小指ほどの鉛筆

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囚われの魔人と偽りの女神(ベル兄)2

2013年03月06日 13時24分50秒 | ☆小説倉庫(↓達)
サンドラが店に来なくなった。
それ自体に関しては、なんら不思議なことや懸念などはない。
あの夜少し本性を出しすぎてしまったと思うし、もしかしたら警戒心を持たれても仕方がないと思い直したから。
それでもファベルシェはあの夜からピタリと途絶えた彼の足音を、今も耳を澄ませて探していた。
もっとも、一番問題なのはそのことを同僚達に尋ねても「あぁ、サンドラねぇ…」と濁されるばかりであることだ。
酔いつぶれているはずなのに、誰一人として口を滑らさない。
その違和感は、ファベルシェの中で気持ちが悪い程に渦を巻いている。
どうか彼の幸運の女神がその命だけでも守ってくれているようにと、あの日テーブルの下に落ちていた、冷たく歪んだコインに願う。
そんな願掛けも望みが軽薄になってきた頃、閉店作業が終わって店の外に出てきたファベルシェの前に、一つの大きな人影が立ちふさがった。
「サンドラ…さん?」
暗闇の中であろうと、その人を見間違えるわけがなかった。
ほんの数か月見かけない間に、その顔は随分と憂いや心痛に沈んだように見える。
それがこの店に来なくなった理由と関係があるのかは分からなかったが、ファベルシェはただならぬ予感に緊張を抱いて辺りを見渡した。
他に人はいないが、サンドラが慎重に口を開く様子が、なんだか秘密のようでドキドキする。
「長く顔を見せずに、心配をかけたな」
第一声はそれだった。
心配されていたと知っているところがまた憎い。
「いえ…どうかされたんですか?」
「お前には、伝えておきたかった」
バクン、と一際大きく高鳴った心臓に、ファベルシェは果たして自分が彼の秘密に喜んでいるのか、それとも憂いでいるのか分からなくなってしまう。
それでも感情を隠しながら、しっかりと耳を傾けた。
そうでなくとも、こんな静かな夜に彼の声を遮るものなどないとは思うのだが。
「創歌が見つかった。だから、俺は創士社に転職することになった」
ファベルシェはそれを聞いてすぐに反応することができなかった。
創歌というのは、ごく平凡に生きてきた自分にはあまり関係のないことだ。
それを隠しながら生きる人がいるとか、その能力を用いて仕事をしている団体もあるとかいう話は聞いていたが、あまり身近なこととは捉えていなかった。
もしかしたらこの店に来ている客の中にも、創歌使いがいたのかもしれない。
けれどもあくまでも自分たちが対応しているのは客であるから、普通の人とはなんら変わらない。そう思っていた。
人々が創歌を使う人を疎んでいる理由は、自分とは違う強大な力に怯えているからだろう。
ならば、彼はどうだ。
「本物の〝ジーニー〟になっちまったみてぇだ」
「…創歌って、番号があるんでしたよね」
「あぁ、俺のは11らしい。力を発散させて、広範囲に莫大なエネルギーを放出できる」
サンドラが拳を握って見せたことからすると、物理攻撃に使える能力なのだろうか。
ファベルシェはその拳を見つめながら、自分が暴いたはずのサンドラの心の中の柔らかいところが、突然何か頑丈なもので塞がれてしまったような気がして俯いた。
けれども、悪いことばかりではないだろう?
