走るナースのおとぎ話

ランニングしながら人生を模索しているナースです 日々感じたことをお気楽に書いている「おてんばナース」です

私の希望

2007-12-31 22:47:32 | Weblog
「希望」ってゴールに駆けてくランシューの響きに似てると私は思う
新しい年が来ても私の靴がいつも希望の音を奏でますように
このブログをごらんになられてくださった仲間の皆様
どうぞ素晴らしい年をお迎え下さい
また仲良くして下さいね
ありがとうございました 空飛ぶダンボ 

最後の忘年会

2007-12-30 22:27:48 | Weblog

走友会の忘年会が夜6時からありました
それに先立ち、13時から約15㎞くらい仲間と走り納めランをしました
雪がお昼頃から降り出して、寒気が強まり、夜帰ってくる時は道が
ツルツルに凍っていました
寒いのは好きですが、転ぶのはいやです
へっぴり腰でそろそろ歩いて家まで戻りました
楽しい一日でした
明日から1週間仕事なので、新年を迎えたような気分でした
楽しいお酒と仲間って、本当にいいですね~ 雪だるま 


旅してきたサザエさん

2007-12-29 19:19:48 | Weblog
はるか遠い隠岐の島から、沢山のサザエが届きました
第1回隠岐の島ウルトラマラソンで知り合った地元の中学生のおじいちゃんからです
おじいちゃんは現役の漁師なので、冷たい海に入って取った貴重なサザエを送ってくれたのです
隠岐の島のウルトラは、島上げて「おもてなしの心」そのものの大会です
応援の暖かさ、エイドの充実、地元小学生からの応援メッセージ、後夜祭の盛り上がり等、なにをとっても申し分ありません
こんなにしてもらっていいんだろうか?・・・と、恐縮してしまうくらいです
私のお友達は当時小学生でしたが、今は立派な島根県ジュニア相撲チャンピオンなんですよ
今年6月17日 朝5時100㎞スタート
25㎞過ぎのエイドに、彼は中学生ボランティアとしてエイドで働いていました
わずかの時間でかわした会話は
「相撲はどうさ?」
「今夜も練習があります」
「全日本大会でまず1勝だね、がんばれ!」
70㎞過ぎで思いがけず再会
ボランティアがおわり、お母さんとおじいちゃんとで私を待っていてくれたんです
95㎞
こんどは大会スタッフのお父さんが、巡回バイクを止めて待っていてくれました
「息子は相撲の練習があるので、ゴールで待つことができませんが、がんばってくださいね」
「ありがとうございます・・ありがとう・・・大丈夫です、走れます」
未来の横綱、ただいま中学2年生 どすこいどすこい

たらば届く

2007-12-28 21:34:16 | Weblog
北海道を旅している長女から、タラバガニの大きいのが送られてきました
どんなに大きいかと言うとね、私の顔の2倍くらいだったですよ
おばばいわく「蟹だけで腹いっぱいになったのは、生まれてはじめてだ」
なな姫いわく「ばあちゃん、、、、見てるだけでいい?全部たべられないよ!」
私いわく「優雅なおばちゃんだねえ、仕事納めして年末に旅行に行っていいなあ!」
この時点で自分も加古川に遊びに行ってきたことはもう忘れていました
主人だけが黙々と我々の食べるかにの身を掘り出してくれていましたね
いつもすみません
今年も忍耐の一年だったことでしょう
ま、来年もよろしくね~とうちゃん!


ナースの旅日記(4)

2007-12-27 21:01:15 | Weblog
12月23日(日)朝6時起床 曇り
朝風呂にゆっくり入り、テレビ体操に参加する
朝食を1Fのフロアに下りて、のんびり食べる
1泊朝食付きで5500円は安いでしょ
ロープライズのホテル作りを目指しているチェーンホテルだけあって、無駄は一切ない代わり、これはほしいと思うサービスはきっちりありましたので、ナース大満足! たとえば大浴場です。安いホテルの狭いユニットバスはちょっと悲しいです
ここには、1階に時間指定の大浴場がありました(男女入れ替え制)
ゆったりお風呂にはいると、旅の疲れが吹っ飛びます
ベットはセミダブルでのびのび休めましたし、朝食が付くのは嬉しいでしたね
レディースフロアを作る予定とも書いてあり、大歓迎!

