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諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

大江広元の一族が幕府(鎌倉)を開き、幕府(徳川)を終わらせた。その1

2023年01月30日 15時43分18秒 | 永井直勝
大江広元。

この人が存在しなければ私は綱永井寵生と言うペンネ-ムでこんなブログを書いていませんでしたし、私も本姓を長田(おさだ)と名乗っておりました。

この大江広元って人は、私の一族を左右した人物です。「源氏の棟梁・源義朝を殺した家系は縁起が悪い」との徳川家康の命令で長田伝八郎直勝は大江広元流長井氏入りし、永井伝八郎直勝と名乗る様になりましたので。

徳川家康と永井直勝は元々、敵同士と言えます。永井伝八郎の主は松平信康。徳川家康の長男だった。家康と信康は親子で敵対していたので。

信康は武田側、家康は織田側に付くことを主張。徳川家が二つに割れた。それで家康は信康に切腹を命じた。

織田信長のせいにしていますが、死人に口無し。落ちぶれた織田家など簡単に黙らせられる。

家康は吾妻鏡を読んでいたそうですが、徳川家、そして自分の妨げになるので有れば子でも殺す。家康は北条政子に自分の人生をなぞられていた。

そして織田信長が明智光秀によって殺された。

家康は「もっと早く信長を殺してくれれば、息子を殺さなくて済んだ」と嘆いたでしょう。ホント、人生って分からないものです。

永井直勝で統一しますが、永井直勝は主君・信康が自決した後、出奔した。しかし、1年後に家康に呼び戻された。これは異例です。

その理由は息子・松平信康同様、永井直勝は武田家と通じていた。武田信虎・信玄親子の侍医である永田徳本は永井直勝の叔父にあたる。

自分の勢力に武田勢を迎えたい。家康はその想いから永井直勝を自分の側近にしたと言えます。

そしてもう一つ理由がある。家康の懐刀であった石川数正の出奔である。よりによってライバルの豊臣秀吉の臣下となった。

石川数正は家康の側近中の側近です。徳川家の全てを知る人物です。家康の軍略にも精通している。豊臣の臣下となったのであれば、早急に軍制を変えねばならない。

そうなるとやはり武田家と脈が通じている永井直勝が必要となる。今までの徳川のの軍制を捨て、武田家の軍制を真似るしかない。

そうなると出奔したとしても、永井直勝は家康にとって絶対に必要な人物だったと言えます。

そして永井直勝は小牧長久手の戦いで敵将・池田忠興を討った。

直勝は徳川の家臣団の中でも知恵、武勇、そして精神、見た目とも群を抜いていた。

しかし、直勝は自分が敬愛する源頼朝の父・義朝を騙し討ちした長田敬致の流れを汲む。

家康は源頼朝に自分との共通点を見ていた。自分の人生を源頼朝にもなぞっていた。自分は源頼朝を目指す。その為には長田姓の直勝は相応しくない。しかし、直勝の価値は捨てがたい。

故に大江広元流の長井氏の家系に入る様に直勝に命じた。そして長田伝八郎直勝は永井伝八郎大江直勝と称する様になった。

そう、家康は直勝に自分にとっての大江広元になって欲しかった。だから大江流長井氏を名乗らせたのだと思います。

あっ、因みに長井姓ではなく永井姓なのは、長田氏は桓武平氏の流れで永井姓が存在していた。そして大江広元の本当の血筋ではない。それを示す為に長井姓ではなく永井を名乗ったのだと思います。


続く。







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青麻神社で常陸坊海尊(清悦??)とされる残夢と、その弟子・永田徳本を想う。