「そうですか…でも、よかったです。あなたが思い切り力を使えるところへ行けるのでしょう?力が強かった理由も、これで明白になりました。もう悩むことは何もありませんよ」
ファベルシェは極力笑顔でそう言おうと努力したつもりだったが、それにもいくらか無理があったらしい。
苦しそうなサンドラの表情を見て、その瞳をジッと覗き込んではじめて、ファベルシェは自分がひどく下手な作り笑いをしていることに気が付いた。
彼が能力者であったこと、そのことで動揺してしまったことは確かだ。それでも、彼らを軽蔑したわけではないし、ましてや恐れなんて感じていない。
「やっぱり、能力を使えるなんて異常だよな…」
「どうしてそんなことを言うんです!」
気まずそうに顔を背けたサンドラに、ファベルシェは噛みつくようにして怒鳴りつけた。
まさか自分からこんな感情的な声が出てくるとは思わなかった。
豆鉄砲を喰らった鳩のようにぽかんとするサンドラに向かって、更に続けようと口を開く。
けれどもなかなか酸素が取り込めない。暗闇でただでさえ視界が悪いのに、それを更にぐにゃりと歪める感情の嵐。
フィンチの欠点は、容易にレンズをズラして目頭を押さえることができないところだろうか。
「私があなたを異常だなんて思うはずないでしょう。創歌に対してだって、特別な感情はありません。決めつけないでください。自分のことを卑下している暇があるのでしたら、決意が揺らぐ前にどこへでも行けばいいんです。私に言いに来たということは、あなたは私を信じてくださったのでしょう?言いましたよね、私たちは見ていないようで、よく見ているんです。あなたの言いたいことは、そんなことじゃないはずです…!」
「ベル」
眉をひそめたサンドラは、感情を必死にこらえているように見えた。
耐えなくてもいいのに。強くなくてもいいし、弱いところなんて隠すほどのものでもないのに。
「…兵隊さんたちは、皆あなたを受け入れてはくれなかったのですか」
「アイツらは変にプライドが高いからな。こんな力は反則だと、そう言われた」
それはそうだろう。
一般人に対してはたらく力が、脅しとなっては意味がない。
その点では、サンドラが創歌使いの団体に行くということに関してはファベルシェも賛成だ。
「自分のいるべき場所がいつまでも見つからないことなんて、よくあることです」
「そうだな…だが、ベル、お前は…」
サンドラの言葉には優しい躊躇いがあった。
いつだって彼は壊してしまうことを恐れていて、壊されることも恐れていて、誰よりも普遍を望んでいるはずなのに、こんな仕打ち。
ファベルシェは、願わくば彼の運命の女神を殺してしまいたいとさえ思った。
けれどもそれさえ強く握り締めた彼の拳を優しく解く術なんて、自分にはまだ分からない。
力を望んだことなんて、これがはじめてだ。
「お前は、俺の居場所でいてくれるか」
だからその言葉を聞いたとき、ファベルシェはもう本当に泣きたくてたまらなくて、その涙を止めるために夜空を見上げた。
背の高いサンドラの瞳がこちらをずっと見つめている姿が否が応にも視界の端に映り込んで、その不安そうな様子に思わず微笑む。
「そんな、当たり前のこと」
「だが、しばらくこの地域には戻ってこないんだぞ」
「空はどこまでも広がっているとは、よく言ったものですね。連絡先を教えてください。私があなたに会いに行けばいいだけの話です」
「危険な仕事をしているかもしれない」
「それなら尚更じゃないですか」
崩れない返答に、サンドラは尊敬すら覚える。
やはり彼は意思が強くて、物腰柔らかに見えるくせに、強かだ。
きっと自分とは対称のところにいて、だからこそ互いしか見えない。
「あとどれくらいかかるか分かりません。けれども、必ず、あなたが来てくださるような店をつくります」
「店をつくるって…んな大層なこと…」
大げさだと、苦笑して見せたサンドラの表情が愛おしい。
助けてもらったあの日から、ずっと変わらないその笑顔が好きだった。
醜い感情も渦巻く嫉妬や羞恥もすべて、何もかも隠して彼に好かれようとしていた自分を、確かに知っている。
「ずっと思っていたんです。あなたをカウンター席で独り占めできる店を持ちたい、って」
「…ずっと独り占めしてんだろうに」
「え?」
ハッとして下ろしたファベルシェの視線の先は、黒いコートで覆われてしまって何も見えなかった。