8時5分 加古川行き快速電車に乗る
「魚住」という駅を通過するあたりで、海が見えた気がした
もう一度みたいと、しきりに車窓に目をこらしたが見えず。幻だったかもね
明るい陽が差してきて青空が広がってきていた
日焼け止めクリームは持ってこなかった
ロングタイツにロングシャツ、ベストに手袋等の冬ランモードしか持参していない
12月なのに暑くなりそう・・・・
最高予想気温15度と、朝の地元ニュースで言っていたし
河口湖Mもこのスタイルで暑くてしくじったではないか・・・
ま、ウエアーでタイムが左右されるようなランナーでもないっか、と開き直る
それにしても素晴らしいお天気の回復です
ぐんぐん青空が広がって、気温もますます上昇してきた
気持ちも上昇してね、身体も上昇してね、お願いしますだ
15分ほどで、加古川駅着
どこから見てもランナー以外の何様でもない大勢の集団にくっついて移動する
5分ほど歩いて、会場行きシャトルバスに乗れました
冬の重装備は私だけ。一体貴女はどこからでてきたか状態の雪だるまナースでした

9時会場に到着し受け付けすませて、更衣室へ向かう
おっと、その前に物産店でお土産ゲットする
アミノバイタル無料配付にすかさず手を出す
うどんサービスに立ち寄る
う~ん、満腹!満足! 腹と足が良ければランも満開だわ~!

9時40分 登記登録者フルマラソンスタート
9時45分 一般の部 フルマラソンスタート

登記登録ランナーは、ここで記録を出して出場資格のいる大きな大会を目指しているようでした
それには一般との混雑を避けるため時差スタートも配慮のうちなんでしょうね
コースは加古川河川敷マラソンコース「加古川みなもコース」です
フラットでのどかな車や信号のない安全道を、行っては戻り橋を渡っては戻りです
3000人近くが走っているのに、少しも混雑しません
トップランナーと2度もすれ違い、あまりの俊足に思わず拍手10㎞、20㎞、中間点、30㎞と、すこぶる順調過ぎて怖いくらいだった
手に書いたラップ時間を確認しながらひた走った
そこからが今回もまた遅れてしまった
どこも痛くないし、足も動いていましたが、エイドの誘惑と表示時計の読み間違えで失速してしまいましたあ~~~
時計は登記登録者のスタートに会わせて5分早かったのだと今になって思うのですが、そのときはわからずがっくりきてしまいました。
競技用の時計を忘れてしまい、普段の腕時計でしたので正確なラップがわからなかったのです
立ち止まって、自分の腕時計が止まってないか?と確認までしたおたんこナースでありました
今回もダメだったわ~・・・と思うやいなやウルトラモードに素早くギアチェンジしたのもナースらしさ。
それでもラスト5㎞からは気持ちを立て直しペースアップ(今回の大きな収穫)、50人ほど抜きました。
最後は笑顔で、沿道の応援の方達とハイタッチしてのゴールでした
今の自分にしたら、「よく走れたな」って自己満足しています
今年最後のフルマラソンでした
欲を言えば、4時間一桁がほしい
もっと欲言えば、サブ4
更にもっと欲言えば、どうぞ年末ジャンボ、大当たりしてね!!!
来年につながるレースが出来ました
お世話になりました、ありがとう加古川マラソン
大勢の方に親切にしてもらい、素晴らしい大会でした

予定していた帰りの高速バスに間に合い、やれやれ
そうしたら直ぐうしろの席に、名古屋に法事できていた伊那の走友がいました
嬉しかったですね
「どうだった?」
「うん、ゴールは最高に気持ち良かったけど、タイムが縮まらなくてね・・後半がどうしても失速しちゃってね・・・」
「30㎞からが勝負だよね、やっぱり」
そんな話で盛り上がりました
来年まで残すところ数日ですね
さあて、元旦から心機一転。がんばろうっと













