京大卒・日本一有名なニート、phaさんの『持たない幸福論』を読んだ。
柔らかい人柄からにじみ出る、わかりやすく肩の力の抜けた文章。
押しつけがましさがなく、あくまでも自分はこう思うんだ、という一意見としての考えを吐露するスタンスに、phaさんの他者に対する思いやり、というか寛容さが伺える。
私がこの本を読んで最も「なるほど~」と食いついたのは、以下の箇所だ。
(P.74-75)
「1人暮らしが寂しいならシェアハウスじゃなくて結婚とか家族とかで共同生活をするというルートももちろんあるけど、僕は基本的に怠惰で貧乏なので、結婚とか家族とかはなんだかんだでお金かかるしあれはお金に余裕のある人向けの贅沢品だな、という感じがしている。
あと、結婚とか家族とかいう仕組みは、若干今の時代に合っていないというか、少し効力が切れてきているんじゃないかということも思う。
(中略)
恋愛感情や性欲を満たす相手も、同じ家で一緒に生活をする相手も、子どもや病人や老人の世話も、家が持っている資産や家業の運営管理も、自分の病気や死を看取る人も、全部一つのグループの中だけでやっていこうという理想を持った、盛りだくさんなシステムが「結婚」と「家族」だ。
だけど、こんなに多くの機能を「結婚」と「家族」という一つの仕組みだけで全部満たしていこうとするのは無理があるのだと思う。
その理想と現実のズレが社会のいろんな問題を生んでいるんじゃないだろうか。」
確かに、「一つのグループ」、つまり「家族」の中だけで、子育、介護、仕事に家事など何でもこなしていくのって、改めて大変なことだと思う。
phaさんの言うように、あまり血縁にこだわらずに、シェアハウスに住んだり、助け合える人たちとご近所に住んだりして、みんなで助け合ってやっていく方がラクになれるし、心強い。
誰の子供かなどもあまり気にせずに、たとえば家でゴロゴロしているphaさんが一時子供の面倒を見るのもいいではないかと言っており、
「あ、そうだな、そういうのいいな」と思った。
以前、川上未映子さんが「社会で子育て、という言葉の意味がわからない」とウェブかなにかで書いていたが、先のようなことが「社会で子育て」の一つなんじゃないかと思う。
私もシェアハウスに住んでいた時のことを思い出すと、むしろ血縁じゃない方が、切ってもきれない関係であるがゆえの息苦しさもなく、他人同士ということで適度な遠慮があったりして、人間関係もうまくいくように思う。なによりも楽しかった。
思い出話をすれば、私が住んでいたシェアハウスに、栄養士をしている女子がいたのだが、私がちぎっただけのレタスを「サラダ」と称して食べようとしていたところ、「わ~!栄養がないですねぇ。私のかぼちゃ、あげますよ~」と言って、冷蔵庫から出して乗せてくれたことがあった。
黄緑一色の味気ないレタスに、マッシュ状にされた、黄色が鮮やかなかぼちゃが足されたことで、こんなにも豪華な感じがするものなのかと感動したものだ。彼女はそうやって、時々料理したものを分け与えてくれた。
かといって、「お返ししなきゃ!」と気を遣い過ぎることもなく、タイミングがあえばワインを一緒に飲んでみたり、ゆるい感じでやりとりしていた。
シェアハウスで出会った人たちは、友達でも家族でもなかったが、とても大切な存在となったことは間違いない。
将来また一緒に住みたいくらいだ。
phaさんが、生きるにおいて大事なことは「一人で孤立せずに社会や他人とのつながりを持ち続けること」と「自分がなにをしているときに一番充実や幸せを感じられるかとちゃんと把握すること」と指摘しているが、シェアハウスは前者においてかなり有効だと思っている。
柔らかい人柄からにじみ出る、わかりやすく肩の力の抜けた文章。
押しつけがましさがなく、あくまでも自分はこう思うんだ、という一意見としての考えを吐露するスタンスに、phaさんの他者に対する思いやり、というか寛容さが伺える。
私がこの本を読んで最も「なるほど~」と食いついたのは、以下の箇所だ。
(P.74-75)
「1人暮らしが寂しいならシェアハウスじゃなくて結婚とか家族とかで共同生活をするというルートももちろんあるけど、僕は基本的に怠惰で貧乏なので、結婚とか家族とかはなんだかんだでお金かかるしあれはお金に余裕のある人向けの贅沢品だな、という感じがしている。
あと、結婚とか家族とかいう仕組みは、若干今の時代に合っていないというか、少し効力が切れてきているんじゃないかということも思う。
(中略)
恋愛感情や性欲を満たす相手も、同じ家で一緒に生活をする相手も、子どもや病人や老人の世話も、家が持っている資産や家業の運営管理も、自分の病気や死を看取る人も、全部一つのグループの中だけでやっていこうという理想を持った、盛りだくさんなシステムが「結婚」と「家族」だ。
だけど、こんなに多くの機能を「結婚」と「家族」という一つの仕組みだけで全部満たしていこうとするのは無理があるのだと思う。
その理想と現実のズレが社会のいろんな問題を生んでいるんじゃないだろうか。」
確かに、「一つのグループ」、つまり「家族」の中だけで、子育、介護、仕事に家事など何でもこなしていくのって、改めて大変なことだと思う。
phaさんの言うように、あまり血縁にこだわらずに、シェアハウスに住んだり、助け合える人たちとご近所に住んだりして、みんなで助け合ってやっていく方がラクになれるし、心強い。
誰の子供かなどもあまり気にせずに、たとえば家でゴロゴロしているphaさんが一時子供の面倒を見るのもいいではないかと言っており、
「あ、そうだな、そういうのいいな」と思った。
以前、川上未映子さんが「社会で子育て、という言葉の意味がわからない」とウェブかなにかで書いていたが、先のようなことが「社会で子育て」の一つなんじゃないかと思う。
私もシェアハウスに住んでいた時のことを思い出すと、むしろ血縁じゃない方が、切ってもきれない関係であるがゆえの息苦しさもなく、他人同士ということで適度な遠慮があったりして、人間関係もうまくいくように思う。なによりも楽しかった。
思い出話をすれば、私が住んでいたシェアハウスに、栄養士をしている女子がいたのだが、私がちぎっただけのレタスを「サラダ」と称して食べようとしていたところ、「わ~!栄養がないですねぇ。私のかぼちゃ、あげますよ~」と言って、冷蔵庫から出して乗せてくれたことがあった。
黄緑一色の味気ないレタスに、マッシュ状にされた、黄色が鮮やかなかぼちゃが足されたことで、こんなにも豪華な感じがするものなのかと感動したものだ。彼女はそうやって、時々料理したものを分け与えてくれた。
かといって、「お返ししなきゃ!」と気を遣い過ぎることもなく、タイミングがあえばワインを一緒に飲んでみたり、ゆるい感じでやりとりしていた。
シェアハウスで出会った人たちは、友達でも家族でもなかったが、とても大切な存在となったことは間違いない。
将来また一緒に住みたいくらいだ。
phaさんが、生きるにおいて大事なことは「一人で孤立せずに社会や他人とのつながりを持ち続けること」と「自分がなにをしているときに一番充実や幸せを感じられるかとちゃんと把握すること」と指摘しているが、シェアハウスは前者においてかなり有効だと思っている。