『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

  「丹田呼吸」 は、日本のおおもと

2021-09-26 02:26:39 | 「書」入木道

 

 

__『鬼滅の刃』無限列車編まで、TVで拝見した

なかでも、蝶屋敷編で繰り広げられた鬼殺隊士の訓練風景が一際おもしろかったので、「呼吸法」について語ってみたい

蝶屋敷における機能回復訓練で、同期のカナヲにまったく刃が立たないタンジローは、三つ子みたいな女の子から、全集中の呼吸に常駐すると基礎体力が格段にアップするとゆー秘訣を聞く

その呼吸法を追ってみると……

・慣れない人は少しやるだけでヘトヘトになる

・瓢箪を破裂させるほどの肺活量になる

・「肺」呼吸である

・寝ているときに行う自然な呼吸では、全集中の呼吸にならない、つまり意識的な呼吸法である

 

全集中で常中とゆー辺りは、坐禅の折の 「丹田呼吸」 に似ている

白隠禅師は、坐禅で「全集中」しすぎて、いわゆる「禅病(自律神経失調症のヒドイ症状)」に成ってしまったほどに傾注した

そんな白隠さんの太鼓腹は、「篠(しの)つく鞠(まり)のごとく」と云われ、すべすべの肌にまん丸く張り出した布袋さんのよーな見事な腹が出来ていた

仏道の祖・釈尊も、呼吸の鍛錬は極限まで実行なさっていて…… 

悟りに到る前の 猛烈修業中のシッダールタ(釈尊)は、例えば呼吸法を駆使するヨーガ(瑜加)では、止息から断息に移行して、体内気圧の昂まりから耳の鼓膜が破れるに至るまで 徹底して行じている

[※  村木弘昌 『大安般守意経に学ぶ釈尊の呼吸法』 柏樹社・参照]

 

禅の呼吸法は、天台宗の「摩訶止観」と同様に、初めは「数息観(すそくかん)といい、「一、ニ、三〜」と数を数えることに集中して行う

釈尊に倣い、呼主吸従で「呼気(息を吐く)」のときに数を数える、細く長く吐き切るまで行えば、吸気は自然に入ってくるに任せる

科学的に言えば、呼気は副交感神経を促しリラックスして脱力した状態を導く

例えば、柔軟体操で筋を伸ばすときは、息を吐きながら(呼気で)おこなうとやりやすい

 

剣道で「隙あり」と打ち込むのは、吸気に変わるタイミングである、息を吸うときは身体が心持ち硬直するからである

だから、長く吐いて短く吸う、大本教・出口王仁三郎の「息長(おきなが)の呼吸(古神道の呼吸法)も同じ消息である

長く吐くためには、横隔膜 をつかって大きく空気を吸い込み腹圧をかけなければならない

横隔膜は神経叢を司る臓器でもあるので、精神の安定に寄与する面がある

 

空海さんは、「阿字観」のときには、舌を上顎につけて、鼻呼吸して肛門を締めておられた

秘訣はここにある

禅者は、川で溺れて意識を失っても、坐禅の功用で肛門が閉まっているため、たやすく仮死状態となり、溺死しないものだと聞く

「常中」、つまり 常に(無意識に)お腹が膨らんで肛門を締めた状態 をキープしているのである

 

そこで、タンジローの呼吸法だが、長い呼気は坐禅の呼吸と同じものだと思う、体力も気力も充実する

しかし、彼はこれを「肺」で行なうのである

伊勢白山道の腹式呼吸でもそーだが、安定した大容量で爆発呼吸できるのは、「腹式」の呼吸である

 

天成の歌い手MISIAの超ロングトーンは、誰にも真似できない素晴らしいものだが、彼女の肺活量は普通以下のレベルだそーだ

空間に音を振るわせる技術があると彼女は云っておられたが、肺の使い方にも奥が深いものがありそーだ

歌い手ならば、「肺」呼吸は重要事だが、こと身体能力が要求される競技や芸においては、ほとんど「腹式呼吸」である

瓢箪を破壊する爆発呼吸も、中国武術は勿論のこと、空手にも「息吹(いぶき)があるが、よく鍛練された腹式呼吸である

 

全集中の呼吸は、肺で行なっても腹で行なっても、その事自体危険なんじゃないかな

人は意識して深呼吸を行う場合、わずか5分ですら継続して出来ないものだと云ふ

そーした 「意識した不自然な呼吸」 は、もしクソ真面目に継続して行なうと極めて危険である

 

吸入する平均酸素量の数値を不自然に上げることは、深刻な自律神経障害を引き起こす

 

白隠さんの「禅病」がそのいい例であり、西洋医学では修復できない重い病いを患うことになる

白隠さんは、おそらく道教由来の白幽老人から伝授された「内観法」とか「軟酥鴨卵の法」の意念をつかったイメージトレーニングみたいな方法でかろうじて復活した

 

結論すれば、「全集中の呼吸」などと、子どもが真似して無理な酸素吸入量の呼吸をつづけるのは危険だとゆーこと

一般に「腹()が据わる」と云われるよーに、確かに禅の「丹田呼吸」は、心の安定にも作用して耐久性も上がるのは私も実感している(独習で坐禅をしていた経験から)、まず驚いて飛び跳ねることは無くなる、メンタルに耐性がついてヘコタレなくなる

しかし、大東流合気柔術の佐川幸義宗範が云われていたよーに、不自然な呼吸法は即座の用には立たない

佐川師は、たとえ宮本武蔵が生き返ったとしても佐川師には敵うまいと云われる程の超一流の達人だけに、若い頃から強くなるためにあらゆる呼吸法を試された挙げ句のご発言だけに、傾聴に値する重みがあると私は信ずる

呼吸法に頼るのは、やはり弱さの現れなのだと思う

 

『鬼滅の刃』は、登場人物が味わい深い漢字のお名前だし(「煉獄」なんてダンテの『神曲』以来、確かキリスト教の用語だ)、大正ロマン漂う風情も好きだ

炭治郎の実家のある山奥の、雪山や深山の森の描写が見事だった、ホワイト・アウトを巻き起こす横殴りの吹雪の恐怖に、雪の懇々と降り駸々と積もる風景、無音の雪山の不気味さが画面から立ち昇って観えた