ナースの旅日記(3)

2007-12-26 22:49:35 | Weblog
「こんにちは! こんにちは! 山下さん、いらっしゃいますか?」
私は祈るような思いで、何度も暗い家の奥に向かい声をかけました
しばらくすると・・・・遠くのほうで声がしました
「どなたかみえたかな?」
「はい、長野から会いにきました!」

しばらく待っていましたら、寝間着をきたご老人がのっそりとでてみえました
「山下さんですね、一度お逢いしたくて長野から出てきました!」
「よくもまあ・・・・尋ねて来てくれて・・・・」
お互いにしばらく感動で言葉が出ませんでした
奥様を亡くされて一人暮らしをしているが、身体が弱くヘルパーさんに来てもらっていること、絵のほうは3年前からもう書く体力がないので止めていること等を話してくれた
そして玄関においてある数枚の絵を見せてもらった
成沢さんは、10年前に脳梗塞で倒れ今は南信濃の特別養護老人ホームで余生を静かに暮らされていることを私はお伝えした
「会ってお話をしたいが・・・ご無事でお帰りになられた事がわかったのでようやく安心できました。今日はわざわざおいでになられたのですか?」
「明日の朝、加古川マラソンに出るのです」
というと
「明日は雨も上がるでしょう。しっかり走りなさいよ」と励ましていただいた
わずか10分ほどの対面でしたが、それで充分でした
夏にお手紙で、成沢さんの事をお知らせしてありましたし
山下さんからお返事の絵はがきももらいましたが
お二人の心の架け橋をしっかり架けさせていただきたかった私の思いが成就しましたので。

待っていてもらったタクシーに乗って、今夜泊まる格安ホテルへ向かう車中で
運転手さんが遠慮がちに聞きました
「どんな事情でこられはったですか?」
来訪の一部始終をかいつまみお話すると
「・・・・・あんたが会いにこられて、どんなに嬉しかったやろなあ・・・」
「私もお逢いできて本当に良かったです。御病気だとお聞きしていたので、心配していたのです。お話が出来てホッとしました。肩の荷が下りた気がします」

17時 宿泊ホテルに無事到着
部屋に重いリュックを下ろして、フロントで近くの食堂を教えてもらう
雨はしっかり降っていました
土曜日の夕方だけあって、忘年会に出かける人達や家族づれの買い物客で町は華やいでいました
イルミネーションが雨ににじんでひときわきれい
店頭にはあらゆる食料や装飾品や雑貨があふれていました
私は不思議な気持ちで、着飾って大声で談笑しながら歩いている人々を見ました
大変な戦争体験をされた方達に深く身近に接した後でしたので、現実感が薄れていたのかもしれません
今が現実ならば
60年前の二人の出会いも紛れもない現実の世界であったはずです
長い歳月が過ぎ、口にすることの出来なかった苦しい体験を戦後生まれの息子さんに伝えたいと、山下さんは命がけで本を出されました
「戦争こそ、残酷で、無駄の最たるもの。平和のためであっても、戦争をしてはだめなんだ」と、山下さんは語っています。  山下さん 昭和24年9月23日帰国

