『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

🎼 歳とってから泣ける〜 「Hello Like Before」

2021-10-26 02:25:10 | 気に入ったこと

__この歳になって、YouTube には深く感謝している

若い頃、耳で覚えているばかりで、曲名が判らない楽曲を何度も YouTube で芋づる式に聴いて探しては見つけることが出来た

高校生の頃、片思いの美少女と出くわした書店のBGMで流れていた、ブレッド&バター(当時はル・ミストラル)の「青い地平線」(1978)…… 

この曲はあらかた35年近く探した、筒美京平の作曲で詩はなかにし礼と知って「むべなるかな」と唸ったものだ

なるほど、恋とは男と女ふたりっきりで斎行される「祭り」だったのかと…… 

また、ヘンリー・マンシーニの映画音楽で、題名が判らないでいたものは、『幾たびか美しく燃え』のサントラ盤だった

原題は『Once Is Not Enough』であった、これは40年間も探したことになる

 

わたしは、荒井由実からバリー・マニロウ「コパカバーナ」にいって、一気にEW&F(「黒いビートルズ」と云われたものだ)までいった

マイケル・ジャクソンやジョージ・ベンソンを産んだ、クインシー・ジョーンズのプロデュース…… 

そして、クインシーお抱えの天才作曲家ロッド・テンパートンの楽曲に痺れて、その美しすぎる展開のオーケストレーションに釘付けになったものだ

ジャズは、『仮面ライダー』や『ルパン三世』などはジャズだったから自然に馴染んで、ハーブ・アルパート「ライズ」で、クロスオーバー(=フュージョン)にドはまりした

ディスコ音楽にもカブレて、そのまま80年代に突入した、映画『サタディナイト・フィーバー』と『ロッキー』の印象を引きずったまま、キラキラとミラーボールが煌めいて蠱惑された

メロディーラインの美しい曲が目白押しだった憶えがある、80年代(前半)に露われた楽曲をすべて漏れなく聴きたいと当時心から思ったものだ

そのつつましやかでいて贅沢な夢は、現在、YouTube で実現する

音楽的には「不毛」に感じた90年代(TKのせいでもある)を経て、2000年代ますます酷くて、なにやら情緒に欠けて非道いのだった

いまにいたるも、メロディーラインの美しい曲はなかなか見つからない(オリジナルラブ・田島貴男「接吻」(1995)は、最近になって聴いていたく感動したんだけどね)

ミュージックビデオが出現した80年代は特別な音楽時間だったのかも知れん

 

仕事のストレスを発散させるためにも、永らく「No Music No Life」を地でいっていたものだった

居酒屋でも公園でも、ビールやコーヒー片手に、心を揺さぶる音楽をかけて、煙草を吹かす…… 

これが三位一体の快楽であった、ほんとうに仕合せだったと今にして思う

仕事も歳とともに慣れ、安定した心持ちで、音楽にも頼らなくなった

伊勢白山道とともに、タバコの紫煙ともおサラバして、認知症の母と共に、酒の量もガタ減りした

こーして、わたしの幸福のトライアングルは気づかぬうちに霧散していたのである

ようするに、気分を高める道具をつかうのを意図的に止めたのだ

そして、なにも特に面白いこともないままに、丁寧にその日一日を過ごすことを心掛けて、つつましく生きている

なにか、覚ったのではないかと勘違いするほど、落ち着いて、落ち込むこともほとんど無くなった(以前は、間欠的に半年に一週間とか酷く気が塞がる周期があったものだ、伊勢白山道の先祖供養のおかげなのか、迷いが吹っ切れて、やっとフツーの人間に戻った思いがした)

 

で、目の前のことに精一杯自分を忘れて打ち込み、職人の端くれとして励んでいた、いまはそれも辞めてしまったが…… 

神型567で、生活が一変して、鬱々と生き延びている今日この頃……  心を晴らす音楽とてなかなか見つからないのだが…… 

なぜか、ヒジョーな懐かしさに襲われる一曲がある

むかし、よく聴いていたし耳新しい楽曲ではないのだが……  いまあらためて音を追いかけて聴いてみると、じんわりと吾が心を柔らかく解(ほぐ)してくれる

若い頃から素朴ないい風貌で歳をかさね、老いてなお慈しみ深く、情味のあるご隠居さん風で、地道で地味、無骨で骨太な実力派シンガーであった……

[※  RIP, Bill 2020, 瞑目合掌]

 

 

Bill Withers. Hello Like Before.

Bill Withers. Hello Like Before.

youtube#video

 

グローバー・ワシントンJr.の大流行りした「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」や、クルセイダーズの「ソウル・シャドウズ」のヴォーカルを陰ながらつとめた

なにやら黒子のよーな印象であったが、自ら歌もつくる

その哀調を帯びた深い声音はさすがである、「ラブリー・デイ」(この曲はシャカタクがカバーしている)などにも作曲の才がうかがえる

彼、ビル・ウィザーズがこの楽曲のオリジナル・シンガーである

 

Jon Lucien - Hello Like Before

From Allmusic.com: "This cover of a 1975 Bill Withers classic also hap...

youtube#video

 

このYouTubeを観ると、画面に「cowritten by Bill Withers, 1976」とあって、ホンマかいな?と疑っちゃうのだが(確かに同じレーベルに所属してはいたが…… )、それはさておき、ジョン・ルシアンのアナリーゼ(楽曲の解釈)は独創的で洒落ていて脱帽せざるを得ない