下弦の十二鬼月が集合させられた、あの、エッシャーの騙し絵みたいな日本家屋の奥行きある空間なぞも、実に見応えがあった

まだ年若い女性作者に、時代劇の詳細な考証を求める気もないのだが……

漫画本ではヒジは張って刀を抜いたり(刀は腰を回して抜くもので腕で抜くのは下手)、鯉口に添える指の位置が可笑しいとか YouTube で取り上げられてもいて、興味深く拝見した

 

『子連れ狼』の小池一夫は、居合の名手で、若山富三郎と勝新太郎のご兄弟と三人で技を競って一番上手かったと聞く

だから、名匠・小島剛夕えがく処の、裏柳生の総帥・柳生烈堂は腰の据わった達人の佇まいであったのである

『子連れ狼』は、本来弱い足手纏いになる子ども(大五郎)を連れて、冥府魔道の決死行を貫く処に、判官びいきの世俗の妙味があり、大人にならないと分からない深みがある

『鬼滅の刃』も同様に、守るべき妹のネヅコを背負って歩くが(ウルトラセブンみたいに小さくもなれる処が面白い)、鬼の血が入ったネヅコは弱いどころか、ときどき兄のタンジローを助けたりする処が、なんともいままでにない新展開である

 

また、日本では長らく鬼や異形・幽霊は退治されるものであったが、鬼の中に愛すべきものを見いだす辺りは、上田秋成『雨月物語〜浅茅が宿』以来の怪異小説の伝統を継ぐ漫画でもある

[ 荒俣宏御大によると……    美貌の妻をおいて京に商いに出向いた夫が、関東の戦乱のために帰れず七年後にやっと帰宅した吾が家に、やつれた妻が幽霊となって喜んで出迎えてくれた、夫は翌朝その真実を知り、切々と妻を懐かしみ偲んだ「浅茅が宿」の怪談話……   この話によって、退治するべき異形(異界の霊、鬼神)が、初めて愛すべき心を寄せる対象となったのだと云ふ]

 

ー 『鬼滅の刃』に「丹田」とゆー言葉は出てこないが、長らく失われた日本文化を復権させた物語となったことは、高く評価されてしかるべきだと思う

第二次世界大戦の戦中に、大日本帝国の軍人をはじめとして、神国・日本の伝統の根幹である「丹田文化」が大々的に一般庶民にまで浸透していた

終戦を迎え、厚木基地に降り立ったマッカーサー元帥が、いの一番に着手したのは……

伊勢志摩の大空襲で伊勢神宮に落とされた爆弾がことごとく不発弾となり、一発も爆発していなかったとゆー報告の詳細な現地調査と、日本精神を型作る「武士道文化」の解体であったと云ふ

豊臣秀吉の「刀狩」さながらに、GHQによる「廃刀令」の徹底的な履行や剣道をはじめとする武道の禁止などによって、戦時中にもてはやされた「丹田文化」はすっかり忘れられてしまった

武道に限らず、能狂言や歌舞伎においても、「丹田呼吸」は必須の修得科目だったわけである

戦時中は、「武専」と呼ばれる武道専門学校まであったのが、戦後は軍部への反動からか、武道及び武士道文化はいっさい顧みられなくなってしまった

戦時中は、文武両道はあたりまえの教養だったのである

 

その象徴的な傑物として、病弱に生まれた吾が身を鍛えに鍛えて、数々の偉大な成果を結実させながらも、未来をも予知できる境涯を獲得して、日本国と人類全体の未来を憂えるあまり49日間にわたる断水断食の果てに、72歳で自死なさった 肥田春充(1883〜1956) がいる

いわゆる「肥田式強健術」の創始者である

「丹田」を科学的なアプローチで自分なりに詳細に解明して、「正中心」として定めた

驚くべき結実をあげたのは、何も運動能力だけではない、その悟境は曹洞禅の飯田欓隠(とういん)老師からも「見性」を承認され、暗記や暗算などの学習能力にまで及び、並外れた神秘的といってもいい程の能力を発揮した

創始者肥田春充ほどに「聖中心」を完成させた者が、後進の弟子には現れなかったものだから、いまは完全に忘れ去られている

わたしには彼の鑑定は出来ないが、とてつもない人物であるのは、その書に明らかである

この画像を説明すると…… 毛筆で書いた墨蹟である

場所は、肥田春充の家の廊下で、巾は180cmで長さは9mほどある、「中心○」と揮毫されている

「中」の字の縦軸が長〜く、なんと6mにも及ぶ

巻き物用の条幅紙に、立って一気に書いたものだろーが、何よりもその金剛力士のよーな筆力に畏れ入る

芯の通った、生きた線を6mも引き伸ばすなど、到底人間業とは思えない、前代未聞の入神の技である

この長い「棒」は、白隠の禅定力あふれる「棒」をも凌ぐものであろー

凄んごい日本人がいたものだ ♪

わたしたちは自らの内に潜む、日本人のDNAを誇っていいのかも知れない

         _________玉の海草

 

 

 


《ちょい言》 若者を切捨てて、古き思い出に耽る

2021-09-22 03:14:07 | 人物山脈

__BS12で、マキタスポーツとスージー鈴木の『カセットテープ・ミュージック』を観ていたら…… 

[※  番組概要「HP」より:80年代にカセットテープで聞いていたあの歌謡曲。毎回テーマに沿ってMCがセレクトした「マイ・ベスト・カセットテープに入れたい曲」を流しながら、歌詞やメロディーに隠された仕掛けにも踏み込んで解説。MCは、ミュージシャン・芸人・俳優・コラムニストとマルチに活躍中のマキタスポーツと、気鋭の音楽評論家スージー鈴木。「このイントロが!」「この転調こそが!」「この頃のこのアイドルは・・」、音楽ずきおじさん2人の独断トークが繰り広げられます。]

サザンオールスターズの初期の傑作が流れていた

「C調言葉にご用心」(1979)が私の一番好きな曲で、「海」も「思い過ごしも恋のうち」も、リアルタイムで青い時代の真っ只中にいた私の心の奥底に刺さっていた

【とつとつと語りかけるような調べがいいんだよね、C調=「調子」の逆さコトバ=「しーちょう」、軽薄で調子のいい感じ、ジャズメンが隠語として使った。】

【この曲は、「いとしのエリー」と同じく1979年リリースなのだが、映画🎞️『彼女が水着にきがえたら』 (1989年公開・原田知世主演)の挿入歌にもなった。】

 