強く強く抱きしめられた腕の中、彼の嫌いなタバコの香りがほのかに匂う。
「好きだ。言うのが遅くなったけどな」
「そんな…十分です!でも、私なんて本当に…本当に、あなたに釣り合うような感情を持ち合わせてなんて…」
「卑下するなと言ったのはお前だろう!お前の店が出来るのを、楽しみに待っている。ずっとだ」
真摯な瞳で見つめられて、これ以上首を横に振ることなんてできなかった。
「…はい」
ずっと、美味しいお酒を作りたいと思っていた。
心地よい空間で朗らかに話をするかつての常連さんたちを、もう一度自分の元に集わせたいと強く願っていたのだ。
そのための修行の場に甘んじてしまったことは、自分の意思に反して恥ずかしくもある。
そこから旅立つ勇気と気力を与えてくれたのがサンドラだった。
彼に自分の酒を飲んでもらいたい。カウンター席で向き合いたい。その気持ちを引きずったまま、結局何もできないでいた。
そうして結局、彼に背を押されてはじめて踏み出せるだなんて。
「それだけ言いに来た。時間をとらせて悪かったな」
パッと離れたサンドラが、照れ隠しなのだろうかそっぽを向いて腕を組む。
色素の薄い瞳が月の光を滑らせて、とても綺麗だ。その瞳の色をきっと忘れない。一生をかけて自分だけのものにする。
柔らかな微笑みを湛えるファベルシェは、あわよくばサンドラをこのまま縛り付けておきたいとさえ思っている。
けれどもそれではだめなのだ。
どうしたって、自分たちは別々の方向へと飛び出さなければいけない。
いつものように軽く手を振って去っていくサンドラを見つめながら、ファベルシェは再会を確信しているその背中に向けてそっと悪態をついた。

能力者診断に引っかかった時は、流石のサンドラも驚いた。
いつもと同じ軍の健康診断で、特別気にもかけていなかった創歌の有無を調べる項目にチェックがついていた。
何かの間違いだろうと思ったけれど、律儀に再検査の場所や専門医の紹介などが書いてあるのだから、現実を受け止めないわけにはいかない。
創歌があるということは、体内に刻翼があるということだ。
基本的な知識として知っている能力者の生態を、未だ他人事のように考える。
自分の心臓の音はいつもと変わらず少しだけ早くて、静かな場所で触れてみれば鼓動だって感じるのに。
そこに硬質の物体があるとはとても思えなかった。
サンドラが指定された検査場に着くと、そこには年若い青年が何人かと、診察をするのだろう白衣の老人が椅子に座っていた。
成人してから創歌が見つかるケースは稀だと聞いたが、確かにそうらしい。
「ジーニー・サンドラさん?」
「はい」
「貴方は11創歌ですね」
突然なんの前触れもなく告げられた創歌の番号に、サンドラはピンと来ない。
こういう時は、まず心構えのようなものをさせるべきじゃないのか?まだ断定されたわけではないと思っていたから、正直ショックだ。
「離析と解放…といっても分かりにくいですか?」
「はぁ…」
「まぁ、意味のない創歌なんてよくあることで、要は考え方次第ですよ。力を集めてから解放すれば、武器にだってなる」
「なるほど」
「なるべくしてなった、そんな気がしますなぁ。後天的な創歌発生は、そうよくあるケースじゃない」
手に持ったカルテにいったい何が書いてあるのか気になったが、サンドラにだってまるで覚えがないわけではない。
少なくとも、何か常人を超えた能力があるような気はしていた。
そうでなければ、どうして自分が〝ジーニー〟なんて呼ばれて今の今まで生きてこられたのか説明がつかないだろう。
英雄ではなかった。魔人と呼ばれた自分は、死して功績を認められたわけではない。おかげで人々の評価にこんなに振り回される。
この診断結果を同僚達に知られることが、少し怖くもあった。
大抵の一般人は能力者を嫌う。それは軍人たちも同じことで、むしろその毛嫌いは甚だしいものであることが多い。
元々の身体能力と文明が育んだ兵器で戦う兵士たちは、自分の命をひどく脆いものだと知っている。そうして不確かなものに頼らなければならない。
サンドラはふとファベルシェの言った〝運命の女神〟という言葉を思い出して、今更その意味を悟った。
その点、能力者たちは自分の命がいくら脆くとも、最も信頼のおける自分自身の力を過信することが出来る。それは大きな強みだ。
