『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

  「わび・さび」 の淵源〜 冷えさび🧊(心敬) なんだって

___満月を愛でる風流ではなく、「冷え寂び」と参りましょー

日本人はいつから、この冷やかな艶を愛でるよーになったのか?

 

 

(拙稿)>川端康成のノーベル賞授賞講演『美しい日本の私』で、広く世に知られるよーになった、道元さんの御歌

はるは花  なつほとゝぎす  あきはつき  ゆきさえて (すず)しかりけり」

この歌は、ご尊父と云われる源(土御門ツチミカド・久我コガとも)通親の

は花  はうつせみ  は露  あはれはかなき  の雪かな」

を元にしていると考えられている

幼くして、ご両親を失なわれた道元さんである

8歳で死に別れされた御母堂・藤原伊子は、バツイチで前夫はかの木曾()義仲であった

この母御は、冬姫 とも呼ばれたと云ふ

上記の御歌「春は花〜」は、こーした事情からすれば、なんとも親思いの歌のよーにも受け取れるが、さにあらず

 

> ……  日本は長らく「冬」というものを見つめる深い文化をもっていなかったんです。

意外なことに、『万葉集』から『古今集』『新古今集』まで見ても、

「冬」の歌はたいへん少ない

それがこの日本禅の時代の到来とともに、『ささめごと』を書いた心敬(しんけい)という連歌師と、そして道元とが「冬の美」というものを決定的に発見するのです。

[※  松岡正剛・連塾『神仏たちの秘密』春秋社-より]

 

‥‥ 道元さんは、冬を含めて四季のすべてを愛した魁と云えるかと思う

「わが庵は こしのしらやま(越の白山) 冬ごもり (こほり)もゆきも くもかゝりけり」

「なつふゆの さかひもわかぬ 越のやま 降るしらゆきも なる雷も」

「をやみなく ゆきはふりけり たにの戸に はる來にけりと 鶯のなく(鶯ぞなく)

 

たとえば道元は「冬の美」(唐木順三『無常』よりを発見した。

冬の風景には何もない。だからこそ花や緑や紅葉を、春でも秋でも自由に想像できることになる。

春と秋を感じるために道元は、あえて冬に日本の美を見出そうとした。

これは連歌師・心敬の「冷えさび」にも通じる。

心敬は本当の「さび」や「わび」、また数寄も「冷えさび」から始まるともいった。

[※  引用元同上、()内は私挿入]

 

…… 命の萌え出ずる春や、結実して枯れゆく収穫の秋に心を寄せる生命讃歌はゆーまでもなく美しい

開放的になる夏の風情もたまらないものだが

冬となるとどーだろー?

私は東北に住まいし、寒さに生命の危機を感じとるが故に、ドラマ『北の国から』の雪景色すら単純に美しいものとは到底思えない

うら悲しい、鈍色の川面や視界を遮る吹雪に、冬とは何より冷たく凍えて寒いものと決めつけて来た

それが、なんと 冷え寂び ですって!

 

 

◆ 冬枯れの「冷え然び」

日本語には「寂しい」とか「少女(おとめ)さびる」とか、俳句や茶道などでいう「わび・さび」とかいうことばがある。

じつはこれらすべては、鉄の(さび)と同語なのである。…()…

そもそも「さびる」とは「然びる」ことで、それらしくあることをいう

[※  中西進『美しい日本語の風景』淡交社-より]

…… この日本独特の「さび」に当てる漢字として、かの「ねずさん」も「然び」の漢字を遣っておられる

建築家の村野藤吾の造った、鉄筋コンクリの茶室(現・目黒区総合庁舎)には、「わびさび」の風情に添うように、「コールテン鋼」(緻密な保護性錆を形成することで、以降の錆の進展を抑える)の安定錆びをそのまま利用している

 

 

「冷え然び」年表 

◆ 万葉集(770年頃に成立?)

「侘寂」の心情の初出については、

わび・さび - Wikipedia 「わび・さびの語源と用例」の項参照

 ↓

◆ 源信明(みなもとのさねあきら、910年生れ)

三十六歌仙

「ほのぼのと 有明の月の月影に 紅葉吹きおろす 山おろしの風」

 ↓

◆ 西行法師(1118年生れ)

とふ人も おもひ絶えたる 山里の さびしさなくば 住み憂からまし

 ↓

◆ 藤原俊成(1114年生れ)〜「寂び」の美を発見

◆ 藤原定家(1162年生れ)〜俊成の子、

『新古今和歌集』撰『小倉百人一首』撰

「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」

 ↓

◆ 華厳宗の明恵上人(1173年生れ)