成沢さんの手記の続きを紹介しましょう
昭和27年11月タイセットの収容所よりソフロディニク村にある集団農場に一人だけ移された。輸送機関は飛行機であって農場へ着いてみれば、農場主だけが民間人。作業員、事務員、作業班長みんな私と同じ囚人で、413名ほどいました。
宿舎も与えられ、ユダヤ人、白系ロシア人、レトアニヤ人と私の4人暮らしで毎日農業に服していた。
その頃ではロシア語も大変話せるようになり、作業友達もでき、元気であった。昭和29年10月2日の朝、作業班長の呼び出しがあり、事務所に行った。
2人の民間兵が待っていて、身の回りを片付け出かけるようにといわれた
「またどこに送られるのだろう」と、不安のなかで車にのった。夕方になってある飛行場へ着陸し待合室にて夜をあかす。まだ薄暗き飛行場を離陸し10月3日午後4時ころ、イルクツケ町の飛行場へ着陸した。すぐ自動車で第21分所収容所へ。ここは満州関東軍捕虜が収容されていたところと聞いた。
中に入って驚いた
全部の人が日本人ばかり
16年ぶりで大勢の日本人に会うことができて大変嬉しかった。早速皆一堂に集まり名乗ったり名乗られたり話は尽きぬ。話を聞いてみるに、内地送還のためソ領各地区より一収容所に集められた人ばかりで、仲間入りした私も初めて内地送還の為に送られてきたのだと、察したが喜ぶのはまだ早い
不安の毎日をみんなと一緒に、同町にあるレンガ焼工場の作業に服していた
昭和30年3月12日 帰国者名簿が読み上げられた
読み上げられたもの 87名
残されたもの 123名(昭和31年12月全員帰国)
私は残留の仲間と別れ車中の人となり、3月13日 ナホトカ到着
3月16日 興安丸にて出航
お互い苦しみ生き抜いた人達ばかりで、デッキに立ってシベリヤの山やナホトカ港の灯りを見るものは一人もいなかった
3月18日未明 舞鶴港に到着
こうして私の抑留生活17年の悪夢が終わったのです(完)

成沢さんと私の出会いは15年以上前になります
復員した彼は、同年郷里でご結婚なされ娘さんが翌年お生まれになりました
ところがそのお子さんがジフテリアの予防注射の副作用で、重度の障害児になられてしまわれました
昭和31年のことです
それから33年間、御夫婦で献身的に娘さんの在宅介護をされていたのですが、奥様を病気で亡くされ、ひとりではもはや介護は無理と、平成元年に娘さんを療護園にお願いされました
それからは毎週、半日かけてバスを乗り継いで面会に出向き、帰りは飯田の駅近くに1泊して山峡の村へ帰っていく生活になりました(日本の秘境・遠山郷です)
その頃、私も同じ療護園に月に1回、入所している友に面会に行っていました
その友は、生まれつきの難病でお母さんと二人暮らしでしたが、お母さんが病弱と高齢にて介護困難となり、お互いに身を切られる思いで別れ別れの生活をすることになったのです。ある年の暮れ近い頃、面会を終えて帰ろうとしたとき、玄関で私達は偶然一緒になり話しをしました
寒い夕暮れでした
「ねえちゃん! めでたくてもそうでなくても、だれにでも正月がくるんだない」
「そうですね、だれにでも新しい未来が待っているんですよね」
成沢さんは娘さんを案じながら、私は寂しそうな友の顔を想い出しながら、おたがいに靴を履きました
飯田の駅までバスで帰るが、しばらく待たないと来ないというので私の車にお誘いして乗ってもらったのがおつきあいの始まりでした
それからは、文通やお電話でいろいろな話をしました
我が家にも遊びに来てくれたこともありました
明るく楽しい方で、母や妹とも手紙のやりとりをしていました
そのうち私の友が病院に移ったので、療護園ではお逢いすることがなくなり、
次第に手紙が遠のき、お電話してもお留守になってしまいました
その頃に脳梗塞になられ、入退院を繰り返して施設へ入所なさったようでした
記銘力低下の後遺症が重く、手紙や電話はもう困難な状態だったのです

今年の夏、母と妹と遠山郷の施設に成沢さんを尋ねました
私達のことはもう記憶にないようでしたが、娘さんのことやシベリヤの話になると
さっと顔が輝き、「おうおうそうだそうだ」、と相槌を打たれるのでした
お元気で、自然がいっぱいの故郷で静かに余生を過ごしておられました
お疲れ様でしたね、のんびりゆったりすごしてくださいね、成沢さん。
寮母さん達の「またおいでなん!」(おいでください)の暖かい言葉に胸を熱くして施設を後にしました