2023年01月27日 14時08分50秒 | 永井直勝
先日、BSの新日本風土記で源義経の伝説を特集していました。

義経主従が北海道に渡り成吉思汗になった。赤い魚を食べて不老不死となり、今も旅をしているのではないか。そんなロマンを感じる特集でした。

こう言った義経伝説は義経が奥州藤原氏の兵に襲われた時、10名ほどの人数を連れて山寺に参拝し難を逃れたと言われる常陸坊海尊によるものです。

常陸坊海尊は人羹(ニンカン)を食べて不老不死になった。それで長年、義経主従の伝説を語り継いできたとのことです。

因みに人羹は直訳すると「人間を煮た」となります。人魚だとする説もありますが、私は人間を食べれば長寿、或いは不老不死になると考えられていたと推測します。

実は徳川時代でも常陸坊海尊が現れています。残夢と言う名前で。

そこで林羅山や南光坊天海とも会い、義経主従の話をした。林羅山は正しく残夢は常陸坊海尊だったと語っています。

この出会いは私の家系の祖・永井直勝が関わっているのは間違いないと思います。残夢は永井直勝の叔父である永田徳本の漢方医学の師ですので。

そして林羅山は永田徳本に漢方医学を学ぼうと弟子になったが、非凡なる林羅山の才能を感じた永田徳本は徳川家の家臣になることを勧めています。

残夢と称する常陸坊海尊は枸杞飯、赤い実、そして赤い魚とされる人羹を食べて800歳まで生きたと言われてますが、その弟子の永田徳本も118歳まで生きたとされるので、何かしら長寿の秘訣を知っていたのだと思います。

因みに永田徳本は「甲斐の徳本」と呼ばれ、武田信虎・信玄親子の侍医をしていました。

現在の葡萄栽培法を発案して、薬として甲州ワインも作っています。そして徳川家康に漢方医学の知識も授けています。

徳川家康は日光東照宮に祀られていますが、家康は神ではなく人間です。

それを神として祀るには医学の知識があったことから薬師如来の生まれ変わりだったとして、神仏習合の権現として祀ったのです。

日光東照宮は熊野権現の神職兼大浜藩主の家系に生まれた永井直勝が造営奉行をしている。そして叔父の永田徳本が家康に漢方医学を教えた。だからこそ日光東照宮に祀る事が出来たと言えます。

私、太陽、月、星の三光信仰の総本山である岩切・青麻神社には、先日も参拝に参り湧水を飲み飲み、しばらくの間佇んでおりました。自身の浄化をする為に。

この青麻神社には常陸坊海尊を祀っています。1600年代に清悦と言う者が青麻神社に遣ってきて、神社裏の洞窟を住まいとした。人の眼の治療をして暮らしたとあります。この清悦が常陸坊海尊だと言われてます。

神社裏の洞窟は現在は閉ざされており、宮司さんも見たことが無いそうです。見たら眼が潰れるそうです。

ここでふと思ったのですが、流石に源平時代に生きた常陸坊海尊が残夢や清悦だとは思いませんが、時代も合っているし「残夢=清悦」なのは間違いないのではないでしょうか。

青麻神社には湧水が出ます。神社の前には清い小川が流れている。小川を少々遡ると瀧宮がある。そして雨が降ると神社裏の崖から雨水が瀧の様に落ちる。そこからも青麻神社は祓い清めに特化した水の神社だと言えます。御井神も祀っていますし。

残夢とは「見残した夢、目覚めても心に残る夢」を指します。常陸坊海尊にとって源義経一行が討たれたのは悪い夢です。

常陸坊海尊は山寺に参拝していて難を逃れた。それで人々からは卑怯者呼ばわりされた。

悔やんでも悔やみきれない。源義経と共に天下を取りたかった。源頼朝や鎌倉幕府を倒したかった。それ故に残夢と名乗っていたのではないか。

そして残夢は青麻神社に辿り着いた。神社裏の洞窟を終の棲家として心を祓い清めた。残夢を昇華した。それ故に「清められて満足した」との意味である清悦と改名したのではないか。

考えてみれば残夢の弟子である永田徳本も同じ境遇だった。武田信虎・信玄親子の典医・侍医だった。武田家に仕えていた。しかし武田家は滅びた。

武田家が滅び、永田徳本は牛の背に揺られ放浪の旅に出た。十六文先生と呼ばれ、貧しい人からは治療費を取らず安い賃金で医療活動を行った。

徳川秀忠が重い病に罹った時も無償で医療を施し徳川秀忠を完治させたが、それは討伐された武田家へ鎮魂として施していたのではないか。

常陸坊海尊も失意の底にいた。永田徳本も同様。

常陸坊海尊とされる清悦は人々の眼を治したと言われているが、辛い気持ちを人に施すことで自分自身を清めていた。永田徳本も同様の想いで人に医療を施していたのではないか。