【ヴォーカリスト桑田佳祐は上物、上田正樹に匹敵するとはどんだけ〜】

【本家の上田正樹『悲しい色やね』を聴き比べてみる、全身全霊のブルース(ダダ漏れの哀愁)、魂の叫びやね、凄いな、桑田佳祐はでも哀愁は匹敵していると思う、カラッとしたブラジル🇧🇷のような深い哀しみである】

【桑田佳祐のソロ活動では、この Kuwata Band ‎「スキップ・ビート Skipped Beat」、この渦巻くようなグルーヴ感にはほんとうに痺れた】

 

デビュー曲の「勝手にシンドバット」(1978)は、鮮明に記憶に残っているんだけど…… 

Tシャツに短パン姿で肩からギターぶら下げていたんだよ、学園祭からそのまま駆けつけたよーな風体で、当時そんな格好で唄う歌手はおらなんだ

歌手とは、選ばれし者しかなれない職業で、高嶺の花であり、みんな豪華で高価な装いをしていたものだった

サザンは、貧乏くさかったのだが、そこが底抜けに型破りで、歌舞伎役者みたいなロックな華があって、おまけに楽曲がすこぶる佳かった

「勝手にシンドバット」もメロディーが素的で、マイケル・ジャクソンの「ロック・ウィズ・ユー」と同様にヘビー・ローテーションしていた

国民的ヒット曲である名曲「いとしのエリー」が出るまでのサザンは、私もかなり御贔屓にしていたのだ

この番組でも、「いとしのエリー」をあえて選曲していなかったのが渋いが、サザンのメイン・ストリームは「いとしのエリー」ではないとゆーのが私の持論だ

茅ヶ崎生れの青学生で、音楽の才能に満ち溢れていて、軽いノリで面白くかつ胸の奥に響く曲をかくニイチャン達って印象だった

国民的歌手グループなんて柄ではなかったし、そこが何とも素の魅力だった

そー、カセットテープに録音してカー・ステレオでかけるのにいい曲、海が見えるドライブに合う曲がサザンの湘南サウンドだったわけである

マキタスポーツの解説がまた、若者世代を切り捨てにする選曲に相応しいもので、そぞろに可笑しく、まさに昭和世代の哀愁がただよって切ない煌めきがあった

彼の娘御が、「昭和の時代に生まれたかった」とジュリーに夢中になっているのが、せめてもの慰めである

 

あの頃、気怠い日曜の午後にTV版『柳生一族の陰謀』を観て、封建社会だからこその武士や忍者の哀れさに日本人として感動とゆーか意気消沈していたものだ

だって可哀想なんだもの、時代劇の尽きせぬ魅力は武家制度にがんじがらめに縛られた中で迸る、自由を求めての奮闘にある

 

いま思い出したのだが……  当時、絶対的に美しいお姫様女優がいた

彼女は、本阿弥周子 といった

[※  加筆🖌️  20240312

本阿弥光悦といったら、書は近衛信尹・松花堂昭乗と並んで「寛永の三筆」と称されたほどの能筆。家康から賜った京都鷹ヶ峰の地に、町衆・職人・法華宗徒たちを移住させて、芸術のための「光悦村」をつくる。

本阿弥家の宗家(本家)は、足利将軍家の同朋衆で、刀剣の鑑定や研磨をもっぱらにして、刀剣奉行として仕えた、日静上人(足利尊氏の叔父)に帰依した「妙本阿弥仏」を初代とする。

「折り紙付き」という言葉は、本阿弥家が刀剣の鑑定書として「折り紙」を付けたことに由来するほどの名家。

▼ 本阿弥家が発行した「折紙」の画像は、以下参照、

 酒田の本間家〜 志をもった財力 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 

古くより「ほんなみ」と訛って発音する

代々、日本刀の目利き(鑑定と研磨)を家業として承継しており、本阿弥光悦はアーティストとして有名だが、本来は刀剣職人なのである。

光悦も実は本阿弥宗家の分家(光ニ系)で、本阿弥周子は正確には光味系の分家であるそうだ。

本阿弥周子女史の御尊父(本阿弥光博・コウハク)もまた、刀剣界の重鎮で、

『日本刀鑑定法(上・下)』(1973)雄山閣刊

という権威ある専門書を上梓なされている。

以上、サイト『名刀幻想辞典』を参考にした。]

 

__ 風流人・本阿弥光悦のご連枝でいらっしゃる、お名前は正確には「ほんなみ・ちかこ」とお呼び申し上げる、室町以来の名門の出自で、実に雅びな風情があった

 

【画像:フジテレビドラマ『大捜査線』(1980)より】

 

細面で鼻筋が通り、名門の家柄らしく頗る端正な美形であり、所作もその身分にふさわしい立居振舞いがお出来になる素養が身についていた(やはり、時代劇には 日舞の嗜み が必須であるよーだ)

お姫様のお忍びの男装も凛々しく、ポニーテールが靡くさまが実に美しくて溜め息が漏れたものだ

彼女は、後年日活ロマンポルノに移って、艶技もこなしたわけだが、もっともっとお姫様役を演ってほしかった

筋目正しく、ちょっとわがままなお姫様のもつ、生まれながらの威を帯びていて、畏れ多い感じでひれ伏したくなる気品があった、ツンデレのドSの妙味も多分にあったことと思う

最近の女優では、おられないなあ〜 檀れいに公家の高度な教養を備えさせたニュアンスかしら?