こんなに寂しげな曲も、彼にかかるとハッピーソングに聞こえるから不思議な妙味がある

ビル・ウィザーズが佳いのは勿論で言うまでもなく素晴らしいのだが、ジョン・ルシアンも陰陽相拮抗して匹敵するほどに佳い

ビルの歌いはじわじわと涙腺がゆるんでくるが、ジョンの歌いはむしろ明るく入ってたんたんと歩んでゆき、ある瞬間堰を切ったかのよーに泪があふれてくる

なんでもないよーに、たんたんと生きている沈黙から来るのだろー

ひっそりと人知れずでも、着実にあゆんだ人生が感じられる、途中の間奏(ギター爪弾き)も泣かせる

どこか、祝福する雰囲気が伝わる曲調である

 

ーさいごに、Cathy Rocco とゆーおばさんなのだが、はじめて白人の歌う「ハロー・ライク・ビフォア」である

昔モテたであろー、この妙齢(間違えた、年増の艶したたる熟女)の姐さんが割とサバサバと人生を謳い綴る

この乾いた感じもわるくない、彼女の大母性にすっぽりと包み込まれる、やさしく温かく……(ちょうど映画『マトリックス』シリーズの初代オラクルがこんな感じだった、二作目撮影時には亡くなっていたので別人の二代目に引き継がれた)

マザー・テレサが、路上の不可触賎民が亡くなる直前に抱きしめて、情味ある好意のこもったコトバを此の世の最期に浴びせてくれるよーに、

おんなのお節介は、ある種の神の御業である

 

Cathy Rocco - Hello Like Before

Cathy Rocco performs live at the Rising Jazz Stars studio. Featuring K...

youtube#video

 

 

ー三人三様に、懐かしき姿をうたう、エデンの楽園を離れたことは悲しい思い出ではないのだ

「地上とは思ひ出ならずや」(稲垣足穂)

このあたたかな心持ちにひたる瞬間に、生きている実感がある、そー仕合せがそこにあったのだから、そしてあの限りなき温もりにいつか回帰してゆく

        _________玉の海草

 

 

 

 


 庄内人の愛する映画〜  『たそがれ清兵衛』

2021-10-16 23:32:52 | 藤澤周平

 

__日本全国が黄昏れている時、わたしたち庄内人がこよなく愛する映画『たそがれ清兵衛』を、実に久方ぶりに拝見した

海坂藩の物見櫓(ものみやぐら)から見える、冠雪をいただいた蒼い御山こそ、月山(出羽三山の主峰)である

牛が寝そべっている姿に見えることから「臥牛山」とも呼ばれるが、映画の山容はまさにこの臥牛に見える角度から撮られていたのは嬉しかった

月山って、山形県のほぼ中央にあって、県都山形市からも眺められる、いわば山形県を代表する御山なんです

月山は、ジョージ・オーウェルなんですよ『1984』、

あと十数メートル高ければ、2000メートル級の山になれるのになんとも謙虚な佇まいである

向かいの鳥海山(30km位の距離)と月山とで、2000m級の山に挟まれた平野が、藤沢周平の描く海坂藩のある庄内平野です

映画『たそがれ清兵衛』は、その城下町たる鶴岡市を実によく濃やかに描いているのです

清兵衛の下の娘のイト、あの娘の遣う庄内弁が真田広之の訥々とした庄内弁とともに絶品なんですな

「めじょけね、おら」(可哀そうに思うわ、私は)

完璧なイントネーションに、完璧な使用場面と表情、この一言で、イトが愛されて育てられたこと、慈しみ深い女の子であることが如実に知られるのです

【画像=映画『たそがれ清兵衛』より、下の娘のイトちゃん「めじょけね、おら」】

 

使用人のナオタの茫洋たる存在感も傑作だったし、今回初めて気がついて身につまされたのが、我が子も分からないほど惚けた母上のユーモラスな可愛らしさである

戸田(富田)流小太刀の遣い手・清兵衛は、労咳で妻を亡くし、二人の娘と母親と使用人を、50石の安い家禄で養っている苦労人なのであった

昔は、とんと分からなかった「たそがれ殿」と職場であだ名される皮肉も、本家とのしがらみも……

認知症の母と暮らす今になって、ようやくしみじみと胸に迫ってくる(藤沢周平も、実生活において最初の妻に先立たれて井口清兵衛と同じ境遇におかれたことがある)

この映画の舞台となっている、現在の鶴岡市は、われら庄内人が全国に誇る、民度のバカ高い地方都市の雄である

わたしは、鳥海山文化圏つまり荒ぶる湊町・酒田市のはずれに住いするが、風雅な文化都市である鶴岡市に対する畏敬の念はいや勝る一方である

映画『たそがれ清兵衛』で方言指導してらした、故・山崎誠助先生は、先輩のご尊父で親しく話しさせて頂いたことがあるが……

『水戸黄門』の東野英治郎や『おしん』の長岡輝子などと昵懇で、暗黒舞踏の麿・赤兒なども鶴岡で合宿させたり、劇団『麦の会』を主宰なされ、鶴岡の高度な文化度の礎となっておられた御仁でありました

鶴岡と酒田は、言って見れば京都と大阪みたいな相補関係にあって、鶴ヶ岡城(旧・大宝寺城)に亀ヶ崎城(旧・東禅寺城)と、「鶴と亀がすべった後ろの正面だ〜れ?」の土地柄なのです

 

