さなくてはならないので。

そして決行。源義朝は武芸に秀でていたので、確実に仕留める為に風呂に入っている時を狙った。源義朝は「木刀の一本でもあれば戦えたものも」と言い残し絶命した。

長田忠致は源義朝の首を持って平清盛の元へ。その褒美は壱岐守のみだった。

長田忠致は不満を感じた。源氏の棟梁を討ったのである。その為に娘婿の鎌田政清も殺した。娘はそれを苦に自害した。それ程の犠牲を強いて平家に忠義を尽くした。同じ平家の家系だからだ。それなのに得られたのは壱岐島のみ。それはあんまりだ。

源氏の棟梁を討った事で源氏の残党からは恨まれている。命を狙われる。壱岐守の地位では防ぎようはない。美濃と尾張位の領地が無ければ防衛出来ない。長田一族は源氏の残党に滅ぼされてしまう。

それで長田忠致は述べた。「源氏の棟梁を討ったのだから、美濃と尾張程度の領地は得られて当然。壱岐守のみとは余りにも理不尽」と。

それに怒ったのは平清盛の長男・重盛。「卑怯にも風呂場で討った者が何を言うか。この場で成敗してくれるわ」と言い放つ。

長田忠致は伏して詫び、逃げる様に帰った。しかし、重盛の怒りは収まらない。長田忠致の命を狙う様になる。

以上の話は諸説ありますが、概ねこんなところだと思います。この経緯を見て他の御家人はどう思うか。

平家は武家の棟梁となった。それなのに公家を気取る様になった。武家を軽んじ始めた。

そして長田忠致に対する対応。卑怯な手であっても源氏の棟梁を討つ武功を上げたのに恩賞は壱岐守のみ。不満を漏らしたら激怒し命を狙われる。

こんな平家では忠義を尽くしても十分な見返りは得られない。ただの駒として使われるだけ。これでは堪ったものではない。

多くの御家人はそう思ったのではないか。


つづく。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残夢禅師(常陸坊海尊)と永田徳本との師弟関係。そして因果。

2021年11月14日 12時43分54秒 | 永井直勝
仮に残夢禅師が常陸坊海尊と仮定した場合です。残夢は永田徳本の師匠。これって私的には変な因縁を感じます。

残夢禅師は以前にも書いてきましたが、徳川将軍家にやってきて源平合戦の話を見て来たように話します。特に源義経主従の話は詳細に語った。

もしや彼は奥州藤原家に襲われ山寺参拝していて生き延びた、常陸坊海尊ではないかと疑われた。本人もそれを否定しなかった。その場面を記録した林羅山も残夢を常陸坊海尊だろうと記している。

この残夢を徳川家に連れて来たのは永井直勝と林羅山で間違いないと思う。徳本は永井直勝の叔父だし、林羅山を徳川家に勤めさせたのも徳本なので。

そこで問題が発生します。常陸坊海尊の主は源義経。そして義経を殺したのは兄の源頼朝。その頼朝・義経の父である源義朝を匿いながら風呂場で殺したのは永井直勝、永田徳本の家系に当たる長田忠敬。

その長田忠敬は諸説はあるが、源頼朝に父殺しの罪を許され臣下となったが、平家滅亡の宿願を果たしたと同時に父の仇として処刑された。こんな負の連鎖は日本史上、大変稀有だと思います。