 

【写真/世界文化フォトより。本阿弥光悦がデザインした「光悦垣」(光悦寺の庭園)。竹🎋の丸みが、美しいですなあ♪

アブストラクトの岡本太郎が、唯一認めた日本の画家が尾形光琳(『紅白梅図屏風』の抽象表現に感動した)であった。その「琳派」の嚆矢濫觴となったのは、本阿弥光悦その人と彼が育てた若き偉才・俵屋宗達であったことを思えば、小さな光悦村で国宝を産み出したのですな。このお二人の共作は、一筆しくじればすべてが台無しとなる緊張感のなかでの、当意即妙が実に清々しい奇蹟の合作なんですね。】

 

 

一昔前に、新垣結衣と草彅剛の時代劇 『BALLAD 名もなき恋のうた』(2009) を観て感じたことが、お姫様と侍大将とのラブ・ストーリーだったが……  ガッキーの立居振舞いは、長屋住まいの町娘のそれだった

正座ひとつ取ってもサマにならず、着物の着こなし、裾さばきなど見るに堪えないお粗末な「おひめさま」だった

丹田に力を込めて、背筋を立てるのは、武術(小太刀や薙刀)をたしなむ武家の娘さんならば出来て当たり前の所作である

猫背でパソコンやスマホに向かう現代女子とは、身に纏う佇まいに雲泥の差があったであろー

特に下半身、「仙骨」なんかのつかい方に慣れておられただろーと思われる

昔は、いまみたいに生理用品が発達していなかったから、みずから意識して締めて経血が滴り落ちないよーに出来たものらしい

[※  三砂ちづる女史『オニババ化する女たち』(2004)参照、ちなみに最初の単行本でのタイトルは『昔の女性はできていた―忘れられている女性の身体に“在る”力』である、推して知るべし

WHOが、発展途上国の女性の不衛生を心配して、生理用品をしきりに配ったところが……   アフリカなどの現地の女性たちは自分の意識で、流れ出る血を抑えたり放出したり出来ることが分かって大恥をかいたとゆーエピソードも語られていた]

 

ー昭和の頃は、こーしたお姫様だけでなく、若殿様役のいい役者も幾たりかいたもんだ

映画『魔界転生(1981)』に出てらした、徳川家綱を演られた松橋登さんなどは、端正な風貌にキリリとした若殿振りでいらした

まさに「お殿様」と云った、威厳と鷹揚さを併せ持った高位の貴人を演じられる俳優が存在した

田村正和も、若殿を演らせては右に出る者がいないほどの、眉目秀麗な若武者振りで眩しいほどの花があった

TV時代劇『運命峠』の秋月六郎太役が秀逸であった、立ち回りも堂に入っていた(実は、このドラマが地方TV局ゆえに急に打ち切りになったことから、柴田錬三郎『運命峠』を買い求めたのが、私の読書の始まりであった)

阪妻の息子だけに、二本差しの武家の所作が完璧なのです

【美しすぎる剣士と云われた、NHK『鳴門秘帖』の法月弦之丞役】

 

いまは、やっぱり演れる役者がおらんなあ、佐藤健くんなんかは実に端正な顔立ちだが、口元に城主や将軍家の格式とゆーか、品位が感じられない、動きすぎる唇が瑕瑾ともいえる、健くんでは笑い顔に歪み(照れ?)があり、天真爛漫な「殿様笑い」が出来ない

 

知性は、口元に露わになるものらしい

たとえば、鈴木亮平は口元が締まりすぎて、東京外語大出来の知性が隠せずに出てしまって、そこがスケールの小ささに繋がっている

日本人は、才気走った人柄を好かないとゆー歴史的な傾向があるから、鈴木亮平の知性が癇にさわる処があるわけ、馬鹿な演技がうまくないと大役者にはなれん

 

 

時代劇のお姫様では、NHK大河『風林火山』に出ておられた、由布姫役のお嬢さん、柴本幸 は実にお姫様然としてらして、凛として素晴らしかったのを思い出す

たしか、柴俊夫と真野響子(この御方の美しさは別格で、角松敏生の楽曲「クレッセント・アドベンチャー」のモデルになられた程の美貌の貴婦人なのだ ♬ )の娘さんだったはず

【画像=NHK大河ドラマ『風林火山』より、由布姫(武田勝頼の生母)役の柴本幸】

 

【真野響子の佇まいからインスパイアされて出来上がった佳曲、1981年デビューの角松敏生の「海のサウンド」は、当時流行りはじめのサーファー🏄達から抜群に人気があった 】

【 若き日の真野響子女史、1978年のカティサークのカレンダー📅より。このセンスのよい肖像写真は「現代の美人画」として人気を呼んだ】

 

やはり、口元がネックになる

早口や悪口に唇を慣れさせない日常が大切なのだと思う、何かを訓練して身につける「口元」ではなくて、「しないこと(現代人みたいな軽口を叩かない)」によって形成された「口元」でなければならない

賢い女は、口元に締まりがある、節度のある限定(不自由さ)があると私は観ている

         _________玉の海草

 


《ちょい言》 「女」 だけに、それができる

2021-09-18 02:19:20 | 日本語

__こーも国家的非常時が長くつづくと、現実感覚がマヒしはじめるね

私的なことでは、母の認知症が発覚してからずっとこのかた…… わたし個人の内では 「非常時」 がつづいている

567騒動を先取りする形で、呆けた老人が突っ走るのに付き合ってきたわけだ

惚け老人と一緒に暮らすのが、こんなにも心掻き乱されるものだとは、当事者となって初めて知った

まー、私の内では、567と母の介護が同列であり、まったく異世界に入り込んだ気分とでも云ったらよいか

ひとが苦しんでいるときに、悪さを仕掛ける冷血漢は、567騒動でも出没した、まさに東日本大震災で原発避難留守家庭に空き巣に入る人非人とおなじだ

内閣も国民の不満の矢面に立ち、まったく冴えないのに加えて、皇室でも前例のない振る舞いが取り沙汰されている昨今、日本人の行く末はいままで以上に心配される

 

うちは、山形県の地方TV局を視聴しているのだが…… 

このあいだ、こんなアナウンスがあった、

「夕暮れ時に、高齢者が犠牲です」

NHKではないが、ちゃんと難関のアナウンサー試験を通り抜けた秀才たちにして、この言葉遣い…… 

電車の中吊りを読み上げているわけじゃないんだよ

なんで、話し言葉(口語)で「高齢者が犠牲になりました」と言えないのか

そー言ったほうが、動的な表現になり、視聴者は即座に理解するであろー

原稿を書く報道局メンバーの見識が、すでにこのレベルに落ちてしまっているのだ

いまや、東京のキー局でも、この新聞見出しを読み上げるよーな、体言(名詞)止めの言い方に「です」を加える短縮文が横行している

いまの40代あたりの中堅アナウンサーが、「では、次です」とか言う表現を常態化してしまったのだ

この世代は、飲食チェーン店での「注文の方、よろしかったでしょうか?」とかの可笑しな日本語を流行らせた世代でもある

「団塊ジュニア世代」あたりか……  ほんとにもう日本を潰す気なのか

マツコは割合キレイな日本語を話すが、キムタクとか中居くんとかはガキっぽいとゆーか、スラング的な日本語を芸能界に持ち込んだ輩である

それを、その下の世代は真似するから、おかしな言葉が蔓延する

音の響きが耳に心地よく、流れるよーに滑らかな日本語が聞きたい、特に女性のコトバは乱れている

 