映画では、清兵衛は明治維新の戊辰戦争に従軍して鉄砲傷で亡くなっています

幕末の幕府軍最強を謳われた庄内藩……

徳川四天王の酒井家の治世が長かったし、日本一の土地持ちと云われた豪商・本間家からの莫大な財政援助もあり、戊辰戦争の折の装備は最新式の銃を備えて、まさに連戦連勝、勝ったまま降伏した誇り高き庄内藩でありました

[ 鶴岡の古老は今でも、「庄内は負けて降伏したわけじゃありませんからのう」と物静かに言い放つ]

連戦した秋田県の平沢(現・仁賀保町辺り)……

この幕府軍最強の庄内藩と、新政府軍最強の佐賀藩支藩の武雄領兵(ご親兵として明治天皇の警護にあたっていた精鋭部隊)とが、雄物川を挟んで一か月程一進一退の攻防を繰り返したのだから面白い

おたがい、アームストロング砲なり、エンフィールド銃スナイドル銃スペンサー銃の最新兵器での銃撃戦……

武雄領兵は、さすがに寒さに参ったらしいが、東北の片田舎で最新装備の精強な軍隊同士が、死力を尽くして激闘したのは、戊辰戦争のクライマックスだったのかも知れない

 

ーそんな、庄内の矜持と隣り合せの悲運を予兆してあまりある『たそがれ清兵衛』でありました

なにか、観終わった感慨が、『鬼龍院花子の生涯』に似通っているのが妙なのだが……

日傘を傾けた夏目雅子に、人力車で墓参りする岸・惠子、襷掛けで子ども達と戯れる宮・沢りえも素的だ

この歳になって、ようやく昭和の大女優の比類なき美しさに気づいた私だった

武士道にしろ、男の生き様(人生哲学)を後世に正確に語り継ぎ伝承する(生活上で体現する)のは、その娘たる女性たちであった

つまり、ひとかどの武士たる父を畏敬する娘が、肌身に浸みこませた「武士道」を、父上の孫たる愛息に日夜・衣食住・行住坐臥しつけて薫習させる(馴染ませる)のである

「文明とは女性の協力である」(イナガキタルホ)

最後の一押しするのは、どーしても女性でなければならないよーな気がする

         _________玉の海草


 つけもつけたり 「寒梅忌」 〜 藤沢周平の 「庄内」

2021-10-16 23:21:25 | 藤澤周平

__藤沢周平がお亡くなりになって、早や20年、1月26日の命日近辺で営まれる 「寒梅忌」 も一区切りつけて、おしまいとなった

雪国にしては温かい庄内地方でも、「大寒」のこの時期は水道管が凍ることも間々ある、庄内空港の滑走路も危ないわけで、よくこの時節の「寒梅忌」に毎年多数の読者が集ったものだと感心する(それだけ、全国にファンが多いことを物語るものだ)

中田喜直『雪の降る街を』は、藤沢周平の故郷・鶴岡の城下町に降りしきる雪をみながら作曲された

冬の東北、寒風吹き荒ぶ日本海がわは、それはとにかく暗いどころか冥界の「溟い」なのです

 

> しかし上野で汽車に乗りこむと、そういうこととはべつに、どこか浮き浮きするような気分が私をとらえはじめていた。それが何のためか、私にはわかっていた。

私は郷里の初冬の風景が好きなのである。暗鬱な雲が垂れこめ、空は時どきそこから霙(みぞれ)やあられを降らせる。

そして、裂けるとしか言いようがない雲の隙間から、ほんの僅かの間 日が射し、黒い野や灰色の海を照らし出す。そういう日日の反覆のあとに、ある夜静かに休みなく雪が降りつづけ、朝になると世界が白くなっているのである。

初冬に至って、私が生まれ育った土地は、他の土地と紛れるところのない、まさにその土地であるしかない相貌をあらわすのである。

私がこの季節を好むのは、多分そのためである。

[※ 藤沢周平 エッセイ『初冬の鶴岡』(1977年)より]

 

‥‥ ほんと、この時期の最上川の水面が鈍色に映える雪景色といったら、陰鬱の極みでかえって大自然の神威をさえ感じる (藤沢周平の鶴岡では「赤川」である、最近「赤川花火大会」が全国的に注目されて嬉しい)

この何ともいえない「ドンヨリ」を、真下慶治とゆー洋画家は生涯描きつづけて、根源から差し込む光明をよく活写したものだ

【画像=真下慶治の画く「冬の最上川」「雪の最上川」、村山市大淀の最上川そばに『最上川美術館(真下慶治記念美術館)』がある】

 

地吹雪がふきすさぶ、大寒の庄内平野を流れる最上川……   なにものをも埋没させる風情の灰色のうねりが庄内そのものにも見える

 

ーで、その藤沢が、小学校時代の恩師が「清河八郎記念館」の館長でいらした縁で、ご自分とはまったくタイプが違うにもかかわらず、庄内人の典型を体現していた清川八郎(生地の地名が「清川」、大河最上川に擬して「清河」とも記した)の生涯を長編で描いた、『回天の門』である

ほかにも、柴田錬三郎の奥方が清川八郎のご子孫なもんだから、シバレンにしてはつまらない歴史小説めいた『清河八郎』を書いている

つまり、この大流行作家のお二人は、情実で「清川八郎」を描いたのであり、思いっきり自分の思いを書けない大人の事情があった事は、返す返すも残念である

だから、地元のファンとしては、司馬遼太郎の中編『奇妙なり八郎』のほうが、ずっと感情移入ができた

[※  「奇妙なり八郎」は、老中板倉勝静による清河評らしいですが、司馬はご自分の素直な感想もこめて、この秀逸なタイトルを撰んだものと思います]

