『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

裏の日本〜 奇書 『日本のまつろわぬ民』 抜き書き (4)

2022-01-25 01:54:32 | 歴史・郷土史
__以下の引用は、水澤龍樹『日本のまつろわぬ民〜 漂泊する産鉄民の残痕』に拠っている。
今回が最終回です。まことに有り難うございます。
 
 
 

> …… 博打の現場を、鍛鉄で火花を散らす「鉄火場」と呼び、生意気な若僧には「焼きを入れ」、老いぼれると「焼きが回って」衰える。また、怠惰な者や意気地なしを「鈍(なまくら)者」と嘲るなど、博徒の「業界用語」には、鍛冶をルーツとしいるものが多いのである。

__ 映画で「股旅もの」ってなんでこんなに沢山あるんだろーと思っていたが、理由があったんですね。国定忠治の伝説もまた違った眼でみることが出来そーです。

 
> …… 関ヶ原の前後は、乱世に「遅れてきた青年」たちが徒党を組み、異風な身なりや突飛な言動で世を騒がせていた、ご存知かぶき者(傾き者、歌舞伎者)の時代であった。
在野の民俗史学者 田村栄太郎は、著書『考証忍者物語』のなかで、このかぶき者の首魁の一人であった大鳥一兵衛(いっぺえ、逸兵衛、逸平)を近世の「侠客の祖」と見なし、鉱山に関係が深い修験道と一兵衛とのつながりを指摘している。
> …… この大鳥一兵衛には、本稿で忍者の可能性を指摘したことがある幕府の代官頭、かの大久保長安に仕えていたという前歴があった。
> …… 博徒のルーツは神意を占う職人であり、巫女や神官、陰陽師のような神々の世界に通じている存在であった…… 
> 博打は世襲の家職ではない。非行に明け暮れた青少年が、連座による処罰を恐れる親族により勘当され、現在の戸籍に当たる人別帳(にんべつちょう、宗門人別改帳)から籍を抜かれて無宿になる。たとえ、どこぞの借家に定住していたとしても、公的には浮浪者の扱いになるのである。この正業に就けなくなった無宿者たちが、生活の糧を得る手段として、博打や賭場の経営を生業とした。
ただし、賭場や縄張りの経営、諸国に張り巡らされたネットワークや各種の儀礼など、江戸時代に始まる博徒の構造は、元祖の鬼たちが築いたものに違いない。
たとえば生国の紹介から始まる、仁義という初対面の挨拶は、同じく鬼の末裔とみえる山窩の自己紹介である「たまごと(魂言)」に通じているのである。
> …… 漂泊者たる反体制的な鍛冶・鉱山師、すなわち鬼の末裔が、近世の封建体制下でとった擬態の一つが博徒であった…… 
 
 
> …… 法皇(後白河院)が生涯のうちに急峻な熊野道を34回もたどり、熊野詣をしていた理由の一つとして、情報収集があげられる。熊野は修験の聖地であり、全国の「山伏=天狗」が集まる土地である。
一説に、義経の側近である武蔵坊弁慶が、源氏に合力した熊野水軍の総帥、熊野別当 湛増(たんぞう)の息子とされることも、法皇による斡旋をうかがわせる。
さらに、奥州産出の黄金を商う金売吉次(かねうりきちじ)という商人、すなわち鍛冶・鉱山の類縁が、若き日の義経を奥州へ伴い、藤原氏の棟梁である秀衡に紹介したという伝承にも、法皇の関与が感じられるのである。
 
 
__ 「遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん」とは、稀代の風流人であらせられる後白河院にして、はじめて自然に口に出る至言であるのかも知れません。
この、無垢な童心こそが、真におそろしく真に芸道を極めるよすがともなりましょー。
 後白河院の御代に、なにか目に見えぬ諸力が皇室にはいったよーに思います。
 
