やあよのブログ

コツコツと詩を書いています。楽しく読んでいただければうれしいです。

うそつき

2023-10-30 15:07:10 | ポエム
「不動産会社へ行かない?」
 礼子の勘が働いたのはそのときだった。
「うん。いいよ」
主人の雅彦も礼子がなにを言っているか、すぐにわかった。結婚して住み始めたアパートにもう2年半いる。住み替えだ。
「予算は4000万くらいかな」
横浜でちょっとした一戸建てを買うとなると、4500万はする。4000万じゃ、ないかな、と礼子は思った。
 ところが上手い話もあるものである。不動産会社の担当が、予算内の物件を紹介した。子どもを作る予定のない礼子たちにぴったりの、小さめの3LDKの一戸建てだった。機を見るに敏、礼子の勘はまさにその通りだった。
 手続きだの面倒なことが終わって数日後、礼子が言い出した。
「タイミングがあって、縁もあったね」 
「ねぇ、これからもう暗いけど、家を見に行かない?」
礼子は入居前に家を見たかった。
「そうだね。行こうか」
車を走らせて、礼子たちは新しく買う家に向かった。
「この角だったよね」
「あ」
礼子は角を曲がる前の家の生垣の向こうに、レースのカーテン越しに人影を見た。
「やだ。奥様だ」
「ん?」
初老の主婦だろうか。綺麗に着飾った奥様奥様した女性を認めた。
「あ、この角で合ってた」
雅彦が新しく入居する家の駐車場に車を止めた。
「新しい生活がはじまるね」
礼子たちは車から出て、道路から入居予定の家を見上げた。

 新居に越して、数か月経った。まだ近所に知り合いもいない。そんなときに町内会の会合の知らせがあった。仕事人間の雅彦は興味が全くない。
「わたし、行って来るわ」
礼子は、町内会にでも出向けば、少しは近所の人に認知してもらえるかもしれない、そう思った。

 町内会の会場へは礼子一人で出向いた。スリッパに履き替えて、どこへ座ろうか、礼子は少し困った。そのときだ。
「あなた、こっちへいらっしゃいよ。越してきた方でしょ?」
向こうのほうからよく通る声で礼子に手を振る初老の女性がいる。あの奥様だ、礼子は思った。
「はい」
それが礼子と今日子の近所付き合いのはじまりだった。

 ある日のことだ。朝の買い物へ行こうと礼子が家を出ると、角で今日子と出くわした。
「あら、お買い物?」
「はい」
「そういえば、あなた、中学はどこ卒業なの?」
「旭中学です」
礼子が答えると、今日子がすぐに言った。
「あら、わたしも同じ中学卒業よ」
「え」
礼子は、これは営業トークかしら、と思った。嘘に違いない。どうしよう。質の悪い人だわ。礼子は平静を装った。
「先輩なんですね」
「そうよ。先輩よ」
今日子が笑顔でそう言って、手を振って去って行った。礼子は仕方ない思いで買い物へと急いだ。そんな今日子の嘘が、そもそもの発端になったかもしれなかった。

 礼子の家から徒歩10分のところにスーパーはあった。礼子は毎日のようにスーパーへ通っていた。
 その日もだ。礼子がいつものように家を出ると、今日子が歩いてきた。
「あら、お買い物?」
「はい」
礼子は綺麗に着飾った今日子のイヤリングが目に入った。
「可愛いイヤリングですね」
「ありがとう。素敵でしょ」
「はい」
今日子に出くわすたびに、礼子は心からの賛辞を言う。なぜかいつもそうなる。
 また別の日だ。
「赤いコートが素敵ですね」
「あら、わたしはいつも素敵よ」
「そ、そうですね」
その日から礼子は今日子に「今日も素敵ですね」と言うようになった。いつまでお世辞を言う日々が続くんだろう、礼子は一人ため息をついた。