12月22日夜6時西明石駅近くにて
私は宿のそばの食堂に入って
明石焼きとたこ飯セット(700円)を注文しました
ああ、そうだわ
燗酒1合を追加してもらいました
父もお酒が好きでした
今夜は姿の見えない父と、二人でお酒を酌み交わそうと思いました
少し酔ったら目のまえの徳利がぼやけてきてしまいました
泣きそうだったのでしょう
安いお店でした
1120円支払って、宿に戻りなにもすることがないので寝ることにしました
明日は加古川マラソンを始めて走ります
まだ雨は降り続いていましたが、暖かな夜でした

いよいよ明日はレース報告をいたしますね









ナースの旅日記(2)

2007-12-25 21:20:36 | Weblog
昨夜の続きをお話ししましょう
ナースのおとぎ話と聞き流してくださいましね
いつの頃から話を始めましょうか
時代は昭和13年にさかのぼります


張鼓峰事件がそもそもの事の発端でした
この事件について、すこし説明をフリー百科事典より引用紹介いたしますね
1938年(昭和13年)、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。ソ連側は、これをハサン湖事件と呼んだ
張鼓峰は満州領が朝鮮とソ連領との間に食い込んだ部分にある標高150メートルの丘であり、西方には豆満江が南流している。当時ソ連は国境線は張鼓峰頂上を通過していると考え、日本側は張鼓峰頂上一帯は満州領であるとの見解だった。いずれにしても、この方面の防衛を担当していた朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。
1938年7月、張鼓峰頂上にソ連兵が現れ、兵力が次第に増強去れたため、朝鮮軍第19師団がこれを追い払ったところ、8月6日になってソ連軍大部隊が張鼓峰頂上付近に総攻撃をかけてきた。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻撃を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開された。ソ連軍がこの時期に大攻撃にでた背景はいろいろに取りざたされているが、はっきりしたことはわからない。

8月11日になってモスクワで停戦が合意され、第19師団が両高地を死守していた現状維持が決まった。この激しい紛争で日本側が戦死526名、負傷者914名の損害を出し、ソ連側も冷戦終結後になって公開された資料によれば戦死792名、負傷者2752名を出している。
なお、この戦闘に加わった歩兵第75連隊の連隊長は佐藤幸徳大佐であった

という事件です
この事件に戦闘参加して大きく人生を翻弄された長野県出身の日本兵の手記を紹介します(私が個人的に15年前にいただいた成沢さんという方の手記です)

「抑留生活17年  木沢支部 成沢二男」

昭和13年7月29日ソ連軍不法越境による長鼓峰事件に参加のため佐藤部隊駐屯地を出発する。31日未明わが軍張鼓峰を占領。
8月6日 午後10時頃ソ連軍が張鼓峰奪回のため夜襲攻撃に出てきた
ただちに我が隊87名、張鼓峰西側付近に集結して退去せんとするソ連軍の退路を遮断すべき任務にあたる。
8月7日 午前1時 敵前50メートルの地点に到達せしも、我が夜襲隊と察知せる敵はただちに重軽機関手留銃弾の猛烈なる火力を集中し、わが方も軽機関銃手留弾をもってこれに応戦して激烈なる肉迫戦のなか、私の前に敵手榴弾が飛来落下し炸裂した
右目焼失、頭蓋骨骨折のため顔面が腫れてしまい左目も見えなくなった
両目は全く見えねど奮戦中の隊長や戦友の声が聞こえたので、両手で左のまぶたを開けてみれば、両軍の戦死者が倒れているのを確認した。
俺は目が見えない、友軍しっかりがんばれ、と大声あげ所持せる手榴弾を右手に、左手で左目を開け敵陣地めがけ投じて交戦するも出血おびただしく、しだいに意識が遠のき現場に伏した 夕方4時頃だったと記憶する
ソ連兵に捕らわれの身となり応急手当を受け、意識回復したときは既に両足は幾重にも縛られていた。包帯が巻かれていた両手指で左目を開けあたりを見たら、6名のソ連兵が私の傍にいた。
なにやら話かけたが全然わからなかった。
8月9日 8時 黒い大袋に入れられ頭上で結わえてられ軍用貨物自動車に乗った
受傷3日たち、ようやく左目が見えるようになっていた
8月10日 ハバロフスク到着
その後、昭和16年1月7日まで独房生活をした。
モスコー軍事裁判で日本軍事スパイとして懲役16年を言い渡され、クラスノヤルスク町郊外の囚人集団収容所へ移った
昭和22年 6月12日だったと思う
700人ほどの囚人と一緒にタイセットの収容所に移され、強制労働に服した
そのときまで私は、日本が戦争に負けたことなど全く知るよしもなかったのである