「雲を出でて 我にともなふ 冬の月 風邪や身にしむ 雪やつめたき」

 ↓

◆ 永平道元(1200年生れ)〜「冬の美」

 ↓

◆ 吉田兼好(1283年生れ)

『徒然草』(1330年頃)

花はさかりに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは

(うすもの)は上下(かみしも)はづれ、螺鈿(らでん)の軸(じく)は貝落ちて後こそいみじけれ

 ↓

◆「能」の世阿彌(1363年生れ)

「冷えたる曲」「冷・凍・寂・枯

銀の(わん)のなかに雪を積む

 ↓

◆ 連歌の心敬(1406年生れ)

「冷え寂び」「冷え枯れ」「冷艶」「ひえ・さび・やせ」枯れかじけて寒かれ

歌を詠む際には「枯野のすすき」「有明の月」(源信明の歌)のような風情を心掛けよ

「かたりなば そのさびしさや なからまし 芭蕉に過ぐる 夜半のむら雨」

 ↓

◆ 連歌の宗祇(1421年生れ)

(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心

  

◆「侘び茶」の村田珠光(1423年生れ)

〜一休禅師より印可、心敬に影響をうける

月も雲間のなきは嫌にて候」「冷え枯るる

    ↓

「香道」の三条西実隆(1455年生れ)

〜宗祇より「古今伝授」

 ↓

◆ 武野紹鷗(1502年生れ)

〜三条西実隆より藤原定家『詠歌大概』の序巻の講義を受けて,茶道の極意を悟る

 ↓

◆ 千利休(1522年生れ)

「炭の花」

「枯のこる 老木の桜 枯折て 今年ばかりの 花の一房」

 ↓

◆ 俳諧の松尾芭蕉(1644年生れ)

「さび(寂)・しをり(撓/萎)・ほそみ(細)・かるみ(軽)」

「この道や 行く人なしに 秋の暮れ」

 ↓

    ↓

◆岡倉天心(1863年生れ)

『The Book of Tea(茶の本)』

茶道の根本は “ 不完全なもの ” を敬う心にあり

 ↓

◆柳宗悦(1889年生れ)

「民藝」運動の中で、「用の美」

_ . _ . _ . _ . _ . _  

「冷え然び」年表 (ここまで)

 

 

 

‥‥ 歴史年表的に概観した処で、「冷え寂び」の心敬とやらの歌を味わってみよーではないの

 

水青し消えていくかの春の雪

朝すずみ水の衣かる木かげかな  (水の衣=氷)

山深しこころにおつる秋の水

日を寒み水も衣きるこほりかな

梅おくる風は匂ひのあるじかな

心あらば今をながめよ冬の山

雲はなほさだめある世の時雨かな

 

          散る花にあすはうらみむ風もなし

          朝ぼらけ霞やちらす花もなし

          散るを見てこぬ人かこつ花もなし

          夏の夜は草葉を夜の露もなし

 

          

 

氷は水より出でて水より寒し。藍はあゐより出でてあゐより青し。にほひは色より艶ふかし。」

 

「心もち肝要にて候。常に飛花落葉を見ても草木の露をながめても、

此世の夢まぼろしの心を思ひとり、ふるまひをやさしくして、幽玄に心をとめよ」(『心敬僧都庭訓』)

 

氷ばかり艶なるはなし

苅田の原などの朝のうすこほり。古りたる檜皮の軒などのつらら。枯野の草木など、露霜のとぢたる風情、おもしろく、艶にも侍らずや」(『ひとりごと』)

人の世は 花もつるぎの うゑ木にて 人の心を ころす春かな

 

 

‥‥  茶の心を代表する和歌として歴代宗匠から愛されたのが

「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」 (藤原定家)

この歌は、明らかに

「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」 (西行)

の影響下に詠まれているそうである。

 

定家卿と西行法師は、年齢的に40歳位の差があるが…… 西行のことは歌人の先達として高く評価している。

 

「なかりけり」との否定は、ありし世をあったであろう花を喚起させないと叶わない。

二重写しの情景が、墨絵のごとき朧な移ろいをもって幽玄境にみちびく。いわば無のなかに美を見いだす徹見であろうか。

 

【『新古今和歌集』は、西行と定家の饗宴の場】

 

 

__ 相似た消息が、芭蕉の俳句にも見られる

 

閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声 

 

あたりに響き渡る蝉の音があってこそ、山寺の草深い参道の森閑たる佇まいを際立たせる

この、目の前に何もない〜心がありし日を映す〜廃墟に佇み去来する感じが、お日様の照り返しが烈しい夏のお昼頃に揺らぎ出る「陽炎」の風情に重なります、ひとことで申さば「俤〜 於母影〜 面影」とゆーことでありましょー