いま総裁選に出ていらっしゃる高市さんとか、もとアナウンサーの桜井良子さんとかは、語り口に信用がおける

女性は、まわりに合わせる性分だから、朱に交わるのも早い、たやすく汚染されないよーに注意してもらいたい

きのうの長文「しないこと」の見者ドン・ファン・マトゥスが、雄性には決して真似できない雌性のずば抜けた生命力を詩にしているので、紹介します

 

“ 非情に、しかし魅力的にな。

狡猾に、だが気持ちよく。

忍耐強く、だが活発に。

やさしく、だが容赦なくな。

女だけにそれができる。

 

ー非情さが苛酷さに

ー狡猾さが残酷さに

ー忍耐が怠慢に

ーやさしさが愚かさに

なってはならない

 

‥‥ オンナのもつ大地母神の性は、みずからを地縛天使(アース・バウンド・エンジェル)の地位に押し込めがちだが、その潜在力を存分に発揮すれば、

「大自然と同位に立つ」(G. アダムスキー) のは、さして難しいことではない

『日本沈没』を著した理系作家・小松左京も、こー云っている

> 「 自分は ただ土であって要するに人を生み出す役である。なぜ人を生み出すかといったら、生み出した子供が 要するに宇宙を理解したり、宇宙を動かして知るために生み出したんだということがわかっている 『母そのもの』 のような人もいるんです。たいへん大きな女の人がいると思うんですね。」

 

わたしの母もそーだった、昔の女性は単に「男尊女卑」の慣習に仕方なく従って暮らしていたわけではない

女性としての性の強さ(したたかさ)を分かった上で、わが愛息を厳しく育てた女丈夫もいくらでもいた

「泣くんじゃありません、強くなりなさい」とゆー激励は、男の性の意気地のなさ、脆弱さを熟知しているが故の初期教育だったのだから…… 

自分の会社が潰れると自殺するよーな男性社長にならないよーに、何としても生き延びる生命力を母は息子に身をもって教え、生きている限り息子を支え続けた

オトコは、ほぼ例外なく、そんな 大母性 (聖母性)には仕えるものだ

         _________玉の海草

 


 シンプルな極意〜  「しないこと」 

2021-09-15 14:42:07 | 小覚

__メジャーリーグの大谷選手は、外でのフリー・バッティングをしなくなった

外で打つと、「もっと遠くへ」と飛ばしたくなって力みが出るからだと云ふ

同じよーに、投球練習も「投げ込み」をしなくなった

監督から「練習のし過ぎ」を戒められているのもあろーが……    大谷選手は練習では100%に持っていかないで、本番で100%のパフォーマンスが出来るよーにしている

この「しないこと」には、単に「練習をしない」ことに留まらない、幾つもの次元が錯綜するが、ここに奥秘があるよーに思えてならない

 

 

その一方で、過剰に「する」とゆー方法論もある

ミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄 は、打撃スランプのときに、ただ只管にバットを振り続けたそーだ

もー疲れ切って、バットを持つのさえ辛い状況に追い込まれる

そーした時の、力みの脱けた一振りに、彼の懐く「会心の一振り」が顕われて、その感触を覚え込むとか聞いた

これなんか、剣術の一刀流に伝わる奥義「夢想剣」と同じ消息なんじゃないか

天覧兜割りを成した榊原鍵吉の後継者で、名著『日本剣道史』を著した、直心影流の山田次朗吉は、当時一橋大学生だった大森曹玄老師に教えを垂れて…… 

延々と木刀を振らせ、意識は朦朧として、もはや振り上げるのも敵わないほど衰弱しきったのちに、スゥーと無心に繰り出した大森氏の一振りをみて、「それが夢想剣じゃよ」と仰ったそーだ

剣にしろバットにしろ、シンプルな自然な素振りは、何かを新たに付け足すことよりも、無駄を削ぎ落とすべく「しないこと」によって確立されるよーな印象をうけた

 

さて、ここでメキシコのヤキ・インディアンを名乗る年老いた賢者、類まれな「見る人」の語る世界描写に耳を傾けてみよー

彼の「見ること」は、仏教的にいえば「観る」に相似た、霊視の如き側面もある、度外れた神秘観である

その、メキシコ・トルテックのブルホ(呪術師) ドン・ファン・マトゥス を紹介した、文化人類学者の カルロス・カスタネダ の著作からその辺の消息を窺ってみよー

こんな決定的な言及があるからだ

人は一度あるレベルの自分の力を得れば、運動とかどんな種類の訓練も不必用になる。

なぜなら完全無欠の形をとるのに必要なことは 「しないこと」 をするだけなのだから。

 

‥‥ いわゆる先進国に暮らす吾々が、つねに浴びせかけられている膨大な情報量、われ知らずに「洗脳」みたいな指向性のある意識操作も受けているかも知れない

そんななかで、しなくてもいいことを選別するのは、あるいは「しないこと」を選択するのは、思うほどカンタンでもないよーだ

先述のドン・ファンが、家庭生活と学校生活そして卒業してからの社会生活について、いかなる所見を抱いているものか、先ず聞いてみよー

 

> 子どもと接するおとなはみな、

たえまなく世界を描写する教師であり、

その子が描写されたとおりに世界を知覚できるようになるまで、その役目を果たしつづける。

…… わたしたちがその驚くべき瞬間を覚えていないのは、ただ それと比較すべき対象がなにもないからなのだ。

…… 子どもは、その瞬間から【メンバー】になる。

その子は、世界の描写を知っている。

 

> 世界が世界であるのは、それを世界に仕立て上げる仕方 「すること」を知っとるからなんだ。

「すること」が、おまえにその小石と大きな石を分けさせるんだ。

戦士はいつも 「すること」 を 「しないこと」 に変えて、「すること」の作用に影響を与えようとするのさ。

世界は感覚だ。

 