次は山下さんが今年出された画文集「シベリア抑留1450日」の本の話です
今年の夏、信濃毎日新聞の文化欄に、「本当のシベリア伝えたい」のタイトルで
1冊の本が紹介されました
約400枚の「抑留画」と、ノート230ページに及ぶ手記をまとめられた本でした
私の父もシベリヤ抑留者でした。
帰国も山下さんと同じ24年ですし、年も同年代でしたが8年前に亡くなりました
生前、父はシベリアについて全く語りませんでした
時々うなされて大きな声を出していることもありました
子ども心に、父に戦争話を聞くことははばかられました
きっと、言葉にならない辛い体験があったのだと思います
父から聞けなかったシベリア抑留について私はもっと知りたいと思い、本を買いました
猛暑の寝苦しい今年の夏、布団にごろごろしながら、この本を毎晩読みました
そして、中頃まで読み進んだ時です
心臓が止まるかと思うような事実を知ったのです

「シベリア抑留1450日」山下静夫
p253 大戦知らぬ日本兵に会う
張鼓峰事件で服役していた日本兵

昭和22年5月 天気の良い日だった。肌寒いが開放された気分でラーゲリ用の小麦粉受領に出かけた。製粉工場では多数の引き取り殺到で、相棒と話しながら待っていたら、見知らぬ男が声をかけてきた。
たどたどしいその日本語に最初朝鮮人かと思った。助詞が片端から抜けていたからで、いぶかしげに男の顔をみつめた。それは実に意外な話だった。
「あんた日本人?」
「そうだよ!」
「なぜ日本人、こんなとこ、いるか?」
「・・・・?」
「私、日本人、張鼓峰事件、しっとるか?」
「もちろん知ってるよ」
「私、そのときの捕虜・・・もう8年、なるね。あんた達、なんで?」
「戦争に負けたからきたんだよ」
「いつそんな戦争ありました?」
「なんだって君!、第2次世界大戦を知らんのか!?」
「わたし、しりません。それ、どんなことですか?」
彼は長野県下伊那郡○○村出身で、○○渓谷に橋が架かっていて、それを渡ると村の3等郵便局がありその近くに家がある
張鼓峰事件で捕虜になり、最近刑務所をでたばかり。あんたたちの中に紛れて一緒に帰国出来ないだろうか?、という事を話したが、我々の収容所に入れないことは確かなので、帰国申告をどしどしだすように話した。何ともやりきれない思いであった。
あれからすでに何十年たったが、私の記憶は今もはっきりしていて、彼が地面に木片でかいた見取り図も忘れていない。しかし河の名前と村の名前を忘れてしまったのが残念で、今どうしているだろうかと折にふれて思い出すのである(一部略)

私が偶然読んだ本が縁で、60年の歳月を越えて2人の方が線でつながったのです
お二人とも高齢で、お体が弱く再会は無理でしたが、成沢さんがその後無事に帰国できたことを山下さんにお知らせ出来ました
成沢さんの帰国は昭和30年3月18日 舞鶴港(興安丸にて)最も遅い帰国者でした
人と人とのめぐりあいが、今年の私の最大の喜びでありました
成沢さんには今夏お逢い出来ましたので、そのご様子の報告がてら山下さんを
明石にお尋ねしてきたという、長いお話でした
そして、会えましたよ!!
その後はまた明日!









