【韓国】 「独島、対馬島、九州、島根県も私たちの地だ」~小説家ピョ・マヌン、特別寄稿
(前略)島根県の昔の名前が出雲だ。神話で飾られているが、その場所にあった出雲という国は大和政権を立てた今の天皇家に滅亡させられたことになっている。この出雲大社に祭られている神さまがまさにその滅亡したイズモ国の支配者だ。それでは出雲に国を建てた民族は誰だろう?
もちろんずいぶん前に定着した先住民もいたが、大部分は紀元1世紀以後に韓半島の慶尚道地方から潮流を利用して命をかけて日本列島に渡った韓半島の人々だ。韓半島に三国が成立された後の話だ。
東海と対馬島海峡は夏季と冬季に風と潮流が入れ替わる所だ。夏季には南西風と平行してフィリピン群島側から上って来る黒潮が対馬島海峡を通って東海に北上し、冬季になれば強烈な北風といっしょに南下する北太平洋寒流の一分岐が東海から対馬島海峡を抜ける。
以前、日本の北沿岸一帯には韓国語が書かれた浮遊物が漂着するという日本環境学者が書いた報告書を読んだ記憶がある。韓国で捨てたごみが日本の白い砂浜に上陸しているのだ。それもそのはずなのが、北太平洋寒流に乗って江原道と慶尚北道北端から船を浮かべれば、主に新渇県と山形県に到着し、慶州浦項地域と慶尚南道海岸から出発すれば島根県へ流れ着く。
慶尚南道海岸から船を浮かべて黒潮と南西風を利用すれば日本の九州地方に到着するようになっている。だから出雲に国を建てた人々は、主に慶尚道から船を浮かべた人々だと言える。日本の歴史書である古事記や日本書紀を書いた人々がこの事実を神話として偽装したが、それでも日本にも良心ある歴史学者たちがおり、その神話の真実が一つずつ明かされているようだ。
その成果が慶尚北道と島根県の姉妹提携に現われている。扶余市と九州の熊本市が姉妹提携を結んだことも同じな脈絡だと言えるだろう。このごろは任那は日本が統治した領土と負け惜しみを言う日本の歴史学者も見られなくなったが、洛東江河口を中心にして任那という地名があったのは事実だ。もちろん伽耶王国の時の話だ。
紀元1世紀から何百年の間、九州は伽耶人によって統治されて来た土地だった。4世紀に入って伽耶が滅亡すると百済が勢力を確張して奈良に都し、百済系の大和政権が立ちあがり、任那の日本支配説は8世紀に百済系だった人士によって編纂された日本の歴史書である古事記に任那の日本支配説が現われるものの、これはまさに伽耶の九州統治説を陰から裏付けているのだ。
伽耶連合王国は洛東江のまわりに点在していた。その中で金海を拠点にキム・スロ王の支配した金官伽耶が一番力の強い王国だった。そして鉄衣の産地だった。彼らは早くから鉄器を使っていたし、騎馬民族である彼らが九州を征服するようになったことは当たり前の帰結だと言えるだろう。
もちろん伽耶の征服以前に定着していた原住民がいたのは事実だ。しかし、アメリカやカナダのインディアン原住民がアメリカやカナダに自分たちの地だと主張できないように、伽耶と百済が征服した日本の地は実は韓国の地であるということだ。
対馬島もそうだ。対馬島は古代から洛東江地域と九州の間にある飛び石みたいな存在だった。最短距離でもあったこの航路はたとえ200kmしかにならなくとも、その頃は一気に行くことができる距離ではなかった。潮流と風に合わせなければならなかった。日本に渡ろうとすると北東風と寒流が南下する秋期まで待たなければならなかったし、反対に日本から来る航路は黒潮と偏西風が吹く春期と夏季を利用しなければならなかった。
その中間地点である対馬島は、古代から韓半島人の拠点になるしかなかった。両方を往き来した人は日本の原住民ではなく、伽耶や百済人だったから対馬島は伽耶や百済に属していた地だったし、現在居住している島民たちはその子孫だと言っても過言ではないだろう。
実は対馬島は、豊臣秀吉が朝鮮侵略の野望を抱くまでは、関心の外に置かれた島に過ぎなかった。彼らは朝鮮王朝が送ってくれる糧食に寄り掛かっていたと言うし、領主は朝鮮王朝の官職まで得ていた境遇だった。だから、対馬島はわれらの領土だと主張することができる根拠が充分にあるのだ。
はがゆいのは韓国政府だ。韓国政府も気付くだけではなく、李承晩ラインのような力強い対応策を行使して、歴史的な事実を突き付け、九州も島根県も私たちの土地と言って対馬島も私たちの地だと主張してはいけないのか?
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1217049077/
このブログは、常々
竹島は島根県の領土だと主張してきたが…
姦国人は、島根県ごと盗もうとしてるのか