> あらゆるものに それ以上のものがある。

世界は使われるためにある。

わしらが毎日見とる世界は たんなる描写にすぎん。

 

[ カルロス・カスタネダ 『イクストランへの旅』 真崎義博訳 より引用]

 

 

 

‥‥ つまり、人間社会とゆーものが吾々に強要する「ある見方」を覚えこむことが、取りもなおさず「教育」と云われるもの なのだろー

社会制度を成り立たせる「共通認識」と、われわれの本能に基づく「人間本来の生き方」との間に齟齬があるから…… 

社会VS反体制(=個人の自由)の構図のなかで、わたし達は明確に線引きして同じ土俵に上げなかった、曰く「社会常識」と「個人の悟り」

 

ートルテックの「見る者」ドン・ファンは云ふ

>あそこにある、あの岩が岩であるのは 「する」 からだ。

見つめることは 「する」 ことだが、

〔トルテックの〕見ること 、それは 「しない」 ことなんだ。

あの岩が岩であるのは、

おまえがやり方を知っとるすべてのことのせいだ。

わしが 「する」 ことと言っとるのは、そのことだ。

たとえば、知者なら岩が岩なのは、「する」 ことのためだってことを知っとるから、岩に岩であってほしくないときは、

ただ しなければいいのさ。

世界が世界であるのは、それを世界に仕立て上げる仕方、「する」 ことを知っとるからなんだ。

世界を止めるためには、

「する」 ことをやめにゃいかん。

 

>日常的な世界が存在するのは、わたしたちがそのイメージの保ち方を知っているからで、

逆にもしそのイメージを保つのに必要な注意力をなくしてしまえば、世界は崩壊する。

[※  引用同上書より、上記文中〔〕内は私挿入]

 

‥‥ この「すること」を止める、「しないこと」にとどまるのは、あたかもヒンドゥー・アドヴァイタの道における 「概念(観念)化を止める」 消息と酷似していよー

つまり自我を脱して、本来の真我に還るとゆーことになるか

無としてあることで、私はすべてなのだ。

> 探すということ自体が見つけるということを妨げるのだ。

> 真我は近くにあり、それへの道は易しいものだ。あなたがすべきことは、ただ何もしないということだけだ。

[※  ニサルガダッタ・マハラジ 『 I AM THAT 〜私は在る』 より]

 

 

わたし達は、コミュニケーションに便利なコトバとゆーものに宿命的に縛られている、

つまり 言葉=観念 にがんじがらめにされている

言葉の生まれる以前に立ち還らないと、「しないこと」が意識できない

大谷選手と同じで、「練習しすぎ」ならぬ「概念化しすぎ」で固定化された認識しか持てないのは、生きる上で致命的な欠陥となろー

マルティン・ハイデッガーは「決めない(決定しない)ことにも勇気が要る」と云ったが…… 

白黒つけたり、新しい専門用語を産み出して区別分類したりして、やれ学問だ科学だと言っているうちに…… 

次々と概念を足していって、複雑系におちいり、にわかに収拾がつかなくなる

老子じゃないが、減らしてゆく処に真実に近づく道がある

その点で、「数学」は抜きん出ていて、グルジェフの云ふ「客観科学」と言えるかも知れない

量子力学においても、観照者の有無が影響を及ぼすのだから、「しないこと」も当然関わりがあろー

 

おそらく、ずば抜けた達人やアスリートは、この「しないこと」に目覚めている人なのだろー

凄腕の職人でもしかり、普通の職人が拘らない処に徹底して拘るあたりに、「しないこと」が潜んでいるよーに勘ぐっている

この「しないこと」を奥義としたのが、かの 「無住心剣術」 ではないかと思う

ただ頭上に太刀を引き上げて振り下ろすのみとゆー、至極単純な剣理なのだが、当時敵する者はいなかったほどに強かった

千回試合して無敗なんて、それまでの塚原卜伝とか宮本武蔵の生涯仕合数と比べても異常な対戦回数である

新陰流から派生した「無住心剣術」は、「禅」をアメリカに紹介した禅マスター・鈴木大拙 もお気に入りの剣術で、著作のなかでも触れている(なんと、この幻の「無住心剣」をアメリカの読者は知っているのだ)

たがいに相競って「相討ち」が普通なのに、無住心剣では極意が「相抜け」 で、双方無キズで仕合が終わる

大拙は、「相抜け」に禅の妙味を観た、なるほど無住心剣術は流祖・針ヶ谷夕雲が参禅悟道して開いた流派で、「無住心剣術」の名前も『金剛般若経』の「応無所住而生其心」から参禅の師が付けてくれたものだ

 

まー、強引にククルと「真理はシンプルである」とゆー命題を後押しする重要なひとつが「しないこと」であるとは言えまいか

ただ、人は「しない」とゆー否定的な指針で生きることは出来ない

結果から顧みて、帰納的に「しないこと」の意味を納得することは出来るが、脳の構造からも「否定形」をモットーにして生きることは難しい

だから、厳密には「する/しない」の「しない」ではないのだ

見つめるのではなく、ぼんやりと全体を「見る」、いわゆる「遠山の目付け」 と似ているよーでもある

この逆説的な消息は、ケーベル博士『神と世界』にも言及があった

《神は在る》 は即ち 《神が在る》 ことである。

 《神は無い》 はこれも又 《神が在る》 ことである。

 

‥‥ ケーベル博士の「神」を「実在」あるいは「存在の栄光」と言い換えてもよいとタルホは云っていた

「神はいない」と言える土台は他ならぬ「神の恩寵」により現出しているとゆーか、設定されていると言えよーか

 

 

‥‥ まー、「する」「しない」 を人間の本性から根本的に選ぼうとするとき、盤珪の「不生」は大事だと思う

 

【画像= 盤珪禅師の書、「不生」の仏心】

 

「万事は、不生でととのうものを」 、と云い切った盤珪の「不生禅」は、白隠よりわずかばかり先に生まれ、独特すぎるあまりに後継者もなく絶滅してしまったが…… 

不生(生まれないもの)は、不滅(滅しない)

始まりがあれば、終わりがある

始まりがなければ(不生)、終わりがない(不滅)

生まれるものは死ぬものである

生まれないもの(不生)は、死ぬことがない(不滅)