そう思いながら清悦も飲んだであろう青麻神社の湧水をがぶ飲みした。

心なしか心が清められた感じがした。


ではでは。









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永井直勝と永井平九郎が私を鬼渡神社に導いたのか。

2022年08月23日 17時48分06秒 | 永井直勝
最近、不思議な因果を知りました。今まで長年考えて来たのですが、今頃になって分かった。遅すぎたな。

私が鬼渡神社を知った切欠は、永井平九郎なる人物に興味を持ったからです。

小学4年生当時、自習時間に図書室で福島県の伝説に書かれている本を読んで永井平九郎を知ったのです。

記憶していた内容は永井平九郎は何時も大鍋を背負っている。敵が来ると大鍋の中に隠れる。永井平九郎は姫を守っている。そして永井神社に祀られていると言う話です。

それから数十年。ネット時代が到来し調べましたよ、私は。

摂津にも永井神社があった。祀られている神は永井家宗家、永井直勝の次男・永井直清。一応、私の家系と繋がっています。

でも、私が読んだのは福島県の伝説の本。永井神社は福島県内にある筈。

そして見つけました、私の故郷福島県いわき市にある三和町に永井神社を。

残念ながら永井平九郎が祀られている神社では無かった。坂上田村麻呂が建立した神社で、その昔は鬼渡神社と呼ばれていた。それが鬼渡神社との出会いです。

そして私が現在住んでいる仙台のある町も氏神は鬼渡神と言える志波彦神。阿須波神と言って良いと思う。

私の店があった街も氏神は仁和多利権現と呼ばれていた二柱神社。

そして私の従兄が事故死した現場の近くには仁渡神社があった。不思議な因果を感じた。

永井平九郎が祀られている神社は分かった。私は間違っていた。永井神社ではなく福島県天栄村の御鍋神社に主祭神として永井平九郎が祀られていた。鍋と言いながらご神体は大釜。配神は平将門公とその側室の桔梗姫。

永井平九郎は平将門公の家来、若しくは平将門公と桔梗姫との子供との事だった。

これも不思議な因縁なのです。私の家系は平将門公を討った平良兼に繋がりますので。もっとも将門公と良兼は従兄弟同士ですからおなじ家系ですけど。

さて永井神社ですが、いわき市三和町永井の地にあるから鬼渡神社から永井神社に変えられたのでしょう。

でも、何でその土地が永井と名付けられているのだろうか。

調べてみました。分かりました。何故、永井なのかを。

なんと永井家宗家・永井直勝が茨城県の笠間藩主時代に、飛び領地としてその地を所有していたのです。だからその地名を永井と名付けたのです。私の家系に繋がっていたのです。

だから三和町の永井に親近感と安らぎをを感じたのか。

何もないところだけど、私の終の棲家にピッタリではないか。

永井直勝は浄土宗だったが、晩年に曹洞宗に改宗した。永井の地にも曹洞宗の寺が2つある。このどちらかのお寺に私の墓を建てようか。

でも、曹洞宗は源氏のお寺。源頼朝に殺された私の家系の長田忠致・景致親子の事を想うと、曹洞宗のお墓に入るのは気が引ける。

私の墓を建てても墓参りする者はいないし、何れは墓じまいされる。無縁仏として他の人の骨と一緒にされる。それは嫌だな。

やっぱり私の墓は祠にして、土に埋めるのではなく、祠の中に設置した方が自分としては良いと思う。名前は「綱永井命」としようかな。

いわき市で一番の霊場である閼伽井嶽の参道に山林を持っている。そして井戸の神は御井神。生井神、福井神、綱長井神の三神。

閼伽とは功徳水。その功徳水を生む井戸がある閼伽井嶽。その閼伽井嶽に綱永井命として私の祠を祀ったら、綱長井神と勘違いして参拝してくれる人がいたりして。

う-ん、それってチョット罰当たりだな。私はタダの人間なのだし。

ただ、日本人の1割は神道のお墓に入っていると聞く。お骨をお墓以外に埋めると刑法に引っ掛かるが、祠だったら大丈夫だと思う。

そうしようかな。閼伽井嶽は本来、大山祇神の山。仏教の閼伽井嶽常福寺に調伏されてはいるが神道の山だし。

誰もいないところでひっそりと眠る。それって私らしいし。


ではでは。



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源頼家の殺され方は異常だ。北条政子はサイコパスではないのか? その3