> 鎌倉末期に編纂された神仏混交の神道書『天照太神口決(あまてらすおおみかみこうけつ)』には、歴代の天皇が即位する際に「四海領掌の法」という、特別な「荼枳尼天法」が修されていたことが記されてある。同書によると、この呪法を受けない天皇は「王位が軽く、天下を掌握することができない」という。
また、先の『外法と愛法の中世』(田中貴子著)に抄録されている 室町時代成立の『即位灌頂印明由来事』によると、藤原摂関家の桎梏から脱し、院政期への扉を開いた後三条天皇の即位の際に、仁海の弟子である成尊により「荼枳尼天法」が修されたことが起源になっているという。
この由来の正否は知れないが、中世から近世まで、言い換えると、明治政府により神仏が分離されるまで、天皇の即位の礼に際して、この「荼枳尼天法」が修されていた可能性がある。
 
 
__ ダキニ天はインドの女夜叉で奪精鬼と聞くが、たしか空海が請来したんではなかったかな? インド本国ではあまり信仰されていないとかで、大黒天から調伏された過去がある天部の神格である。
眷属のジャッカル(中国では野干)が、わが邦の狐に似ているから、稲荷大神に習合されて、いっぱんに「派手なお稲荷さん」になった。
 
外宮系統のウカノミタマ命(稲荷大神)は、伏見稲荷大社が著名だが、お狐さんが稲束を口にして日本中に運ぶ神道のイメージである。
 
いっぽう、豊川稲荷(芸能人が信仰する荼枳尼天、愛知県の曹洞宗系の寺)は、仏教系のキツイ尊格である。かたや神道かたや仏教で、本来全然違うはずだが、わたしも眷属の相違以外はよく分かっていない。
ただ、ウカノミタマ命とダキニ天では、参拝したときのご神気がまるで異なる。とゆーか、荼枳尼天と聖天様(インドの象頭ガネーシャ神)は参拝しよーとすると足が動かない。浅草の待乳山聖天宮は足がすくんで石段を登れなかった怖い思い出がある。
一般にお稲荷さんは祀るのを怠ると、祟る。七代の富を当代に集中させるとゆー神理のために、祀るのを止めるといわば「請求書」が発動するものらしい。
この、皇室に採用された「荼枳尼天法」は一際気になる。
 
さっこん今上陛下が、明治天皇以来120年ぶりに伯家神道の「祝ノ神事(はふりのしんじ)」を挙行なさったとのお噂がある。
大霊格者であらせられる明治大帝が、みずから発令なさって伯家神道の祝詞やら諸々の神事を禁止したと伊勢白山道で耳にした。
さもあらん、祝ノ神事は強力に作用して、たとえば皇室の結婚もなかなか叶いがたくなる程にガードが堅いらしい。
大晦日の夜に毎年挙行される、陛下が司祭なさる「四方拝」(長時間にわたり、終わったらおひとりで歩けない程疲弊なさる荒行だとか)には、道教の香りが強い。
帝国海軍の指針となった、明治天皇の御製「四方の海みな同胞(はらから)と思う世に など波風のたちさわぐらむ」には、荼枳尼天法の「四海領掌の法」の影が感じられる。
 
鳥海山大物忌神社の蕨岡口宮は明治以前は、阿倍一族の入り込んだ武装集団で、僧兵のよーな勢力をもって、鳥海山山頂を他地域の山伏と奪い合っていた歴史がある。
 
[※  現在、鳥海山山頂は山形県遊佐町となっているが、鳥海山麓に屯する幾つかの有力修験村同士の頂上獲得権争いは凄まじく、ある抗争では蕨岡側と秋田県矢島側双方で70人からの戦死者を出した有様で、その結果鳥海山の秋田県側は六合目付近まで荘内藩領(現在は山形県に編入されている)となっている、当時蕨岡修験者は荘内の酒井侯から感謝状を賜っている]
 