 

天皇陛下からの勅状を賜った後の逡巡なぞ、「奇妙」の最たるものですが、藤沢周平『回天の門』に詳しくあるよーに、

幼児期のトラウマ(調子にのって悪ノリすると多数の犠牲者を生んだ過去=幼い八郎の証言で15人の村人が処刑されている)が、自分を亡き者にさせる方向に働いたのはあり得ると思う

司馬遼太郎は、シリーズ『街道をゆく』29巻秋田篇冒頭で、何故「庄内」を書きたくても書けないのか縷々と述べている

>「…他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている。
庄内は東北だったろうか、と考え込んでしまう。
庄内は文化や経済の上で重要な、江戸期の日本海交易のために、上方文化の浸透度が高かった。
その上、有力な譜代藩であるため、江戸文化を精密に受けている。
更にその上、東北特有の封建身分制の意識も強い。
いわば、上方、江戸、東北の三つの潮目になる、というめずらしい場所だけに人智の面だけでも際立っている
庄内へゆくことを考えていたが、自分の不勉強におびえて果たせずにいる。………」

 

‥‥ 清河八郎の「分からなさ」も強く念頭にあったことと思う(他に、大西郷との親しすぎる交流、荘内藩独特の「徂徠学」、藩校「致道館」の伝統を継ぐ文化人、軍人、国士等)

[※  荘内日報社『郷土の先人・先覚』シリーズ-参照]

http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/

 

「奇妙なり」の原因が分からないから、庄内を書かない司馬は正直なおとこである、わたしは司馬遼太郎の忍者モノとかは大好きである ♪

反権力のジャーナリストだった司馬は、坂本龍馬や清河八郎のよーな無位無冠がすきなおひとである

ただ、二人とも商家の出であることは注目されてよい

武器商人でフリーメーソンの援助をうけた龍馬に対して、八郎は造り酒屋の莫大な売上を親に仕送りしてもらって、まったく独自に活動したとゆー違いは歴然としてある

 

まず甘やかされたとゆーか、自由奔放に勉強させてもらった八郎であった

どのくらいの勉学ぶりかとゆーと、八郎は少年時代から日記をつけているが、「旦起私乗(たんきしじょう)と己でタイトルをつけ、18〜20歳まで「天地人」の三巻をすべて漢文で綴っている

江戸に出てから、剣と学問の両方を教える私塾を何度となく開いた八郎だったが、『西遊草』のよーな全国行脚紀行文(母上を伊勢参りに連れ出した顛末)もふくめ、膨大な著作をものしている

いまだ未解読の論文は多数のこっているが、東大の大学院レベルの学識がないと読み込めないほどだ(『清河八郎記念館』の廣田館長談)とか…… 八郎は「易経」から家紋をつくっている

 

そんな八郎を、藤沢周平は「ド不敵」と捉えている

> 昌義(八郎の祖父)は、不敵という土地の言葉を思い出していた。自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。

その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。

しかし半面自己を恃む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった。

むろん村人の中でも、勇気ある者はうやまわれ、臆病な人間はどっこけとして侮られる。しかし不敵の勇気は、底にいかなる権威、権力をも愚弄してかかる反抗心を含むために、ひとに憚られるのである。

羽州荘内藩。そこは一年の三分の一が風雪に閉ざされる土地である。その空の下で、百姓はつねに頭の上がらない暮らしを強いられる。風土と身分と、この二重の桎梏にしばられる忍従の暮らしを、くるりと裏返したところに隠されているのが、不敵と言われる性格だった。

不敵は百姓が居直った姿だとも言える。

どこの村にも一人か二人は不敵な人間がいて、彼らの多くは人びとにおそれ憚られていた。耐えしのび、抗うべからずという村の禁忌を、不敵な連中はやすやすと破り、村人の小心さをせせら笑ったりするからであった。

[※ 藤沢周平『回天の門』「遊蕩児」より]

 

‥‥ 藤沢は、ド不敵の例として、清河八郎のほかに、石原莞爾将軍(鶴岡出身)や大川周明博士(酒田出身)も挙げておられた

いずれも功罪相半ばする規格外の偉材である、幸か不幸か、それが庄内人の特徴といえよーか

 

古代朝鮮(現在の朝鮮民族とは別モノ)の高句麗が大陸に建国した「渤海国」から日本海沿いの庄内地方へ、西暦700年代に1000人規模の移住があった

これによって生じた大規模な混血が、いまの庄内に深く影響しているよーに思えてならない

だって、隣りの秋田人とも内陸の山形人とも余りにも違った土地柄なのだから、それ相応の原因があるのだろー

 

その、誇り高き庄内文化の粋が、徳川四天王酒井家の城下町である鶴岡市にある

『庄内論語』なるものがある、読んでみると教科書で習った読み下し文とおおいに異なる

「あれえ?」なんて、ぶつぶつ呟いていたら、隣りの老貴婦人が深切に教えてくれた、曰く「庄内は、徂徠学ですからのう ♪」

そーなのだ、幕府の官学は朱子学なのだが、彦根藩の井伊家と庄内藩の酒井家とは幕府に願って、古い辞句を尊重して直接読解する、荻生徂徠の「徂徠学」を藩の学問に採用していた(歴代の解釈ではなく、自分独自の見解が求められる)