資料を持って上官の部屋を訪ねたサンドラは、辞職することを前提に話を進めた。
これまでサンドラに絶対の信頼と実績をゆだねてきた上官は診断結果を見てひどく驚いていたが、それで合点がいったのか、深く頷いてから辞表を受け取った。
なんとかしてやろうだなんて思わないところが、とても人間らしいと思う。
この結果は遅かれ早かれ仲間たちの間にも広まっていくことだろう。誹謗中傷が飛び出すことは想定済みだ。
だからこそ、早く次の居場所を探さなければならなかった。
「サンドラ!今日は飲みにいかねぇのか?」
「やめとけよ、アイツ、この間の診断結果で黒だったらしいぜ…」
黒、その表現が果たして正しいのか分からない。
何も知らなかった同僚たちが、少しずつその真実を知って顔を曇らせる。
次第に距離を置かれていく寂しさももちろんあったが、何より次の就職場所を探すのに一番手こずった。
能力者ということを隠して過ごすには限界がある。とはいっても、それをおおっぴらにして何の反感も買わないわけがないのだから、厄介なものだ。
そこでサンドラが目を付けたのが、能力者団体だった。
各地にいくつか点在しているのだが、その中でも最も力を持ち社会にまで浸透しているのが【創士社】だ。
早速履歴書を送り、反応を待った。
数日後すぐに返答が来て、面接、能力テスト…と事細やかな審査を受けた後、やっと来た合格通知にホッと胸を撫で下ろした。
力はもともと強い方であったが、即戦力が増えるのは嬉しいことだと社長自らコメントが書かれており、これまでやってきた軍での自分の仕事が無駄ではなかったことが何より嬉しい。
向こうに行けばすぐにでも社宅をくれるという話であったが、そこは始めからアパートやマンションを探そうと決めていた。
休日まで仕事気分になるのが嫌なのだ。
とはいえ、確実に見つかるという保証はない。それでも発展した地域では能力者に寛大な人間もいくらかいると聞くし、当てにする価値はある。
さぁ、いざ出て行こうと荷物をまとめていた瞬間だ。
サンドラは脳裏に浮かんだ人物に、長い間会っていなかったことに気が付いて手を止めた。
彼と離れることになることは、辛い。
けれども彼もまた反能力者であれば、会わない方が幸せだろう。
かれこれ数十分たっぷり悩んだサンドラは、時計を見て店の閉店時間をとうに過ぎていることに気が付くと、慌てて靴を履いて外に出た。
あの店は軍人御用達であるから、寮の門限に合わせて閉店する。
それでは商売にならないだろうと思うのだが、この辺にわざわざ夜中に酒を飲みに来る人も少ない。
マスターと話をするために、わざわざ昼間やってくるご老人などは多いのだが。
サンドラが店の前に着いた頃には周りの灯りはほとんど消えてなくなっていたが、幸い店の灯りはまだついていた。
「サンドラさん…?」
店から出てきた彼の姿に、言うべき言葉さえまだ整えてはいなかったと思い出し、少しだけ焦る。
心配かけたな、なんて、自意識過剰にもほどがあるのだが、他に言えることもない。
「ベル」
はじめてそう呼んだ時、彼はとても嬉しそうに返事をしてくれた。
彼の気持ちを知らないわけではなかったのに、卑怯なことをしたと後悔もしている。
それでも、言わなければならないことはまだたくさんあって、それを彼が受け入れようと拒もうと、自分のすることは変わらない。
まるで逃げ道を作っているようで、常に罪悪感のもと一言一言言葉を紡いでいたように思う。
彼の叱咤も、激励も、全てが胸に響くとても貴重な言葉で、どうしてこんなに突き刺さる言葉をいくつも言えるのかと、絶望と共に賞賛した。
言葉とは裏腹に苦しそうに空を見上げる瞳が、強いはずの彼を弱く見せる。
抱きしめる腕が彼を壊してしまうのではないかと恐々包み込んではいたが、そんな気兼ねをするくらいなら今頃こんな夜空の下引き止めてなどいない。
互いの夢も希望も、平行線上をただ真っすぐ走るだけだ。
決して交わることはないだろうと思うから、こうして後腐れなく告白なんて出来てしまうんだ。
それを小さく震えて受け止めた彼の瞳は、いつから自分を見ていただろう。
残酷なほどに互いを必要とした。運命の女神が引き離すがままに身を委ねることなんて、愚かしいとはわかっていても出来なかった。
きっと死んでも彼を待ち続けるのだ。