その「生まれないもの(不生)」が、存在と呼ばれるものである

まー、「実在」でも「真我」でもよいが

禅でゆー「父母未生前の本来の面目」である

ここから「私は在る(存在する)」にゆきつく

父母未生前(両親が生まれる前)に私が在るのならば、わたしは「生まれて」はいないのだ

存在とは、生まれるものではない

この「不生(=不滅)」の存在性に、盤珪さんは「仏性」を観たのですね

じゃあ、わたし達もそこに「神性」を観てもいいと思います

ここらへんまで、認識を拡げないと「しないこと」に触れ得ない感じがします

 

 

いまや、ほとんど読まれることも無くなったよーだが……  このカスタネダとゆー作家は、最初は UCLA の文化人類学者として、フィールド・ワークの一環として最初の著作『呪術師と私』を書いた学者畑の人間である

 

この本が出版された年(1968年)は…… 

映画 『2001年宇宙の旅』 が公開されたり、LSDやマリファナ、ヒッピー達の奇行が流行っていたり、いわゆる「ニューエイジ運動」の渦中にあった

 

カスタネダの処女作も追随するよーに、当初はドン・ファンとゆー怪しげなインディアンから幻覚誘発性植物「ペヨーテ」や「デビルズ・ウイード」などの処方を聞いて、マインド・トリップするよーなフィールド・ノートになっていた

 

しかし、長い間ドン・ファンと伴に過ごすうちに、この得体の知れない男の持つ「知の体系」に取り込まれていって仕舞う

 

ドン・ファンは、ヤキ族のインディアンを自称したが……詳細に訊ねると、古代メキシコ (トルテックのシャーマンの流れを汲む ブルホ  ( brujo =呪術師・医者等の意)    であることが分かった

 

その軽妙洒脱で、深い人生経験による認識から紡ぎ出される語り口は、私の内ではグルジェフに匹敵する

ユーモアたっぷりだが、凄みのある怖さが漂う

 

彼は自らをナワールと称し、超越的存在にして人間の意識を糧とする『イーグル』に呑み込まれないように闘う 「自由」 の戦士であるとの記述や……  

独特の世界観の中で、地球には48本の帯があるといった記述が……  不思議にも、グルジェフの「月の捕食」や水素表の48番に符合する

 

かれらの「知」に参入している先達は「ナワール」と尊称されている、この「ナワール」は吾々の認識している世界「トナール」と対になるものである

 

ナワールの世界の奇譚は、物語としても一級の読み物の価値があると私は観ている

「非有機的存在」 とゆー、いわゆる「悪魔」の原型なのだが、現実世界からみれば荒唐無稽な設定にしても、そぞろに生々しい恐怖(閉じ込められた意識の恐怖) が感じられ、ラブクラフトの『クトゥルフ神話』に優に匹敵しよー

 

ナワールとトナールを往き来する、不死性をもった伝説のブルホ、極めて妖しげな術者も現れる

 

ドン・ファンを育てた先師、ナワール・フリアンやナワール・エリアスの人物描写も冴えた筆致で……

ブルホ仲間のシルビオ・マヌエルや女性修行者のラ・ゴルダや強烈なドニャや優雅なフロリンダ等と頭の堅いカスタネダとの諍いや遣り取りは頗る面白かった

 

スペインの侵略と占領による酷政に立ち向かったことから、メキシコのトルテックは「小暴君」への対処法を援用して、非有機的な「盟友」と付き合う方法を会得してゆく

 

上記の「しないこと」発言は、その暴君(現地人の命など気にも留めていないスペイン人侵掠者)の圧政下に発動したわけで、命懸けのトライアルであったことを忘れてはならない

単なる言葉の遊びや、観念の遊戯などでは微塵もないのだ

それ故に、この深い叡智は何処からもたらされたものなのか? 長い間疑問だった

 

このカルロス・カスタネダの一連の著作群「呪術師ドン・ファン」シリーズは、作家 吉本ばなな 女史のぞっこん愛読書でもある

 

 

 

伊勢白山道の見立てでは、ばな子女史は歴代卑弥呼に仕えた第一巫女であった

「卑弥呼」とは中国側からの蔑称表記で、正式には「日見子」 である

当時、日見子は三輪山に参拝して祈りを捧げていたから、大物主の大神に仕えた巫女が「ばな子(ばななさんのHN)」さんであったわけである

大物主大神は、伊勢白山道に拠れば、地球規模の大精霊(宇宙から飛来した)で、インカ・アステカ文明の生け贄を求める大神とご同体との事

 

メキシコのトルテックも、トルテカ文明(9〜12世紀)とかでアンデスやマヤと同源であったはずである

まー、『ジョジョの奇妙な冒険』にあらわれる「石仮面」の文明でもあるわけで、奈良の桜井あたりの三輪山でも血に塗れた暗黒の歴史があるのである

皇女倭姫命は、それを嫌い、三輪山から伊勢の地にご遷宮なされたものだと聞く

宇宙規模のケツァルコアトル神(「羽の生えた蛇」)の大蛇形象、大神神社の眷属も巨大な黒い大蛇で、三輪山を七回り半するくらいの日本最大の眷属神だと云ふ

で、世界的な霊能者と対談しても、影響をうけるどころか、相手の霊能力を無力化してしまうほどの霊力をお持ちだとゆー吉本ばなな女史(伊勢白山道の審神による)は、やはり霊的に近いものをお感じになるものか、トルテックを継ぐカスタネダに心酔なさっているのである…… カスタネダ本の帯に推薦文までお書きになっている

【ご神体が三輪山そのものである大物主大神は、マヤ・アステカ文明などの大神・ククルカンと同体であるらしい。地球規模の大神霊で、どの系統の神にも属さない別格のご神格。宇宙からのマレビトであったのだろう。】

 

そこで、ドン・ファンの実在について、伊勢白山道に質問投稿して訊ねてみたことがある

応えは、土着信仰の霊力をもった無学な人物(実在した)を参考にして、ドン・ファン像を創り上げたそーです

 

日本でも内宮の「天照太御神」は土着信仰であるし、連綿と受け継がれて来た土着の信仰とゆーものは、大地(国魂)に根差すだけに意外に深い奥行きを持つものかも知れない

因みに、外宮の「白山神」は地球全体を覆うレベルの神霊であるそーである

 