先達大先達と呼ばれた山岳行者たちによって、この修験道修行組織の長は「四天の司」(郷土史家・松本良一より)と尊称された。学徳兼備で武も抜きん出た傑物がその任にあたり、このだいそれた僭称には「荼枳尼天法」を修めていたのではないかと疑わせる節がある。さなきだに、天皇と呼ぶに等しい「四天の司」などと、学頭(龍頭寺)もあった武装僧兵組織(宿坊村)で呼びならわすものだろーか?
蕨岡口宮のある上寺地区の宿坊ご出身の郷土史家・松本良一は、地元中学校の校長もつとめた名士であるが、鳥海山修験の資料を生涯あつめていた。
しかし、あるとき突然の落雷により総ての鳥海山信仰の資料を焼失してしまった。この因果には、鳥海山の隠された闇の匂いがただよう。荼枳尼天のご発動ならば、あるいはと思わせる畏怖の念を伴う。
伊勢白山道の審神では、大物忌神は三輪明神と思えばよいとのことだった。古代日本で「物」とは、ご神霊や鬼を指す。
 
 
> 中国最古の地理書であり、戦国時代から秦、漢代にかけて徐々に編纂された『山海経(ぜんがいきょう)』を読むと、鬼門とは東海の度朔山(どさくさん)の東北にある門で、この世とあの世の通行口であり、鬼、すなわち死霊が往来しているという。
だが、あの世に通じているからといって、中国人は鬼門の方角を忌み嫌ったりはしていない。
本場中国の風水において、鬼門は凶と見なされていないのである。
また、日本でも、奈良時代までは鬼門を忌む風習が存在していなかった
そのため、平城京には鬼門封じの仕掛けがなされていない。
> …… 鬼門の禁忌は、奈良時代から平安時代にかけて、日本で生まれたものなのである。
では、なぜ、そのような禁忌ができたのかというと…… 。日本地図へ目を向ければ、おのずと答えが見えてくる。
平城京や平安京に拠る大和王権にとって、鬼門の方角とは陸奥国(むつくに、福島県、宮城県、岩手県、青森県、青森県、秋田県北東部)、すなわち東北地方のことであり、鬼門の先には、反抗的な原住民の蝦夷(えみし)が割拠していたのである。
 
 
__ 奥州(陸奥国)と羽州(出羽国、羽前羽後)・越州(越-こしの国、新潟県)は違う。つまり、現在の山形県から秋田県にかける鳥海山を挟んだ地域は「陸奥(みちのく)」ではないのである。
蝦夷の奥州とは違い、大和朝廷に割と知られていた土地だった。鳥海山が噴火するたびに官位を上げたりしている。
 
> 天平勝宝元年(749)に、陸奥国小田郡(宮城県と遠田郡涌谷町)から黄金が発見されたとの報告が平城京へ届き、大仏造立に奔走していた聖武天皇を狂喜させた。
> この奈良から平安時代にかけて続いた戦乱の原因が、黄金の採掘権を巡る、蝦夷と朝廷の争いであった可能性も否定できないのではなかろうか。
 
 
__ 平泉の黄金は、陸路で山形県まで運ばれて、最上川水運で北前船の拠点である酒田湊〜京都へと輸送されている。
奥州藤原氏三代目秀衡公の姉妹とか妻とか聞く「徳の前」が、家来の三十六人衆とともに、日本海の夕陽光に合わせて浄土街地・酒田を造りあげた。奥州藤原氏は婚姻により、安倍(本来は阿倍)一族の血を引いている。
 