だから、いきおい取り組み方にも独自の見識があったし、自信も誇りも持っていた

庄内藩では、明治維新の折には大恩ある西郷さんを偲んで、対面して直接聞き取った西郷さんの教えを『南洲翁遺訓』としてまとめた

全国にそれを配布したのは、明治帝から賊軍の将としての待遇を大赦された明治22年のことであった

『南洲翁遺訓』は、西郷さんの哲学をうかがうに最適のテキストであるが、

西郷さんの真実の姿を引き出したのは、他ならぬ荘内藩士の真剣な質問だったのである

「徂徠学」で鍛えられた教養は、大賢西郷翁を前にしてもいささかもたじろぐことはなかった、対等の立場で追求している処は庄内人の不敵さをあらわしている

その真摯な姿勢と徹底した実践とは、いたく西郷さんの意にかなったものとみゆる、農本主義の西郷さんは庄内の殖産事業を温かく見守り応援してくだすった(庄内で新しく出来た茶の銘柄まで命名されている)

 

清川八郎の九州遊説が成果あって、京都に有馬新七(西郷さんの幼馴染)らが結集して、寺田屋にて薩摩藩士同士で斬り合いせざるを得なかったわけだから、西郷さんは清川には良い印象を抱いてはおるまい

しかし、明治以降上京する庄内人の胸裏には、郷土の偉人・清川八郎や郷土の恩人・西郷南洲(西郷さんの本名は「隆永」であり「隆盛」ではないことを知る庄内では、南洲翁とお呼びしている)のお姿があった

とくに鶴岡在住の荘内藩士の子孫は、西郷南洲翁の肖像画を客間に飾っている家庭も少なくなかった(そーした家庭での西郷さんの呼び方は、薩摩に同じく「西郷先生」である)

そんなにまで庄内人に浸透している大西郷信仰から、なぜか酒田の地に、昭和52年に「荘内南洲神社」が建立された

本家の南洲神社に次いで、本邦二つ目の南洲神社が、この庄内の地に建てられたのである

 

上記の庄内独特の薫陶は、藤沢周平にも漏れなく伝承されている

わたしは、藤沢周平の生前、彼の著作は一切読まなかった、私は柴錬の熟読読者であったから

 

しかし、NHKドラマ『蝉しぐれ』を観てから、やっと藤沢周平に読書縁が出来た

『蝉しぐれ』に出てくる秘剣・村雨が、「空鈍流」だと知ったからでもある

「空鈍(くうどん)」とは、幻の剣術「無住心剣流」の二代目小田切一雲の号である(ただし「無住心剣」には秘剣とかはないので、ひとつの冒険であったのだろう)

無住心剣術については、失伝しているので、老練の時代小説家でもなかなか書く人がいなくて…… 

わずかに、南條範夫戸部新十郎の短編、あるいは池波正太郎『剣客商売』では無住心剣術の分派の「雲弘流」、あとは鳥羽亮の名作『三鬼の剣』くらいのもので…… 

最近でこそ、甲野善紀『剣の精神誌』で心法としての無住心剣を深く掘り下げてくれたお蔭で世間に知られるよーになったが、『蝉しぐれ』の当時は、そんな幻の剣術に挑戦するような無謀な剣豪作家はおられなかった(何せ、ほとんど参考になる資料がないのである、無住心剣には剣の型がなく、「剣を上げて下げる」だけであり、極めて修得のむずかしい、無拍子の難剣なのである)

藤沢周平にもまた、ド不敵といえる覚悟で『蝉しぐれ』を執筆したのである(『隠し剣』シリーズは、時代考証も甘いと聞く、剣術の術技も荒唐無稽なものもある、単に物を知らない無謀な作家だったのかも知れない♪)

 

>「‥‥ 私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。

物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだん消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終ることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する。

[※  藤沢周平『周平独言』より]

‥‥ この、老子的な諦観は市井に生きる者の行きつく先としては上等だと思う、江戸っ子の愛した本物の江戸っ子・高橋泥舟が、だれにも知られずひっそりと此の世を去った消息を思い出す

いまは亡き半藤一利さんは、幕末三舟と並び称されながらも、慶喜公の側近を退かれたあとは、ドクロの絵を描きながら風流に散った泥舟の死に触れるとホッとすると仰っていた

ひっそりと亡くなるのは、仕合せだと…… 

藤沢周平の愛した生地は、昔日の姿をもはや留めてはいない、しかし流石の鶴岡なのだ、藤沢周平のよーないいお顔はまだ遺っておられる

        _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 


 大好きな江戸風情〜 浮世絵系 「美人画」 の系譜

2021-10-06 03:21:09 | 気に入ったこと

__若者は、昭和レトロな 「たぬきケーキ」 とか探してきて、掘り起こしては新しい魅力を付与したりしてくれているが、

最近の美人とゆーものは、どんなものなのか…… あの、日本ならではの美感に触れておきたい

 

(wikiより) >歌川国芳から月岡芳年、水野年方、鏑木清方、伊東深水と続く流れを「玄冶店(げんやだな)派」という。深水の門人には、徳永春穂、志村立美、白鳥映雪、岩田専太郎、立石春美、浜田台児、八幡白帆、高木義夫、水戸童、大竹五洋がいる。

[※  「玄冶店」は、お江戸日本橋界隈の古い地名、歌川国芳がここに住まいしていた]

 

‥‥ 歌川国芳は、最近 「スカイツリー」 を予見して浮世絵に描いていることで話題になったが、私の贔屓は 鏑木清方ー伊東深水ー岩田専太郎 である

伊東深水は、女優・朝丘雪路の父御である以外あんまり知る処はないのだが…… 

弟弟子の 川瀬巴水 (スティーブ・ジョブズが愛蔵した風景版画家) にもぞっこんである

 