2022年08月21日 18時06分20秒 | 永井直勝
続きです。

頼家は母親・北条政子や北条氏に疑惑を持つようになっていたと思われます。

頼朝としては比企尼は自分の乳母だった。乳母は母親も同然。だからこそ比企尼の甥の比企能員を重用した。比企の娘を頼家の嫁に取った。

しかし、それは不味いと頼朝も頼家も思い直したのでしょう。だから源氏の血筋である木曽義仲の娘も側室として娶った。義仲の娘が子を産んだら母方も源氏の血筋。北条も手を出せないと考えたと思える。ただし、正室は不明。

そして比企の娘である若狭局との間に一幡が産まれる。頼家は比企能員を実の父の様と思うようになっていた。これで頼朝と比企氏と北条氏の対立は決定的となる。

先手は頼家。かつて二代目鎌倉殿の地位を争った阿野全成を謀反の疑いで殺した。妻で政子の妹である阿波局の引き渡しも要求。更には全成の息子・頼全をも暗殺する。それで北条政子も頼家を殺すことを決意したと思えます。

そして頼家が病に。何故か北条氏は頼家がまだ生きているのに、朝廷に頼家が亡くなったと伝える。それは北条氏が頼家に一服盛ったと考えれば辻褄が合います。

しかし、頼家は病の中、比企能員に告げていた。北条氏を滅ぼせと。それを襖の影て聞いていた北条政子。比企氏の早急の殲滅を決意した。

そして頼家が病の中、比企氏を滅ぼした。怒った頼家は仁田氏と和田氏に北条氏討伐を命じるも和田氏がその旨を北条氏に告げる。

北条政子らは頼家の企みを知り、頼家に出家を命じる。頼家は修善寺に送られる。

でも、頼家は退屈だとして供の者を修善寺に寄こすよう北条政子に願いでる。

政子は頼家はまだ懲りていないと思ったのかは分かりませんが、事故なのか戒めなのかは不明だが、頼家は何故か漆の入った風呂に入らされる。身体中火膨れ状態になる頼家。

北条政子はその時の頼家の顔をお面にして鎌倉に送れと命じる。

そのお面は病面と呼ばれているが、蛾の幼虫と言うか、剛力招来のサナギマンと言うか、饅頭の様なお面が残っています。

このお面を見て北条政子はどう思ったのか。お面を見て頼家を悼んでのか。蔑んでのか。

それは分かりませんが、私はその面を見て憎しみを感じていたと思います。続けざまに惨い暗殺を決行したのですから。

それから暫くしてまた風呂場で頼家は襲われる。縄で首を絞められるも頼家は中々死なない。そこで局部を切り落とし、時間をかけて出血多量で殺した。

その時の顔も面として残している。死面と呼ばれている。目を見開き歯を食いしばった苦悶の表情。まるで化け物です。

多少の情があるのでしたら、サクッと短刀で心臓を一突きにすると思います。

しかし、漆の風呂に入れ、更にまた風呂場で首を絞め局部を切って十分苦しませて殺した。異常です。

頼家の祖父の義朝も風呂場で殺されている。同じ風呂場で頼家を殺した。これは北条政子の源氏に対する並々ならぬ恨みを感じます。

実の息子であっても源氏は憎い。此処までの事をしたのであれば、完全にサイコパスだと私は思います。

でも、この所業で御家人たちは北条政子、北条氏の怖さを知った。後鳥羽上皇から北条義時討伐の命が下っても北条政子に従った。そして朝廷を攻めて後鳥羽上皇を島流しとした。