夏草や つわものどもが 夢の跡 (芭蕉)

 

松尾芭蕉には、忍者疑惑がありますが……  それだけ旅の空が多かった人だったわけで、

和歌の西行、連歌の宗祇(師匠の心敬もまた)、俳諧の芭蕉…… 

いづれも【漂泊の人】

旅人の生を送った人です

芭蕉は、ご自身が日本の連歌の本質を正しく継いでいるとゆー自負があったと思います

西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり (松尾芭蕉『笈の小文』より)

 

 

松尾芭蕉『嵯峨日記』より> 

廿二日

朝の間雨降る。けふは人もなく、さびしきままにむだ書きしてあそぶ。

其のことば、

喪に居る者は悲(かなしみ)をあるじとし、

酒を飲むものは楽(たのしみ)()あるじとす。

さびしさなくばうからまし」と西上人のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。

又よめる、

山里に こは又誰を よぶこ鳥

(ひとり)すまむと おもひしものを

独住(ひとりすむ)ほどおもしろきはなし。

長嘯(ちょうしょう)隠士の曰く、

「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と。

予も又、

うき我を さびしがらせよ かんこどり

とはある寺に独居(ひとりい)て云し句なり。

 

 

‥‥ 西行法師の御歌については、こんな英訳もされてある

> とふ人も おもひ絶えたる 山里の

さびしさなくば 住み憂からまし      (西行)

A mountain village

Where there is not even hope

Of a visitor

--

If not for the loneliness,

How painful life here would be !

(*ドナルド・キーン『日本文学の歴史』中央公論社-より)

 

‥‥ ドナルド・キーンさんは、外国人ながら谷崎潤一郎に日本語の文章を認められたり、東日本大震災の後に日本に帰化なさったりと、私も一目おいているのだが、この英訳はいただけない感じがします

芭蕉の逸話でこんな消息を伝えていたからです

下伏に つかみわけばや 糸桜

という句を去来が「糸桜の十分に咲きたる形容よく言ひ畢ほせたるにあらずや」と賞賛したのに対して、芭蕉は、

   「言ひ畢ほせて何かある」

と答えたという。去来はそのとき初めて肝に銘じて「発句になるべきこととなるまじきこと」を知ったと回想している。

‥‥ 「言い尽くして、あなた、どーなるん?」と鋭くツッコんだんですね

芭蕉の本気が窺えるエピソードであります、心敬の言葉が自分の深奥に刻み込まれてあるのでしょー

 

> 「言わぬところに心をかけ、冷えさびたるかたを悟り知れとなり。境に入りはてたる人の句は、この風情のみなるべし。」(心敬)

「つくるよりは捨つるは大事なり」(『ひとりごと』)

‥‥ 俳句では「説明している句」はNGとゆーもんな

説明や感嘆句なんか無用、その空気感を「余情」を漂わすものなんですね

 

俳句にあっては「人間の眼で見るな」(中沢新一)ということなんですね。

「大自然と同位に立つ」(G.  アダムスキー)というか、一歩退いたというか離れた地点から冷徹に愛でるといった視点が「冷えさび🧊」にはありますね。

日本人はスミに置けないですね、いわば 欠如・欠落の内にも美を見い出す 変態ですね

こんな日本人ですもの、経済大国から没落しても何ら問題ないのかも知れません

洛外に住んで、洛中の真・京都人からは距離をおかれている(つまり馬鹿にされている)とびきりの風流人のお言葉を最後に引用しよー

 

>  私は京都のちかくで生まれ、そだちました。

もう、半世紀以上にわたり、この街をながめつづけたことになります。

そして、日本がおとろえゆく今、あえて言うことにいたしましょう。

京都にも、昔はかがやいた時代がありました。

…()…

千年をこえる歴史のなかで、いろいろつらい目にもあってきました。

今は、首都の座を東京へゆずりわたし、一地方都市になっています。

ですが、京都にすんでいる人々が、さほど不幸だとも思いません。

街としては、はなやぎがなくなりました。さまざまな指標も、低迷しているでしょう。

でも、人々はほこりをもって、もちすぎているくらいですが、くらしています。

没落の先輩として、言いきりましょう。

没落をおそれることはありません。たいせつなのは、どうやって没落していくかというところに、あります。

…()…

ねがわくは、ゆとりをもって どうどうとおちぶれたいものです

 

[※ 井上章一『没落をおそれることはない』*文藝春秋・四月特別号寄稿文より]

 

‥‥ 冷え錆び〜冷え然びって、堂々たる没落って、日本人は無敵です

日本人の本質は、しなやかにしたたか、おおらかに「ひえさび」なんですよ

          _________玉の海草

 

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