> …… 日本刀の原型となった古代の蕨手刀(わらびてとう)が、主に東北地方から発見されている…… 
> 柄や鍔が、反りのある刀身と一体になっている共鉄造(ともがねづくり)の蕨手刀は、その改良型である後世の太刀と同じく、騎馬による斬撃を想定して作られた武器であり、朝廷側の剣とは形も使い方も全く異なっていたのである。
この蕨手刀をかかげた蝦夷の騎馬軍団が、歩兵を主体とする朝廷軍の前に立ちふさがっている情景を想像していただきたい。圧倒的に数で勝る朝廷軍が、30年間も苦戦していた理由が理解できるのである。
蕨手刀は、東北地方に多い鉄山での鉄鉱石の採掘や、砂鉄と餅鉄(もちてつ、川底の磁鉄鉱)の採取、蹈鞴製鉄や鍛造に関する技術と知識の結晶である。
 
 
__ 鳥海山麓の海沿いにある三崎公園(山形県遊佐町)から、国宝級の遮光器土偶やら大陸のシベリアン・ナイフが発掘されている。
日本海沿いはリマン海流の影響で、大陸から流れ着く船も少なからずあっただろーと思われる。
そんな経緯もあって産まれた蕨手刀から日本刀の太刀にいたる過渡期に、天国作「小烏丸(こがらすまる)」が作刀された。わたしは先祖の霊線によるものか、この両刃の刀に異様に惹かれる。なんとご先祖の平家重代の刀であると云ふ。
【伝説の刀匠・天国の作、古刀「小烏丸」】
 
 
> …… 金神は金気の精霊であり、鬼と同じく朝廷に逆らう鍛冶・鉱山師の象徴に相違ない。
> …… 艮(うしとら)の金神が最凶の存在…… 
> なお、この金神についての概念は、儒学を研究する明経道(みょうぎょうどう)を家業としていた清原氏の系統である、実務官人の清原定俊が平安後期に提唱した「金神七殺方禁忌」という方忌(かたいみ)が起源になっている。
 
 
__ 皇道大本・出口王仁三郎がよく言及される「艮の金神」、東北(ウシトラの方角)に隠された埋没神であると云ふ。
いわゆる東北地方の匂いとゆーものは、この神さまに由来するのではないかと最近頻りに思う。
東日本〜東北の大震災は、艮の金神の目覚めなのかも知れないと…… 
 
 
> …… 平泉(岩手県西磐井郡平泉町)を中心として開花した、奥州藤原氏三代の黄金文化は決して西国の模倣ではない。繁栄を導く知識と技術が、長い年月をかけて陸奥の地に蓄積されていた結果なのである。
 
 
__ 東北人の身贔屓で言うわけじゃないが、波瀾万丈で悲運な半生をおくった初代・清衡公の初発のこころざしは立派だと感じ入る。
東北の原野で、大和朝廷との無為な戦いで死んでいった無名の戦士を弔わんとする慈悲心のふかさが、浄土都市平泉の造成に向かう。
街全体が墳墓であり、鎮魂のための建造物で構成されている。
この世に、一時的とはいえ、「浄土」を現出させた心意気は物凄かった。
四代目の泰衡公は、なんや初代の遺志を汲み取り、あえて戰さを広げないよーにと敗けを選んだよーに思えてならない。
中尊寺は、天台宗ナンバー2の名刹である。奥州藤原氏四代の観音力がこの地に天台宗を根付かせる礎となっているよーに感じる。
誰も顧みなかった、野晒しにされた戦士の遺体に思いを寄せて、弔いの大伽藍を建立する、これが黄金の正しい使い方かも知れない。
 
 
> 平安後期の『傀儡子記』を読む限り、傀儡子は騎馬に長じた狩猟民の系統である。つまり、鉱脈のありかを占う巫女の側面を持ち、鍛冶・鉱山師と関わりがあった水上民の遊女とは別種の存在であった。
しかし、中世以降、傀儡子と遊女の間に微妙な混交が生じ、傀儡子が水や金属と関わりを持つのである。
たとえば、鍛冶神と海神の両側面を併せ持つ宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の放生会(ほうじょうえ)では、船上で人形が舞う傀儡子舞(細男舞−かしおのまい・神相撲)が奉納されていた。
この混交の原因は、傀儡子と遊女が、漂泊民の守護神であり、男女和合の神、もしくは道祖神としての性格も併せ持つ百太夫(ひゃくだゆう)をともに信仰したことにあったと思われる。現に宇佐八幡宮の末社として、百体(百太夫)神社が存在しているのである。
 