残夢禅師が常陸坊海尊であるなら、弟子の永田徳本は主の父を殺した敵の家系の者。

しかし、源義経も長田忠敬も源頼朝に殺された。つまり残夢禅師も永田徳本も源頼朝に恨みを感じている。それで同調して残夢と徳本は主従関係になったのか。

昔は現在よりも血筋や家系を重視していました。残夢も徳本もそれを重々承知していた筈。そう考えるとこの師弟関係は平家と源氏の和解とも考えられる。

源氏を称している徳川家康も、平家であり源氏の統領であった源義朝を討った家系の永井直勝を側近の家臣として迎えている。

敵対する家系・血筋を超えた和解で家康は天下を得られた。直勝も大名になれた。徳本も118歳まで生きて医聖として名を覇せた。

今回の登場人物は家系・血筋の恨みを忘れて成功した。恨みを忘れる事は人生において大切な事なのか。

人間が出来ていない私はそんな心境にはなれない。それが成功の秘訣と分かっていても難しい。だからこそ永田徳本は私の理想の人間像だ。

あの漢方医師に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいぜ。

まっ、私も飲むべきなのでしょうけど。


ではでは。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永田徳本の師匠は常陸坊海尊なのか!? その2

2021年10月20日 09時01分00秒 | 永井直勝
続きです。

さて、ここで少々、残夢に付いて語ります。ウキペディアのまんま写しですが。

先ず、兎に角、奇行に富む人物である。永禄年代、つまり1558年~1570年の間に関東に現れた。常陸の福泉寺、会津の実相寺で住職??をしていた。
食事をしなくても飢える事は無く、貧しい人には自分の服を脱いで与えた。
磐城の僧・夢々と「なしなしといふはいつはりきてみれば・・・」、「なしなしといふもことはりわがすがたあるこそなし・・・・」と旧知の仲の如く、訳が分からないう詩を歌い合った。
源平の軍記を見て来たように語った事から、常陸坊海尊ではないかと噂された。
1576年に139歳で亡くなったらしい。etc。

ここで疑問なのは徳川家にやって来た残夢とは同一人物なのかどうかです。南光坊天海や林羅山とも話をしたと伝わっていますが、林羅山は1583年に生まれ、1657年に亡くなっている。つまり林羅山が生まれる前に残夢は亡くなっているのです。出会える訳が無い。

139歳で亡くなった。案外、知られていないのですが、「天寿を全うする」と天寿は128歳です。人間、何も問題が無ければ128歳まで生きられると言う事ですが、それを超える139歳って流石に信じられない。どうなっているのでしょ。泉重千代みたいに初代、二代目とを合わせた年齢なのかも知れません。

因みに残夢の長生きの秘訣ですが、クコの実を好んで食べていたそうです。その話を直に聞いた南光坊天海もクコの実を食べて108歳の長寿だった。弟子の永田徳本に至っては118歳まで生きたとされている。この長寿は何を意味しているのか。

残夢を常陸坊海尊とした場合、永田徳本、南光坊天海と共通点があります。それは熊野です。

常陸坊海尊と南光坊天海は天台宗です。そしてその修行の地は熊野三山。

永田徳本の実家は知多郡大浜の藩主であり、熊野神社の神官の家系であります。神道ではありますが、やはり熊野なのです。

この三人、熊野三山での修行で面識があった可能性がある。

南光坊天海はその後、生まれ故郷の会津美里町に帰った。残夢も会津の実相寺に移った。

永田徳本の場合、山形の出羽に移り住んだ。出羽は同じ家系の長井氏の領地。その関係で出羽なのかも知れない。

そして会津でも天台宗の信仰が深い。やはりこの三人は熊野で繋がっているのは間違いないでしょう。

この残夢ですが、その後、伊達藩に現れ、伊達政宗に面会し、源平合戦の詳細を語ったそうです。その時の名は「清悦」。やはり政宗らにも常陸坊海尊と疑われた。

そして岩切・青麻神社裏の岩窟に移り、清悦仙人として過ごした。青麻神社では常陸坊海尊として祀られた。

青麻神社は太陽、月、星の三光信仰の総本山なのですが、その名の通り麻の栽培が行われていた様です。

麻は麻薬です。不眠やストレスに効果があるのですが、幻覚症状も発する。その効能が祓い清めの神事に使われていた。大麻、小麻と言うハタキ形状の神具で人々を祓い清める。

修験道も大麻を燃やしての神事を行う。大麻は究極の薬草である。

うーん、しどろもどろに鳴ってまいりましたが、人の最大の望みは西洋東洋を問わず不老不死です。長寿です。それを信仰の目的にしている面が多くの宗教に見られます。

そんな事から常陸坊海尊は信仰の指標として祭り上げられた。修験道の優位性の広告塔。そんな感じで東北を中心に常陸坊海尊の伝説が広まっいるでしょうから。

お涙頂戴の義経の話をすれば、耳を傾ける人もいるでしょうから。


ではでは。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする