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諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その4

2023年12月09日 14時50分25秒 | 永井直勝
続きです。

永井直勝は本来、徳川家の軍師の地位を約束された人物でした。何たって家康の長男である松平信康の一番の側近だったのですから。

松平信康は性格横暴との記載もありますが、それらの書は徳川家が天下を取ってからの書物での話です。どうとでも書けます。

現に信康の自害と、その母親・築山殿の殺害は全て織田信長のせいだとなっていますが、近代の調査ではそれは間違っていたとされています。

築山殿の父親・関口親永は今川家に仕えていたが、家康が今川家を裏切り、織田家に付いたことで切腹した説があります。また築山殿の母親は今川義元の伯母とも妹とも言われている存在です。

その今川家を夫の家康は裏切り、敵の織田家に付いた。そりゃ、夫婦仲も悪くなって当然です。

実は築山殿は家康よりも2歳年上との話ですが、10歳年上の説もあります。家康が15歳の時に結婚した訳ですが、その説が正しいのであれば築山殿は25歳となります。

ご存じかも知れませんが、松平信康は美男子です。家康とは似ていません。しかも10歳年上説が正しいのであれば、築山殿は誰かの側室だった可能性があります。当時の25歳は今の40歳の感覚です。家康も信康が自分の子なのか疑い出した可能性があります。

家康の次男である結城秀康の妻は築山殿の下女です。築山殿に酷い折檻を受けたとされていますが、秀康も家康とは似ていない。結城秀康の母は、男関係にルーズだったとの話もあります。

だから本当の意味は人質ですが、豊臣秀吉に養子に出したと考えられます。

秀康の幼名は「おぎ丸」。「おぎ」とは私も釣ったことがありますが、黄色っぽい鯰に似た淡水魚です。顔が似ていたからそう名付けられたと聞いています。

更に結城秀康は当時としては忌み嫌われていた双子で産まれています。その点も家康に嫌われていたみたいです。

松平信康に話を戻します。信康と直勝の出会いは当時の祭りである念仏踊りでです。直勝の美少年ぶりと見事な太鼓捌きに魅了された信康が直勝を小姓として迎えます。

直勝は確かに井伊直政と並ぶ美少年でしたが、其れだけが小姓として迎えられた理由ではない。

直勝の父・長田重元は大浜藩主であり曹洞宗の僧侶であり、熊野権現の宮司でもありました。

その大浜を奪おうと織田信長が長田重元に戦を仕掛けた。説によると信長が14~17歳の間に七度も襲って来たそうです。その七度とも重元は退けています。

まっ、14歳~17歳の信長ですから、ヤクザの出入りみたいな戦だったと推測しますが・・・・。

それでも信長に七度も勝った重元を父に持つ直勝に、信康と築山殿は興味を持った筈です。

更には重元の弟で直勝の叔父である永田徳本は、武田信虎・信玄親子の典医でもあった。武田家とも繋がりがある。

織田家に付くことを良しとしない信康・築山殿母子には、長田伝八郎、後の永井直勝は、家臣として願ってもいない人物だったと言えます。


続く。



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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その3

2023年12月08日 16時19分56秒 | 永井直勝
続きます。

地元仙台・伊達政宗の軍師??、片倉小十郎はどうか。

伊達政宗は非情な面はあるが、敵方だった真田信繫の娘を匿っている。その娘は片倉小十郎の側室となった。つまり真田信繫の血は仙台で繋がれています。

その片倉小十郎と真田信繁の血を受け継いだ宮司と面識があります。大変清廉な方です。自分の祖先である真田信繫には良い感情は持っていないみたいでした。ご自身を人殺しの家系と呼んでいました。

片倉小十郎は天然痘で目が飛び出たままになった伊達政宗の目を、短刀で抉り出した。これは信頼関係が無ければ出来ません。私だったら恐ろしくてどっちも出来ません。

片倉小十郎は心身共優れていた人物だから、幼少の政宗は自分の目を抉らせたのだと言えます。

伊達政宗は小田原征伐に遅れました。それは政宗派と弟・小十郎派で伊達家が分断していたからです。お家騒動にあったのです。

歴史では政宗の母・保春院が小次郎に家を継がせたいが為、政宗の食事に毒を盛って殺そうとしたとなってます。

それが原因で弟の小次郎を政宗が殺したとされていますが、それは嘘だと確信しています。

政宗、小次郎、保春院、そして小十郎が相談して小次郎を殺したことにしたと思えます。小次郎の存在を消したことで伊達家を一つに纏めた。

勿論、小次郎は生きています。小次郎も納得し、住職としての人生を全うしています。

先ず間違いないと思います。政宗と保春院との関係は最後まで良好でしたし。

そんな事があり小田原征伐に遅れた。

政宗も秀吉に屈したくなかった気持ちもあったから、判断に苦慮して遅れた部分はある筈です。それを説得したのは小十郎でしよう。

そして小十郎は秀吉の性格も良く知っていた。政宗が死に装束で小田原に駆け付け、秀吉に恭順を示して喜ばせ処罰を免れたのは、小十郎のアイデアだと思います。

秀吉を嫌っていた政宗は、そんなしおらしい真似なんて自らは出来ないでしょうから。

実はその4年後、その死に装束戦法??をパクって、命を長らえた者がいます。私の家の宗家である永井直勝です。

歴史通は永井直勝を幸運な人生を送った人物と言うでしょうが、とんでもないです。永井直勝程、戦国時代に翻弄された者はいない。

何度も不運を体験した。本当に運が悪い男。それでも自分の人生を乗り切った。仁義礼智で生き抜いた人物だと私は断言します。

身贔屓な面は否定しませんが。


続く。



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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その2

2023年12月06日 19時34分38秒 | 永井直勝
続きです。ここでチョット話を変えます。

私のブログを読んでくださっている奇特な皆さんは、名軍師と言えば誰を思い出すでしょうか。

世界規模だったら断トツで諸葛亮孔明でしょう。でもヤツは無謀な戦ばかり仕掛けて蜀を疲弊させただけだった。私に言わせれば孔明は駄目な軍師です。

孔明死後、30年間蜀は続きましたが、蜀を支えたのは愚帝とされた劉備玄徳の子・劉禅です。

魏と蜀の国力の差はどうしようもないです。孔明は無謀です。

しかし劉禅は蜀を魏に奪われながらも命を長らえた。それは愚帝を演じきったからです。愚帝だから殺さなくても影響ないと危険視されなかった。これは軍師としたら相当な実力だと私は思います。

日本に目を向けますと大河ドラマにもなった黒田勘兵衛でしょうか。

でも彼は自分の頭の良さをひけらかすバカだった。次の天下人は勘兵衛だと主君の豊臣秀吉から警戒され、領地は九州に与えられた。軍師としては劣等です。

秀吉のもう一人の軍師・竹中半兵衛はどうか。

彼は信長には付かず秀吉の軍師になった。秀吉に忠節を貫いた。その点は名軍師と言えますが、35歳で十分な働きを見せずに亡くなった。

長生きするのも名軍師としての力量だと私は思っているので、竹中半兵衛も軍師としてはいま一歩だと言えます。

もう一人、大河ドラマにもなった武田信玄の軍師・山本勘助はどうか。

もう何も言う事ありません。上杉謙信にキツツキ作戦を見破られて、信玄の弟の信繁は討たれるし、本人も討たれたので軍師としては当然、劣等だと言えます。

石田三成の軍師・島左近はどうか。

三成は4万石の石高の時に2万石で島左近を軍師として迎えました。

私は石田三成は清廉過ぎたと思います。魚は奇麗過ぎる水には住めない。それを島左近は三成に教えるべきだった。関ケ原の戦いで負けたのだから島左近も劣等と判断します。

今川義元の軍師??と言える太原雪斎はどうか。

雪斎は徳川家康を自分の後継者。今川家の軍師に育て上げようとしていた節が見えます。しかし、家康は今川家を見限った。家康の心情を見誤った。家康は敵の信長に付いた。その点を考えれば、今川家の軍師としては雪斎も劣等だと言えます。

もっとも家康の力量を見抜いていて天下を統一するのは家康だと判断していたのなら優れた軍師だと言えますが、主君を差し置いて家康を教育したのですから、やっぱり今川家の軍師としては駄目ですね。

徳川家で軍師と言えば本多正信でしよう。

三河一向一揆で家康と敵対したことがありましたが、罪を許されて軍師??として迎えられた。その力量は軍師トップクラスと言って良い。

しかし、本多家は家康、正信亡き後改易となった。徳川秀忠に疎まれたこともあるが、本多正純は軍師としては石高が高過ぎて他の武将から妬まれた。そしてあらぬ疑いをかけられた。