きっと自分が死んだところで、彼は進むのをやめないのだから。
いったいどちらが追いかける側なのか、とっくに鬼は決まっているのに、そのことを彼はまだ知らない。
「時間をとらせて悪かったな」
パッと離したファベルシェの身体はどこかおぼつかないように見えて、サンドラはもう一度手を差し伸べてしまうところだった。
なんと未練がましいのか。
門限など気にする必要がなくなったはずのサンドラがそそくさと後ろを向いたのは、彼に後ろ髪引かれるのが辛いからに他ならない。
ポケットの中で握り締めた掌が、女神を打ち砕く小さな音がした。

あまり関わりのなかった事務作業、紙束を大量に積み上げて、いつまで経っても慣れない小奇麗な通路をひたすら真っすぐに歩く。
てっきり早々に戦闘要員にされるのかと思っていたから、意外なことはもちろんだが、体が動かせないことが甚だ不満だ。
いや、正確には体はいつだって動かせる。
軍事施設にいた頃よりもしっかりとした体を作れたのは、入社後すぐに体調チェックや基礎体力の指導が入り、自分のコンディションや必要に応じてバランスよく鍛えることが出来たからだ。
それに整った設備を使い放題なのだから、資料整理の合間にでも2年続ければそれなりの身体になる。
「ガーシャさん、例の資料を持ってきました」
サンドラは自分より随分背の低い少女にそう敬語を使っていることが滑稽に思えたが、そのカリスマ性を慕っている。
入社直後、話に聞いていた敏腕社長が本当に少女の容姿をしていたことで、サンドラの緊張は吹き飛んだ。
喋り方こそ厳格で品性のあるものだったけれども、やはりどこか危うげな見た目に、守ってやらねばなるまいと勝手に決意して今日までを過ごしていた。
小さい身体がすっぽりと収まってしまうような大きな椅子に座って、ガーシャは資料を一枚一枚丁寧に、それでいて迅速に確認していく。
サンドラが飴色の机の端に持ってきた資料を積み上げると、わざわざ顔を上げて礼を述べた。
「ありがとう。ところでジーニー・サンドラ、創士社にはもう慣れたか?」
「そうですね…まぁ、慣れたといえば慣れましたが」
歯切れの悪い返答は、自分の力を十分に用いてくれない彼女への小さな不満。
それを見てとったガーシャは、まるで本物の少女のような愛らしい笑みを浮かべて首を傾げる。
「やはり前線が恋しいか」
それはサンドラの意思を半ば大げさに汲みとったものだった。
体は鈍っているし、思い切り動きたいのは確かだ。けれども生死に関わるギャンブルのような駆け引きがしたいわけじゃない。
それでも、自分と対等に戦ってくれるような強い相手を、ずっと求めていたように思うのだ。
しかしガーシャは、そんなサンドラの我が侭なこだわりを知って尚、紙とペンを手渡した。
その意味を、そろそろ悟るべきだ。
「戦いは戦闘がすべてではない。紙面の上でも、それは密かに激しさを増しているのだよ。お前の力は申し分ない。ただ、もう少し駆け引きに長けてもいいと思ってな。少し資料まとめに協力してもらった次第だ。どうだ?出来そうか」
ガーシャの言葉を受けたサンドラは、これまで彼女が命じてきたすべてのことに意味があったのだと気が付くと、自分の未熟さを大いに恥じた。
「意図をくみ取れず申し訳なかった。ガーシャさんがそこまで一社員のことを気にかけてくださるとは…」
下げた頭に、クスクスと鈴のような笑い声が降ってくる。
これは何か企んでいる笑みだと、サンドラは本能的に感じて視線を上げた。
案の定、したり顔のガーシャがそこにはいる。
「誰にでもすることじゃない。お前には、いずれ支社の所長になってもらおうと思ってな」
「な、お、俺ですか!?」
「まだ創士社に来て日は浅い…が、同僚からは随分と頼りにされているそうじゃないか。慕われるということは、天性の特権だぞ」
社長直々に気を使われ、褒めてもらえば、どうしてその申し出を断ることができるだろうか。
もちろんそうでなくとも断わる理由などないのだが、サンドラは思ってもみなかった大出世に動揺しながらも背筋を伸ばす。
「こ、光栄です!」
「これからは思う存分戦うといい。資料と見つめ合うばかりでは、やはり気も晴れぬだろう」
サンドラは部屋から出ると、先程のガーシャの言葉をじっくりと思い返し、弛みそうになる口元をギュッと結んだ。