ドン・ファンの知の体系(メキシコのトルテック由来)、

ヒンドゥー(インド)に連綿と伝承される非二元の体系、

グルジェフのスーフィー(イスラム教)やチベット密教などを統合した知のシステムはいずれも、

一様に人間の「自らを縛りつけたリミッター」を解除する智慧を伝えているよーに思えてなりません

「しないこと」に含まれる叡智には、底知れない広がりがあります

 

ー最後に、実際的にわたし個人にとって「正しいこと」とは何かを決める貴重な目安として…… 

ブルホに伝わる深妙な選定法を記しておきましょー

ヘナロが言うには、

 

【正しい選択か 間違った選択しかない】のだそうだ。

・間違った選択をすれば、身体でそれがわかる。

・正しい選択をすれば、身体がそれを知り、緊張がとれて、選択が行なわれたことをすぐに忘れてしまう

 

すると、そうだな、ちょうど銃に新しく弾薬をこめなおすように、つぎの選択にたいして身体の準備がととのうのだ。

[※  ヘナロとは、ドン・ファンと同じ系統の「見者」で、愉快この上ない陽性のナワール、「ドン・ヘナロ・フローレス」 のことである]

 

‥‥ なるほど、「忘れる」とゆーことには大いなる恩寵が働いている

「忘れられる」とゆーことは、天の摂理の自然さ(=正しさ)に順い、身を任せて安心しているとゆーことを意味しているものかも知れない

         _________玉の海草

 

     

 

 

 


《ちょい言》 心やすらぐCM〜 最近疲れてんのかな

2021-09-11 18:01:13 | TV・CM

__惚けた母の好物が、刺身(関西では「お造り」ゆーな)だから、おっつけ近年気になる寄生虫「アニサキス」 には注意を払っている

灯りに透かして、刺身の両面をつぶさに点検しているが……  色のついた例えばマグロなどは見つけるのが難しい

いきおい、鯛などの白身魚になるのだが…… 猛烈な痛みを伴うとゆーアニサキス・アレルギーに「正露丸」が効くとは真実なのだろーか?

アニサキスの特効薬として、世界初の「正露丸」

おもしろい展開になって来ている、ひところあんなに「劇薬」だと騒いだのに、一転天下をとる塩梅、なんたるちや〜サンタルチヤ

引用ソースはこちら…… 

OGPイメージ

正露丸は「寄生虫アニサキス」を殺す世界初の特効薬だった - ナゾロジー

刺し身好きにとって恐怖の寄生虫アニサキス 日本人にとっては欠かせない食文化である「お刺身」。 しかし、サバやカツオといった魚介類にはアニサキ...

ナゾロジー

 

 

 

おもしろい序でに、「してやったり感」の凄く可愛い奥さんを演じている女優に舌を巻く

あの顔はないよ ♪ 〜 娘からは「ママ、天才💯!」、旦那(ムロツヨシ)からはしみじみと「愛してる♥️」と、満面の笑みを浮かべた賛辞を浴びせられたときの「にっこり顔」が、こんなにも似合うひとは、このひとをおいていない❗️

【画像:鹿児島県出身の野村麻純(ますみ)、ミツカン『味ぽん』 “してやったり編” のCMより】

😊 笑うと、三日月型になる眼がよい ♪

 

CMのリンク▼ 味ぽん「してやったり編」

【残念なことながら、ミツカン公式チャンネルでこの動画が「非公開」になってしまったようだ、よって個人のチャンネルにリンクさせてもらった。左上に時間表示が出ます ♪】

 

 

もひとつ、怪しげでヒジョーに気になる、社長とその愛人めいた 通販CM…… 

福島県郡山市ご出身の 石田社長 の東北弁、間のびしたよーな脱力感のある口調なんだよネ

アシスタントの女性は、実力派演歌歌手の 保科有里 さんなんだが、たしかカラオケ・マイクの紹介の回から出演していらっしゃると思う

お声は艶っぽく、歌はバラードとか聴くと実に見事な声量でもって、しんみり聴かせてくれる本格派シンガーなんです

ところが、社長に躊躇なく甘えて、値引きさせるスタイルが好評だったらしく、そのままアシスタントに抜擢されてしまったとゆー、強運(?)の持ち主である、昭和のスナックのママ感とゆーか 姐御 が半端ないとも云われています

 

今回紹介する「夢最新通訳機」では、社長と彼女の掛け合いが素晴らしく、妙に可笑しい風情が漂ってくるんですね

社長が、「すんばらしい商品です ♪」とか「マイ・ホビィ・イズ・とらべり〜〜ん ♪」とか、長身であやしげな髪型(ズラ)と覇気のない仕草と脱力した囁き口調で楽しませてくれています

ご商売が、中国・香港との取引がメインなので、「マスク」販売のときも、なにやら独特の雰囲気で紹介なさっていた

もともと、芸能プロダクション「夢グループ」の社長さんで、大御所の歌手を何人も抱えている大手なのだ…… [※  BSフジで、金土日に5分間番組『石田社長の歌が大好き』を放送しておられる]

 

通販に取り組んで最初の頃は、「なんだ、あのダサい田舎くさいモデルは、もっといい司会をつかえ」とか、クレームが多かったそーです

それでも、けっこうヒット商品を生み出して(オリジナル開発商品なんですね)、実績も伴ってくると、唯一無二の独特すぎるCMに注目が集まってきました

なんか、押してこない、素朴な(安っぽい?)昭和の味わいが濃厚なんですネ、これは今の時代かえって貴重な番組つくりなさっているのかも知れません…… 知らんけど

まー、見たことない人は、いっぺんご覧になってみて下さい

 

夢グループ 夢最新通訳機CM

「夢最新通訳機」のご注文はコチラから! https://yumeg.com/shopdetail/000000003143

youtube#video

 

 

ー う〜む、このスベっているよーな、町内会長の連絡のよーな独特の間が、「売らんかな」の通販司会者にはない、独創的な味わいがあります

最近になって、モノマネ芸人の「神奈月」と「ミラクルひかる」が、YouTube で「夢グループ」通販のモノマネをコンビ芸として披露していました

とにかく、お祭りのお化け屋敷に通じる「怪しさ・妖しさ」が何ともいえず、微妙に童心をくすぐります

日本のCMは、金かけてもかけなくとも面白い

30秒〜1分、2分間で世界を変える短い詩(俳句・短歌)の仲間なのかな

         _________玉の海草