巴水は、鏑木清方のすすめで岡田三郎助にも師事しているので、ハイブリッドの感はある

あれが、「江戸情緒」 ってえもんだよね

あのお江戸の風景や風情に触れたくて、きっとひとは時代劇をみるんだよね、心の原郷〜懐かしさなんだと思う

これは、文学の主題でもあるね

 

ーなにをおいても、本朝一番の美人画、鏑木清方 『築地明石町』 (昭和2年)  から観ていきやしょーか

 

   【画像=鏑木清方 『築地明石町』 】

 

実に、小股の切れ上がった艶っぽいお姐さんですな ♪

[※  小股って、整体では「足の親指と人差し指の間」を指すそーですな、つまり下駄の鼻緒が白足袋を鋭く裂いたよーにみえる、足指がきつく鼻緒に喰い込んでいる、しっかり足裏全体で地面をつかめるほどに足腰の発達した女を指すらしいです]

この御仁の描く、江戸~東京の成熟して粋な情感

世の中が移り変わっても変わらぬものへの澄んだ眼差しには、小気味よい江戸情緒が脈々と生きています

市井のひとこまを掌に掬い取った『朝夕安居』なども、日本ならではの潤いに充ちてます

> ‥‥ 今度の(『築地明石町』)はしみじみいいと感じました。

何よりも実に優婉(ゆうえん)、清淑(せいしゅく)、いき、人がらな姿です。

それに、 胸のあたりに籠(こも)った優しさ、袖の情(なさけ)、肩のいろけ …… 

いろけと云っても所謂(いわゆる)性的でない、色情というのと違う。

このいろけは、意気、人がらなどという事だの、たそがれ、朝ぼらけなどという事と一所(いっしょ)に、忘れた人が多いでしょう。…… ()…… 

朝霧とともに嘸()ぞしっとりとして、

あれならば、焼あとを歩いても褄(つま)はきれいに捌(さば)けましょう。…… ()…… 

明石町の婦(おんな)の褄には、水際が立って居ましょう。

[※ 『鏡花随筆集』吉田昌志・編 岩波文庫-より]

 

‥‥ あの鏡花が大変なお気に入り様ですね、随分と泉鏡花作品の挿絵も手掛けましたから、お二人は昵懇なんですね

「健ちゃん(鏑木清方の本名)、上出来!」とゆータイトルで、あの鏡花がわざわざ讃辞をこめたこのエッセイを捧げたのです

 

洋画家の 岡田三郎助 『ダイヤモンドの女』も貼りましょー

 

新しい美人画って感じがします、この美少女の視線や風情はいまの世には望めない雰囲気があります

ポーラ文化研究所が発行されている、幕末〜明治の女性肖像写真なんか観ると、その気品の高さに驚愕するんだよね

関東大震災後、そして敗戦後、幾度も焼け野原と化した日本はいや東京は何か最も大切なもの、お江戸の神髄を失ったんでしょーな、きっと…… 

その土地の精華の第一は、勿論住んでいる人間ですが、第二はその人びとが造り上げた街の風景なのです

この御二方(和の鏑木と洋の岡田)の薫陶をうけた川瀬巴水は、残念ながら美人画をものする事はありませんでしたが、抒情ただよう景色に溶け込んでいる女性はいかにも美人のよーな気はします

 

清方の孫弟子・岩田専太郎は、浅草生れで浮世絵の伝統を継ぐだけに、専太郎好みの着物まで作っておられる粋人で江戸っ子の嗜みも深く、時代小説の挿絵には閨房の香気ただようしどけない風情がよく滲み出ていました

どこか外国人ぽい顔立ちなのは、青森や秋田はユダヤ系やらロシア系の混血が多いよーに、意外にシルクロード経由でイラン系とか入って来ていて、帰化した渡来人が多いことを踏まえてのものなのか…… 

意外と西洋的とゆーか、アーリア人系の顔立ちも、本朝美人画には見受けられる、実際異国風の先祖返りした風貌もあらわれたものと見ゆる、平清盛の娘は天然パーマの髪だったし、皇室にもユダヤ系の血が入っておられた

 

 

 

【画像=岩田専太郎の木版画、しとどに滴る後れ襟の色氣とでも申しましょーか、溜め息が漏れる】

 

週刊新潮に、大ヒット連載された「眠狂四郎」シリーズの柴田錬三郎も、岩田の画力を高く尊敬されていました

柴錬のエッセイ集『どうでもいい事ばかり』では、実にシュールな冴えた眠狂四郎の挿絵を画いておられます

【画像=柴田錬三郎『どうでもいい事ばかり』の挿絵より、下絵は岩田専太郎の描く宮本武蔵】

 

侍や浪人って、佇まいを描くのは存外に難しいものです、「二本差し」 って重くて左半身が発達するんですね

岩田専太郎には、高雅な品格があるんですよ、色の匂いも自然と立ち昇ります

「和製ビアズリー」なんて云ってほしくはないけれど、隠しようがない妖艶さに悪魔的な筆力を感じます

谷崎潤一郎『痴人の愛』のナオミの、ドSなドッグスタイルの挿絵も刺激的だったが、三島由紀夫や吉川英治はじめ、数多の作家の挿絵を手掛けた凄腕の画家で、6万点くらいは画いておられるのだとか…… 

そんな、爛熟したお江戸の元禄文化を身につけて、入神の域に達する職人芸で、すぐれて風情のある浮世絵を画いた絵師たちが、精魂込めて描きたくなる日本人が実際にいたとゆーことに感動いたします