 
__ 道祖神=塞の神は、交通にかかわるが、性器を象ったご神体が多い。つまり男女の仲も、自然界の交通(コミニュケーション)であるからであろー。
タタラ製鉄でも、火床と書いて「ホド」と読み「ほと=女陰」の意味合いを付与されている。ひとの妊娠出産の神秘が、鉄つくりと相似していることを見抜いたのだと思う。金の精が道鏡の生殖力に結びつくわけである。
 
> そもそも、人形浄瑠璃の起源は、全国の蛭子(恵比寿–えびす)神社の本社である西宮神社(兵庫県西宮市)に仕えていた傀儡子たちが、主祭神の蛭子と末社の百太夫が習合した神の依代である人形の「でこの坊」を操り、諸国を巡って門付(かどづけ)芸を行っていたことにある。
この門付芸に三味線の伴奏が加わって人形浄瑠璃の原型が成立、瀬戸内海を渡り淡路島で興隆し、さらに阿波(徳島県)へと波及して、人形浄瑠璃の本拠地を形成していくのである。
> …… 人形浄瑠璃のルーツとなった蛭子も、それが興隆した淡路島も、古代の大和王権にとっては好ましくない存在であった。すなわち「鬼=反体制的な鍛冶・鉱山師」とリンクしていると考えられるのである。
事実、淡路島の南あわじ市には古代の蹈鞴製鉄の跡があり、鞴の口や鉄の溶解屑である鉄宰が出土しているという。
 
 
__ 現在の形で、人形浄瑠璃が遺っているのは、作家・夢野久作の父上である杉山茂丸(右翼の大物、頭山満の盟友)の、度が過ぎた道楽の御蔭をこうむっている。
 
 
🔴「金太郎」の伝説
> 『黄金と百足』(若尾五雄著)によると、鋳物で知られた吉備の阿曾(岡山総社市)、それを販売していた旧足守村(岡山市)、足尾銅山(栃木県日光市)、別子銅山(愛媛県新居浜市)の別名である足谷など、「アシ」がつく土地は金属や鉱山に関係しているという。
また、『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)には葦・芦(アシ)の根に水酸化鉄が沈殿し、鉄バクテリアの自己増殖によって褐鉄鉱の団塊となり、蹈鞴製鉄の原料になったことが紹介されている。
つまり、足柄(足柄山の金太郎)とは、製鉄や金属に関係した土地であったことが、より明確に見えてくるのである。 
> 安永7年(1778)刊行の川柳句集『誹風柳多留』に残された「金太郎悪く育つと鬼になり」は、含蓄のある句なのである。
> …… 柳田國男は著書『妖怪談義』のなかで、「山姥がいる地方には必ず山爺(やまちち)がいる」と指摘している。この山爺とは一つ目、一本足の妖怪であり、その起源は一つ目小僧や一本蹈鞴と同じく、『日本書紀』に記された鍛冶神、天目一箇神に通じている。つまり、山爺は零落した鍛冶神であり、「鬼=アウトサイダーたる鍛冶・鉱山師」に相違ないのである。
> …… この相方の山姥は、山内の蹈鞴場への出入りが許されていた唯一の女性、つまり職長の村下(むらげ)や補佐役の炭坂(すみさか)、配下の番子(ばんこ)たちが製鉄の作業している最中に、炊事を担当していた宇成(うなり)の象徴といえるのではなかろうか。
 