ナースの旅日記(1)

2007-12-24 23:06:48 | Weblog

 キャロリング(ミッキー&ミニー) メリークリスマス!すべての皆様に平安な日々が訪れますように

「ナース加古川に行く」
12月22日12時 名鉄バスターミナル到着
名古屋駅は雨でした
新幹線の時間までデパ地下で食料調達する
都会はなんて人が多いのだろう
人々が河の流れのように、実に速やかに移動している
大きなリュックをしょった私だけが、流れに乗れず右往左往しながらようやく車中の人となる
さっそく食料を取り出し昼食をとる
味噌カツサンドはとっても美味しい
これは帰りにも買って帰ろうっと!
電車はすいていました
仕事のことも家のことも忘れてはいませんが
思い出さないようにしていました
こんなに遠くまで一人で来てしまったのですから

新幹線は速いですね
2時間たらずで西明石です
ここで在来線に乗り換えて(ホームを間違え2本電車を見送ってしまった)となりの
大久保という駅で降りました

これから私は初めてお会いする山下静夫さんという90才のご老人をお訪ねします
来訪は告げてありません
手元にある葉書1枚が頼りにです
駅を下りて、交通整理をしていたお兄さんに交番を尋ねましたら
そのおにいさんはお巡りさんでした。良かったです
葉書の住所を見せて道順を教えてもらいました
詳しい地図のコピーももらいました
3㎞ほどの距離でしたが、師走の雨の夕暮れは早いのでタクシーに乗りました
運転手さんに地図を見てもらうと、直ぐにわかってくれました
「このあたりは震災の被害はどうでしたか?」
「家の中がめちゃくちゃで、私ら家族は車の中で2晩すごしましたよ。別に暮らしている両親と連絡が取れず、ずいぶん心配しましたわ」
親切な運転手さんで、目的の家の近くに着くと
「すぐすむ用なら、ここで待ってるさかい行ってくるといいよ。駅までの道もわからんやろう」と、言ってくれましたので、待っていてもらうことにしました
山下さんのお家は、アパートや民家の込み入った奥にありました
表札がかかっていませんが、戸は開きましたので声をかけてみました
「こんにちは~!こんにちは~!どなたかおられますか?」
「あやしいものではありません、長野から来ました」
大声で何度も何度も呼びかけてみました

山下さんと私とのつながりは、とっても不思議な縁です
60年の歳月を経て(私が生まれて来る前のことです)1冊の本がとりもった人と人との運命的な出会いがあったのです
それは長い話になってしまうので、続きは明日にしましょう

 


無事完走

2007-12-23 22:13:35 | Weblog
右膝ひきずりながら、帰ってきましたよ
記録;4時間11分19秒
一般女子の部(50才以上)26位/66人
最後まで気持ちよく走れて、時間のことを除けば100点満点のレースでした
私らしい笑顔のゴールが出来ました
欲をいえば、サブ4
もっと欲を言えば、年末ジャンボ宝くじ当たってほしいな
来年につながる今年の走り納めレースでした
詳しくは明日レポートしますね
名古屋では味噌カツサンド明石ではタコ飯食べて2㎏増
よく食べよく運動した健康生活の2日間でありました

旅に出る

2007-12-21 22:00:34 | Weblog

たとえ1泊でも、旅にでるのは不思議な気持ちがします
最近は走友の皆様におんぶして、一緒に便乗させてもらうレースが多かったのですが、今回は久しぶりの一人旅です
時刻表を調べ、キップを買って、会場までのアクセスを何度も頭に入れました
初めての大会に一人で行くのは、とってもスリリングです 
西明石で泊まることにしました
恋してる 加古川まで電車で15分ほどなので、朝ゆっくり出かけられます
この駅のお隣に「大久保」という駅があり、実はそこにお住まいの方をおたずねするのが、今回の旅の大きな目的でもあるのです
明日は、私の小さくて大きな冒険がはじまります
名古屋の町も久しぶりです
クリスマス前の週末ですので、華やかでしょうね
しっかり前見て、横見て、うしろ見て歩かなくっちゃあね、ナース。 クリスマスツリー(プー&ピグレット)  行ってきます~~~ね!