新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎こども時代9「狭い家からの暮らし始め(その2)」

●狭い家からの暮らし始め(その2)

 私が生まれて、両親と祖母、兄と5人家族になると、いよいよ家は手狭になったようだ。食事や団らんの間である6畳和室は両親の寝間にもなり、祖母と私ら幼い兄弟は隣の三畳間に3人で寝ることに。三畳間はいわゆる”衣文かけ”や衣類タンスなどもあり、兄は6歳も上だったので、私が幼稚園の頃にはもう三畳間での3人就寝は限界に来ていた。
 両親なりに子供たちの知らないところで綿密な話し合いがあったのであろう。私が幼稚園から帰ってくると、家の庭がある表面と反対側の裏の方に年輩の作業者が出入りしている。満を持していよいよ増築するというのだ。裏にあった小さな畑用の土地をつぶして、六畳間の二階建てに加えてなんと自宅風呂を造るという。二階の六畳間は兄弟二人用の洋間に、一階のそれは両親の寝間用の和室にするという。5人で住むにあたり3DKが5DKとなるとはいえ六畳から三畳という各々の部屋の狭さを考えると大したことではないのだが、増築が完了すると、それまでの三畳間に押し込められる閉塞感から解放されたことに皆が喜んでいた雰囲気を覚えている。
 増築工事中の頃、幼稚園で上がりが早かった私は、帰宅するとまだ大工さんたちが作業していたので、興味津々で近づいて行ってはあれこれと尋ねたりしたものだ。その時の大工さんは忙しかっただろうに、でもどこか工程に余裕があったのか、あまり邪魔にしないで私の相手をしてくれて楽しかった。
 我が家で初めてとなる二階のしかも子供部屋の上に並べる瓦が、レール式のコンベヤに積まれて、タタタタという軽快なエンジン音と共に上に運ばれていく姿が何よりも面白かった。そして、これも我が家初めてとなる風呂場のタイル張りやガス風呂釜の操作器具の設置作業などは、造作そのものの物珍しさに魅せられてずっと近くで眺めていたものだ。意味は分からずともなんとなく施設の構造を知れたような気になって嬉しかったように覚えている。
 狭い家からスタートして、自分の成長に合わせるかのように少しずつ大きくなっていくという順序は、当時の社会経済情勢が右肩に上がっていく雰囲気と相まって、子供心にも将来の明るい先行きを感じさせたものだった。遊びながら駆け回っていると、視界に入ってくる近所の家の庭を飾るバラの植え込みなどの華やかさが増していくことが、気持ちを高揚させてくれた時勢であったことを思い出す。
 あれから半世紀近く。地元に帰省したある日に思い立って、幼い頃に住んでいた辺りをぶらりと散策としてみた。事前に母から聞いていたとおり、昔近所に住んでいた幼なじみ達は誰一人そのまま住み続けている者がおらず、その親たちも彼らに引き取られて都市部に転居したのか、普通自動車が入れないような小道沿いの家々は人の気配が感じられないような閑散ぶりだった。
 昭和40年代に確かに存在していたあの豊穣の空間は、次の世代に引き継がれていくことなく、私の遠い記憶の中で儚く消えそうな揺れる残り火のようにあるばかりだ。
〓幼稚園まで終わり〓

(「柏崎こども時代9「狭い家からの暮らし始め(その2)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代10「怖い着ぐるみ番組」」に続きます。)
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