江戸情緒とは、すなわち江戸っ子に心揺さぶる魅力があったとゆーことに他なりませんから

 

ーさいごに、最近気になった和服美人をおひとかた…… 

ちょくちょく時代劇でもお見かけするのだが、楚々たる裾さばきで歩みをすすめる風情に、日本婦女子の品格が漂う女優・村岡希美さん…… 

TVCM | 意識高すぎ!高杉くん 「母のデビュー」篇

 

【画像= auの CM で、 「意識高すぎ」  高杉くんのお母上を演じられた村岡希美女史、上品でメガネ美人でもありますなあ、いや〜お美しい ♪ シャキシャキした声音も心地よいです、「 au PAY で ⛩ 」】

         _________玉の海草

 

 

 

 

 

 


 「一億総白痴化」 〜 マッカーサーの愚民化シナリオ通りでよいのか

2021-10-02 03:26:18 | 歴史・郷土史

__BTSの国連演説は、各国の失笑をかって終わったよーだが……

あの冷たい顔をしたBTSリーダーはじめ、あれだけ極め付きの反日なのに……

日本の十代は夢中になって追いかけていると云ふ

彼らの印象としては「花郎(ファラン)」の文字が浮かぶ

この言葉は、当初の意味から離れて、軍事的意味合いが強いとゆーが……

あの媚態をふりまく陰間もどきの華やかさは、なんとなく「花郎」の文字が似合う

日本でも花柳界には存在するであろーが、まっとうな日本人にはBTSみたいな風情はないとは言いたいが……

昨今のメイク男子をみていると、現代日本はそーではないのかも知れない(そもそもが白塗りの「化粧」とは、差別された河原者=芸者と一般生活民とを一目で分かつ為に強制された「しるし」であった)

韓流にうつつを抜かしているジェネレーションからは、最早日本人の面影は辿れないよーな……

学校の授業に「ダンス」が必修になった経緯とも繋がっていよー(昭和の「ディスコ世代」から「パフォーマンス」が「芸」として日本で重視されるよーに成った)

端的にいって、大勢の人々から見られたい欲望をおおっぴらに表すよーになった若者たちの姿は、ほぼマッカーサーの愚民化計画の結実の証しとは言えまいか

【画像=ダグラス・マッカーサー元帥、ウエストポイントの陸軍士官学校で歴代一位の成績を誇る超エリート軍人であり、日本でいえば比叡山に学んだ学僧の中で歴代一位と称される秀才・法然上人みたいなものである、その法然の智慧を信じ切ったのが親鸞上人である】

 

ー日本を植民地にしなかったのには、相応の理由があったわけであるが、

日本を占領下においた初期には、「日本の公用語を英語にする計画」や「通貨をドルにする計画」などは実際に画策されていたものだと聞く

GHQが進めた「日本の民主化」とは、独裁的リーダーの出現を未然に防ぎ、軍事力を弱体化させることを主目的としたものである

【3R5D3S政策】として、よく知られている

一般庶民に直接かかわり合う処では、最後の「3S」(スポーツ/セックス/スクリーン)が特に重要で…… 

スポーツ競技と性産業と映画、もひとつ「スピード」 (自動車) も加えて、民衆の欲望を3Sに誘導させて、社会生活の不安や政治への関心から国民の目を逸らせよーとした

現在の日本国民の選挙投票率をみれば、その目論見が完全に成功したことが分かる

[※  総務省のHPより引用> 国政選挙の投票率は、平成29年10月に行われた第48回衆議院議員総選挙では、53.68%、令和元年7月に行われた第25回参議院議員通常選挙では 48.80% となっています。]

(wikiより)>日本を全く骨抜きにするこの3R5D3S政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいは、これに乗じて野心家が輩出してきた。

日教組というものがその代表的なものであります。そのほか悪質な労働組合、それから言論機関の頽廃、こういったものは皆、この政策から生まれたわけであります。

[※ 安岡正篤『運命を創る―人間学講話』より、

この御方は、歴代天皇を裏から支える秘密結社「八咫烏(ヤタガラス)」の一員と噂されている、南朝の楠木正成公の側近・堀田弥五郎のご子孫である、歴代自民党総理の指南役と言われた陽明学者で易学の大家、元号「平成」の考案者である

正確には、物故者が政府に提出した元号は縁起が悪いので採用されない慣わしだが、山本達郎東大名誉教授によって何故か「平成」が再提出されて採用された経緯がある]

 

何故か、現在の日本男児の姿が、K国男児に迫力負けしているのは、端的に「軍役」のあるなしが要因であろー

軍隊とゆーものは、つよく「生死」を意識させる

2年とゆー短い兵役であっても、すべての男子が経験していることは、国防において強みである

K国人は、戦後すぐの闇市においても、その「恨」による破壊的な自滅思想によって、その893な勢力範囲を拡げて、今に至っている

芸能界はもはや、在日(K国人)を使わなければ、映画もドラマも作られないほどに、侵蝕されている

わたしは何も「在日」がキライなわけではない(橋下徹さんとか好き ♪)、ではあるがしかし、日本の国土にお世話になっておきながらの「反日」は腹に据えかねる

[※  橋本徹も最近偏向した発言が多くて、好き発言は撤回しなければいけない、やっぱり知事時代の訪中でC国から接待漬けされたよーだ、巧妙に外国人参政権へ向かって働いている…… 2021.11.21記す]

 

世界でも類稀な日本の伝統、唯一無二といってもよい永い伝統を誇っているが…… 

伝統が瓦解するのは、一瞬である

皇室にしても、大相撲にしても、国民が抱くイメージが崩れて来ているのを感じる

端的に「尊敬」「崇拝」の念が薄れるから、それは見ていて判る、国民の行動にあらわれる

わたし自身、敬神崇祖の念が篤い家柄で育ったが、ここ二十年あまり頻発する皇室のゴタゴタには正味ウンザリしている

神事である相撲にあっても、たんなる野蛮な「荒ら事」であり、力人(ちからびと)の荘厳さは微塵も感じられないテイタラクである

こんな日本になってしまって、どーする?