これで完全に武家の時代が到来したと言えます。

権威の天皇家とサイコパスな北条氏の戦い。結果はサイコパスの勝利となった。此処までしなけれは天下は取れない。それか世の習わしなのでしょうかね。


ではでは。












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源頼家の殺され方は異常だ。北条政子はサイコパスではないのか? その2

2022年08月20日 23時46分17秒 | 永井直勝
続きです。

私の悪の心、サイコパスの遺伝子を総動員して北条政子の心理状態を探ってみます。

先ず、源頼朝が14歳で伊豆に流されてきた。頼朝を監視する役目を平家に仰せつかったのは北条時政。

頼朝は後見人が欲しい。それには婚姻が一番手っ取り早い。それでラブレタ-を書きまくる。

最初に引っ掛かったのは伊東祐親の三女・八重姫。二人は子供まで儲ける。

しかし、京から戻って来た伊東祐親は大激怒。この事実が知れたら平家に攻撃される。それで祐親は頼朝と八重姫の子供に重しを付けて淵に流して殺す。そして、怒りに任せ源頼朝を襲おうとする。

八重姫はそれを察知し頼朝の元に走ったが、頼朝は既に北条政子と一緒に暮らしていた。それに絶望して八重姫も入水自殺をした。

頼朝は本当は北条氏の次女にラブレタ-を送ったつもりだったが、送った者が「北条氏の次女は性悪女だ」との噂を聞き、長女の政子に渡してしまう。そして二人は付き合いだした。

父親の北条時政は大激怒したが、政子には野心があった。北条氏を武家の棟梁にする野心が。それを実現するには源頼朝を利用する。一か八か頼朝に賭けて見た。

先ず一番大事な事は頼朝の正室で居続ける事。当時は側室や妾を持つのは当たり前の時代。頼朝が北条氏よりも上の御家人の娘と付き合い出せば、自分は正室から側室、更には妾に落ちる可能性がある。それだけは避けなければならない。

頼朝が亀の前と付き合っている事を政子が知り、壮絶なる後妻打ちをしたのその為だったのでしょう。頼朝に近付く女は許さないと言う意思表示。頼朝も政子には頭が上がらなくなった。

後妻打ちは北条時政の後妻・牧の方の親族である牧宗親が行った。頼朝は怒り心頭。牧宗親を呼び出し髷を切り落とす。宗親は泣いて逃げた。

それで愛妻家の北条時政は頼朝に怒り、伊豆に帰ってしまう。

ここで北条家のナンバ-1の立場に立ったのは政子です。次に義時。時政は第3位に落ちます。

そして平家との戦いで勝利。

頼朝は父・義朝の領地だった鎌倉で幕府を開いた。でも、私、思うんですけど、頼朝は平清盛同様、京都で天皇家を担ぐ武家の棟梁を目指していたと思うのです。

だから後白河法皇に気に入られ、検非違使に命じられ四国と九州の地頭となった弟・義経が許せなかった。義経が京都で武家政権を打ち立てる可能性がある。義経には奥州藤原氏も後見人に控えている。十分あり得る。

平清盛の後を継ぐのは自分でなくてはならない。だから義経を殺した。序に奥州藤原氏も滅ぼした。天下を取った。

次の目標は天皇家との姻戚関係を結ぶこと。そして上京して京都で政権を執る。

その為に大姫を天皇家へ嫁がせようとする。しかし、大姫は鬱病との事ですが20歳で亡くなる。

次は次女の三幡を嫁がせようとするも三幡も鬱病をこじらせたのか14歳で亡くなった。

これっ、出来過ぎていませんかね。此処まで不幸が続くものでしょうかね。

頼朝が上京し京都で政権を執る。そうなると関東の御家人の立場はどうなるのか。北条家の立場はどうなるのか。

北条政子が権力の権化だったら、北条家第一と考えていたらどうするか。

頼朝が鎌倉での政権を続けさせるには、大姫と三幡が邪魔になる。それで政子が娘たちに一服盛ったとしたら全て辻褄が合うのではないか。

吾妻鏡には頼朝の死の前の3年間には何も語られていない。もしかしたら用済みとなった頼朝も殺していたのではないか。


続く。






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