本多正信は軍師の知行は低い方が良いとかねがね語っていたが、正純の宇都宮15万石は貰い過ぎだと思う。その事を正信は正純に強く言い含めるべきだった。

っと言う事で子供の代で改易になったのは、正信の思慮不足は否めないので軍師としては劣等となります。

上杉景勝の軍師・直江兼続はどうか。

私、上杉家は清過ぎて駄目だと思うのです。人間は悪の部分が無くては生きて行けませんので。

上杉謙信などは軍師はいなかったと思えますが、自分を毘沙門天の化身と豪語している馬鹿です。武将は正しくない事でも生き延びる為にやらなければならない。

直江兼続も家康の罠にはまり直江状を書いて悦に入っていたと思いますが、家康は大喜びだったでしょう。まんまと罠にかかったので。

そして敗戦。上杉家を傾かせた大罪を犯したと言えます。勿論、軍師としては劣等です。

そして最後に真田信繁。自分の意地、そして亡き父・昌行の名誉の為に負けると分かって大阪方に付いた。

それでなくても兄・真田信之に多大な迷惑をかけているのにです。劣等と言わずに何といえば良いのでしょう。

こんな事を言うとたま真田信繁ファンの歴女に怒られそうですが、信繁の血を受け付いている方を存じ上げていて、その方も信繁を非難しています。

目の前に信繁が居たら、「何で子孫の事をもっと考えなかったのか。自分勝手過ぎるぞ、馬鹿野郎」と罵倒してやりたいですね。


続く。








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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っていたとしたら、日光東照宮にあると思える。その1

2023年12月05日 18時27分41秒 | 永井直勝
映画はまだ観ていませんが、ビートたけし監督主演の「首」に興味があります。

私、結構残酷シーンに弱いので、観たい気持ちと観たくない気持ちが交錯していますが、本当の戦国時代はビートたけしの「首」の方が近いと思えます。NHKの「どうする家康」なんか、「おままごと」と言えるのではないでしょうか。

神や主君に比較し下人の命は軽い時代だった。生きている道具に過ぎない。武将になってこそが人間。

だから「あんな感じなんだろうな」と思うのですよ。史実を無視した「どうする家康」を観てしまった後には。

この話、今まで何度かしていますが、私の家の宗家である永井直勝も小牧長久手の戦いで、敵将・池田恒興の首を取っています。そしたら敵も味方も直勝に襲い掛かった。

敵は当然、大将の首を取り戻す為。味方は手柄の横取りです。それはもう地獄絵図です。

永井直勝は池田恒興の十文字の槍で左一刺し指を落としたとされていますが、手柄を横取りしようとした徳川方の蜂谷何某によって切られたと言う説もあります。敵将の首を上げるのに皆狂っていた時代だと言えます。

因みに首実検の時、直勝が指を怪我している事を知った家康は、事実を知り蜂谷何某に対して「卑怯者」と罵倒したとの話もあります。勿論、一説の範囲ですが。

だから映画「首」は実際の戦国時代に沿った映画だと確信していますが、私、映画館に足を運ぶことはありません。貧乏だからと言う事もありますが、半年待てばamazonプライムで視れるので。

私、映画は要所、要所を巻き戻して再確認し、その意味を噛みしめて考えながら視るのが好きなのです。味わって視たいのです。

映画館ではそれが出来ない。私の場合、映画館では映画が楽しめない。だから半年後に「首」を観るのは、嫌な部分はありますが楽しみなのです。

っと言う事で私はまだ「首」を視ていません。プロモーションのCMしか視ていないのですが、ご存じでしょうか。ビートたけしが演じる豊臣秀吉の首もまた行方不明と言う事を。

信長の首は本能寺の変でも見つからなかった。

光秀の首は首塚と胴塚が京都に有るので、そこに埋まっている可能性はあります。

しかし、光秀ほどの者の首が、道端??にあるような塚にそのまま埋葬されているとは考えにくい。そこに埋まっていたとしても、どこかに移されたと考えます。

あっ、説明し忘れていました。秀吉の首に付いてですが、秀吉の墓はあるのです。

しかし、掘り起こしてみたら首は無かったのです。多分、一緒に埋葬されていた筈ですが、誰かに持ち去られたのでしょう。

それが出来る人物。一番怪しい人物は誰か。

私的には徳川家。徳川家康だと思えます。そうとしか考えられないです。


続く。
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大江広元の一族が幕府(鎌倉)を開き、幕府(徳川)を終わらせた。その2