ここはひとつ、ニッチに隙き間に生き伸びるしか手はないのじゃあるまいか

 

老人の生に、日本の伝統を託す

アニメが全世界で流行っている中で不思議がられることがあると云ふ

日本アニメでは、何故に老人キャラが最強なのか?

江戸期の武術書『猫の妙術』にも明らかなよーに、年老いたネコは血気盛んな若いネコを戦わずして威圧する存在感を示す

日本に内在する、この達人伝説にその原因が潜んでいよー

中国の少林寺をはじめとする中国拳法でも、生涯のうちで最も強くなる時期は、「功夫(クンフー)」を積みあげた50代の拳士であるそーだ

【画像=映画『酔拳』より、蘇化子役のユエン・シャオティエン(袁小田)

 

ジャッキー・チェンの『酔拳』の師匠・蘇化子は「シーボー」(師父・師傳)と呼ばれているが…… 通常は、敬意を込めて「老師(ラオシ)」と呼ばれる、たとえ年下の師であっても「老師」である

中国にあっては「老」は敬語なのである

[※  日本でも、五百年にひとりと云われる白隠を打ち出した禅の師匠は「正受老人」と敬称されている、この御方は真田幸村の実兄・正之(徳川家に仕えて生き延びた)の妾腹の子である]

古代中国には、「仙人」の伝説もあり、年を取ることは「弱体化」と必ずしも一致しない

東洋では、鍛え上げられた老人は若者以上の強さを発揮するとゆー伝統がある

幕末〜明治の日本でも、60歳代の中村一心斎(山岡鉄舟が日本一の剣豪と称えた)が20歳の海保汎平(千葉周作門下の麒麟児)を寄せ付けないとゆー試合運びが出来た

年老いても、若さ漲る最盛期の力技を凌駕する達人の境地とゆーものは、実際に現在に顕現させた御方がいる

東京小平市に道場をかまえる、大東流合気柔術(合気道の源流)の佐川幸義 宗範は、90歳代で初めて受けた病院の診察で、心臓に負荷をかけるために軽く運動してくださいと医師に言われて、腕立て伏せ100回休まずに行なう体力があったし……

95歳(平成10年)でお亡くなりになるまで、日本中から集まった腕自慢の格闘家・武道家の猛者たちを、「合気」でもって投げつづけて、まったく寄せ付けない別格の強さをみせた

まー、武術家のロマンではあるが、出来ない業ではないとゆー認識はいまだ遺っている

ご老体は油断ならない、ご隠居や老師匠は抜群の腕をもつことがよくある

 

人生の経験値はゆたかだし、愚民化する3Sの欲望からも離れて久しい

まさにうってつけの正統伝承者となるだろー

ただ心配なのは、「活力・気迫がなければ、善も悪も是も非もない」(安岡正篤)とゆー摂理で、まったく悟りすまして安逸をむさぼる老人ではいけないとゆーことだ

 

でも、そろそろ老人力を発揮してもよい時節ではないか

赤瀬川原平『老人力』より引用 ♪

力を抜くには 抜く力がいるもので、老人になれば自然に老人力がついて力が抜ける。でも若い間は自然には力が抜けない。

力を抜くというのは、力をつけるよりも難しい のだ。

眠ることも忘れることも、努力をもってしては到達できない。

本当に大事なのはオマケでいいんだ。[私注:俳句をとるかお店をとるかと言われて、即座にお店(生活)をえらんだ俳人・鈴木真砂女さんのことに関して]

人間の人生というのは、そもそもが寄り道なのかもしれない。ぼくならぼくというものが、ふとこの世に寄り道している。

何ごとも百パーセントはよくない。人間には百パーセント依存症というのがあって、……

世の中いろいろと面白いことがある。[私注:赤瀬川原平による「あとがき」の結びの言葉]

もちろん、歳をとってなお元気百倍、筋肉リュウリュウ、欲望ギラギラというのは結構なことである。いやホント。でもちょっと引いて考えてみて、そういう第一次産業的な力はいずれ衰えてくるもので、そこで、

「いいや衰えない!」

といって抵抗するかわりに、

「これは衰えじゃなくて、力の変化なんだ」

と考えるのが老人力で、それは第二次産業的な力というか、いや第三次か四次かわからないけど、そんなようなニュアンスのことなのである。

 

‥‥「まだまだ若いものには負けませんよ「徹夜もまだまだ平気ですよ」とか、単に物理的に青年壮年並みに頑張れることをアピールするのと「老人力」はまったく次元が異なるってことである

要は、「テキトー」に出来ることが、「老人力」がついている証しである

老人ならではの達観や生き方もあってしかるべきで、ちょうど中国歴代官僚を支えた孔子の儒家よりも、一般庶民は老荘の道家にむしろ馴染んだよーに、社会の主流にはならなくとも下支えする地下底流となってもよい

         _________玉の海草