 そんなある日のことだ。
「今日も買い物?」
「はい」
「秋は紅葉が綺麗ね」
「はい。でも落ち葉がご近所に迷惑ですよね。掃かないと」
「あら、落ち葉は自然なことよ。わたし、いい人間になる勉強をしてるの。落ち葉に神経質になることもないわよ」
「そうですね」
今日子の家にも礼子の家と同じように木がある。そういえば今日子が落ち葉を掃く様子を見たことがない。
「じゃあね」
今日子が先を行った後、残された礼子が今日子の家の向かいの家の駐車場を振り返って見ると、今日子の家の落ち葉が風で向かいの家の駐車場の奥にかなり溜まってる。礼子は深いため息をついた。

 それからしばらくして、今日子の家の裏のほうに、いくつもの住宅が建った。
「あら、お買い物?」
「おはようございます。そうです」
「毎日偉いわね」
「はい、今日も素敵ですね」
そのとき、今日子の家の裏の新築住宅の家並みのほうから、知らない女性がすれ違った。
「おはようございます」
今日子がその女性に突然、挨拶した。その女性は無言で軽く頭を下げて去って行った。
「いい人間になる勉強をしてるって言ったわよね。新しく越してきた人に、こちらから挨拶してるのよ」
「はい」
「またね」
今日子が上機嫌で綺麗な服で去って行った。これが事件のはじまりだったのかもしれない。
 
 いつものように礼子がスーパーへ行こうと家を出た。歩き出したらちょうど今日子がやって来る。
「おはようございます」
今日子のほうから話しかけないので、礼子はこちらから挨拶した。
「?」
今日子の様子がおかしい。大声で挨拶したのに、礼子に気づかないまま歩いている。放心でもしているかのように口が空いている。
「おはようございます」
礼子はもう一度あいさつした。それでも気づかない。自分を失くしてでもいるような様子だ。礼子が驚いて立ちすくんでいるのにも気づかずに、今日子はまっすぐに歩いて行った。
 そんなことが3日続いた。挨拶しても、気づかずに今日子が自分を失くしているかのように歩き去って行く。どうしたのかしら。まさか、もしかして、最近越してきた若い主婦の人たちに無視されてると勘違いしたのかしら。今日子さん、自分を失くしてるみたいに見える…。礼子は首を横に振ってため息をついた。

 そんなある日曜のことだ。雅彦が散髪から帰ってきた。
「礼子、いま今日子さん?に呼び止められて… お宅の奥さんとだけ近所付き合いが上手く行ってないって言われたんだけど…」
「え?」
「そうなの?」
「そんなことない。一番仲がいいくらいだよ」
「とにかく謝りに行こう」
「う、うん。そうだね。弁解しないと」
「僕も行く?」
「大丈夫。一人で行って来る」
「わかった」
礼子はすぐに身支度を整えて、玄関を出て、今日子の家に出向いた。礼子は呼吸を整えて、今日子の家のインターホンの前に立った。

 「はーい」
今日子の明るい声が家の中から聞こえて、玄関のドアが開いた。
「いま、主人から聞いて…」
「あなた、わたしのこと、避けてるでしょ」
「え? そんな… 越してきて最初に認知してくれた今日子さんのことを避けてなんていません…」
礼子は必死に真面目に訴えた。
「嘘よ。あなた、わたしのこと避けてるわよ」
「そんなことありません。わたし、はじめてお見かけしたときから素敵な奥様だなって、憧れてたくらいなんです。避けるなんてことありません」
「そう…」
「はい…」
「ホント?じゃあいいの。これからも仲よくしてね」
今日子が両手で礼子の両手を包んだ。柔らかで繊細な手だった。
「はい」
礼子は精一杯の笑顔で応えた。

「ごめんね」
礼子が家に帰ると雅彦が心配していた。
「実はね、今日子さん、近所中の人から避けられてでもいたみたいなの。わたしとしか上手く行ってなかったのかも」
「どういうこと? さっぱりわからないよ」
「だから、今日子さんの嘘なのよ。わたしとしか近所付き合いが上手く行ってないのがホントなのよ」
「なにそれ。さっぱりわからないよ」
雅彦が釈然としない様子で怒りだした。
「あの人、礼子と上手く行ってないって言ってたよ」
「もういいよ。雅彦はわかる必要ないよ」
礼子は返って雅彦の態度に切れてしまった。仕方ない、今日子さんは新しい住民に無視でもされたと勘違いしたんだろう、デリケートな人だわ…、礼子は一人またため息をついた。


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