2023年02月01日 22時33分20秒 | 永井直勝
続きます。話を大江広元に戻します。

昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を観た方はお分かりだと思いますが、大江広元がいなければ鎌倉幕府を開くのは難しかったでしょうし、開いたとしても維持は困難だったと思います。

大江広元が平氏や朝廷の動きに精通していたからこそ、鎌倉幕府が成立した。

源頼朝と北条政子は鎌倉幕府の象徴と言えるが大江広元に絶大な信頼を寄せていた。北条義時も同様で大江広元の意見を忠実に守り実行した者です。だからこそ朝廷を倒せた。

実質は大江広元がいたからこそ、鎌倉幕府を開くことが出来た。朝廷に勝てたと言っても言い過ぎではないと思います。

そして戦国時代が到来。関ケ原の戦いでは西軍の大将は毛利輝元。東軍の大将は勿論、徳川家康となります。

本来、西軍の大将は豊臣秀頼が成るべきですが、秀頼は幼過ぎる。実質の大将は石田三成でしょうが、三成は人望が無さすぎる。だから毛利輝元が担ぎ出された。

この関ヶ原の戦いですが、家康も三成も毛利輝元も1日で終わるとは思っていなかったでしょう。

っと言うより、西軍の大将・毛利輝元は長引かせる気が満々でした。関ケ原に兵を集めている最中に西日本の東軍の武将の領地を侵略していましたからね。

黒田勘兵衛も同様に九州の敵将を襲っていた。そして力を貯めて関ヶ原の戦いでの勝者と戦う予定だった。それが当てが外れて1日で終了。東軍の大勝利となった。黒田勘兵衛も毛利輝元も愕然としたでしょう。

っとは言え、関ヶ原の戦いでは西軍の大将ではあったが、毛利軍は動かなかった。毛利輝元としては「自分が戦いに参加しなかったのだから東軍は勝てた」と考えていたでしょう。

恩賞は出ないまでも150万石の領地に関しては不問に付されると考えていたと思われます。

それが蓋が開いたら150万石から50万石に領地を減らされた。領地は3分の1となった。毛利輝元としたら不満たらたらだったと思います。

実はこの毛利氏は大江広元の家系です。大江広元の知恵を受け継いでいたから150万石の大大名になれとのだが、関ヶ原の戦いで50万石に減らされた。この恨みは代々忘れないと思えます。関ケ原では戦わなかったのですから。

それを危惧していた男がいます。大江広元流長井氏の家系に入った永井直勝です。毛利氏と永井氏の家紋は「一に三ツ星」。同じ家紋です。血は繋がらないとしても同じ一族なのです。

因みに長井氏の方は鎌倉幕府の時代、山形の長井庄を領地としたので長井氏を名乗ったのですが、後に東北の雄・伊達政宗に滅ぼされています。

永井直勝は150万石を50万石に減らされた毛利氏の暴走を想定していた。そこで同じ大江広元の一族であるとして、毛利氏と密に婚姻関係を結んだ。長州藩に永井姓が多いのはその為です。

徳川家の永井氏は「最初と最後、特に良し」と呼ばれていますが、永井直勝から永井尚志まで徳川家を最後まで支えています。

260年間続いた徳川幕府ですが、家臣で最後まで家系が続いたのは稀有です。しかし、徳川幕府は終わりを告げた。

その一因は150万石を50万石に減らされ、貧しい生活を続けて来た毛利氏・長州藩の恨みは確実にあった。故に倒幕に動いたのは間違いないと思います。

不思議ですよね。大江広元が鎌倉幕府を開いたと言っても良いのに、最後の徳川幕府を終わらせた勢力の一つである長州藩も大江広元の家系だったなんて。

血は繋がっていないが徳川幕府を守った永井氏も大江広元の家系。永井尚志は最後まで徳川家の為に尽力した。五稜郭でも戦った。

そんな永井尚志は敵からも人望があり、明治政府でも元老院に迎えられた。徳川幕府が滅んでも大江広元の家系は続いていく。

源平時代、裏切りの世界で誰にも恨まれなかった大江広元の教えが幕府が滅んでも代々続いていた。

そこに人としての良い生き方のヒントがある様に思いますね。


ではでは。






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