 
__ 金太郎の母が、山姥(やまんば)だったと言い伝えにある。マサカリも鍛冶屋らしい装いである。
鬼退治の源頼光四天王の坂田公時→金時→金太郎と変遷する。鬼として異能をもっているから鬼退治が出来るのである。
 
 
🔴「桃太郎」の伝説
> …… 『陰陽五行と日本の民俗』(吉野裕子著)によると、古代中国において、桃太郎の母胎である桃は、木火土金水の五気のなかで最も堅固な金気の果実、すなわち金果と見なされていたという。
この陰陽五行思想が渡来した日本でも、桃は辟邪(へきじゃ)の金果であり、黄泉から逃走した伊邪那岐命が、桃の実。投げて黄泉の軍勢を退けたという話が『古事記』に残されてある。
また、平安中期の法典『延喜式』には、大晦日に宮中で行われた追儺(ついな)の儀式の際に、鬼を追い払う呪具として桃の木の弓や杖を用いたことが記されてある。
 
 
__ 桃の果汁は、いまでも特別な成分をもっていて、一際洗いおとしにくい。あのどろっした風味は格別な味わいである。
 
 
> 陰陽五行思想によると、桃太郎の供である猿(申)雉(酉)犬(戌)も十二支の内の金気に配当されている。同じ十二支の獣なら、虎(寅)や龍(辰)の方が頼りになりそうだが、このニ獣は木気であり、金属神の申し子である桃太郎にはふさわしくないのである。
> …… 猿は山の猿神であり…… 猿田彦や鍛冶・鉱山師の一党である小野猿女氏に通じている。
> …… 犬も山の犬神であり、探鉱と狩猟の神であって、蠱毒(こどく)や憑き物の系統に入る犬神とは異質である。
『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)には、「『犬』とは製鉄民の間では、砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人々の呼称である」との一文がある。
また、同書によると、鉄の在り処を求める行為を神事では「狩」と表現したという。
> …… 雉も山の雉神であり、石川県と岐阜県にまたがる修験道の聖地、白山への登山道である白山禅定道の小原峠(福井県勝山市)には、白山の開祖とされる奈良時代初期の僧、泰澄大師を雉神が先導したという伝承が残されている。
> …… この猿、雉、犬が道案内の御先神であるからこそ、桃太郎は神に捧げる神饌(しんせん)として黍(きび)団子を与えるのである。
> …… 『鑠神(しゃくじ)』(前島長盛著)によると、打出の小槌は、鉱山の利権を象徴しているという。
> …… 吉備中山(岡山市)の吉備津神社の縁起…… 温羅(うら)
> …… 古代の朝鮮半島の人々は鉄鉱石を炉で溶かし鋳鉄(ちゅうてつ)を得ていた…… 
> 『青銅の神の足跡』(谷川健一著)によると、蹈鞴吹きのような砂鉄から錬鉄や鋼を精錬する方法は中国大陸の江南から海路で日本に伝わったとのことである。
> 鍛冶・鉱山の知識と技術は、南方の植物である稲とともに、江南から海の道を通り、この島国へ渡来してきた。
黒潮を渡る海人は鍛冶・鉱山師であり、農民であり、また鬼であった。
鍛冶・鉱山の技術と農業は一つのものである。また、鬼と人も一つのものなのである。
 
 
__ 中国の江南から伝わった製鉄技術は、おそらくヒッタイト王国からシルクロードを通って徐々に伝播してきたものだろー。
鉄器のもつ文明的意味をもう一度考えてみる必要がありそーだ。
鉄がなければ出来なかったこと、製鉄とゆー極めて特殊な技術がいかにして生まれて、伝わっていったのか。
鉄工所につとめた経験から云えば、鉄を扱う人々は例外なく短気で怒りっぽい。これは鉄の帯びる磁気が関係するのか、なんらかの体内成分に作用している気がしてならない。
それゆえ、鉄の民は一種独特の雰囲気をまとい、農耕民とは違った風情の集落を営んでいたのではないかと思っている
        _________玉の海草