今が気の引き締め時だ。それでも、嬉しいことには他ならない。
心なしか大きくなった歩幅で通路を闊歩する。その足でジムへと向かい、日課である体作りを余念なくこなした。
そうして毎日をそわそわと過ごすうち、つにその日はやってきたのだ。
ガーシャに渡された地図を頼りに、【サンドラ第二創士社】と名のついた事務所を探す。
例の如くファーストネームを避けてもらったのは、未だコンプレックスにとらわれている自分の弱さの象徴でもあるが、それ以上に今は、喜びの方が大きい。
ガーシャの一大プロジェクトに、大きく関与させてもらっている。
そのことだけでも十分だというのに、部下の人数も多くもらったし、港町特有の客層を狙った護衛や討伐の任務を幅広く請け負うことになっている。
仕事に不足はない。やる気も十分だ。
そうして辿り着いた建物は、とても大きくて存在感がある。
室内はまだ殺風景だが、トレーニングルーム用の大きな鏡がある部屋や、プロジェクターを配備した会議室まである。
事務所の近くには社宅や寮があり、至れり尽くせりだ。
サンドラはこの近くのマンションに住もうと不動産屋を尋ねていたが、そこには既にガーシャの手が回っていた。
要するに、事務所からそう遠くはない能力者に寛大な管理人のいるマンションを、既に一部屋キープしてあったのだ。
そういった抜かりのないところが尊敬に値すると共に、少し怖くもある。
サンドラにとっては迷い悩むこともまた楽しみの一つなのだが、彼女は自分の計画が遅れることを決して許しはしない。
妥協することと融通を利かせることは違うのだ。
「あー…簡単に決まっちまったな…」
契約を済ませると、サンドラは愛車を第一創士社に置いてきてしまったことを後悔した。
今回は無駄のない経路をたどって、夜は列車の中で寝ながら帰るつもりだったのだが、こんなに早くことが済んでしまってはそれも退屈だ。
せっかくだから周辺を怪しまれない程度に散策しようと、ポケットに手を突っ込んで歩く。
リゾート地が近くにあるせいなのか、金のありそうな住宅がそこかしこに建てられている。
スペースを贅沢に使った大きな庭や犬、それらを少し遠慮がちに見ながら、けれども昼間は人があまりいないのか、静かな散歩を続ける。
と、サンドラは懐かしい外観の建物を見つけて歩を止めた。
それは古風な赤レンガを模した外装だったが、まだ出来て新しいようで、苔や蔦一つ見当たらない。
腰ほどの高さがあるブラックボードにはランチメニューと共にカクテルの名前がいくつかあって、それが夜は本格的なバーになることを示していた。
こういったバーを見かけると、数年前までよく通ったあの店を思い出す。
もしかしたら今日は、車で来なくて正解だったかもしれない。せっかくだからここで一杯飲んでいこう、なんて。
そんな気まぐれで入った店に、運命が手ぐすねを引いていた。
「いらっしゃ……!」
長くなったクリーム色の髪に、紺色の瞳。
変わらぬフィンチ型の眼鏡が、やけに似合うマスターの姿。
グラスを拭いていた手がピタリと止まって、その端整な表情が驚きの色を映すのを、サンドラは夢を見ているような気で眺めていた。
「ベル…?」
「サンドラさん…どうしてここに」
互いを唖然として見つめている二人を、他の客たちはチラチラと見ている。
皆が食べているのは小洒落たランチプレートやオムライスで、昼間はカフェとして経営しているようだった。
けれども彼は、カクテルを作りたいのだ。口が軽くなった客と、少し豪快な談笑を交わしたいのだ。
そのことを知っているのは、この場でサンドラだけだ。
「久しぶりだな」
座るのはもちろん、約束のカウンター席で。
「いつの間に店を出したんだ」
「つい、数か月前のことです。バーテン仲間のつてで、良い場所を教えていただいて」
嬉しそうなファベルシェに、少しだけ胸が痛んだ。
「…なんで俺に連絡しなかったんだ」
まず最初に知らせてほしいなんてワガママは言わない。
けれどもせめて、もっと早くに連絡が出来ただろう。互いに何でもない事を知らせ合うような気にはなれなかったが、重要なことくらい、教えてほしかった。
彼にとってはもう、自分は昔の客なのだろうか。
そんな事を考えていたらなんだかムカムカしてきて、それは怒りのためではなくやるせなさのためだと知っていても、やっぱり辛かった。
それにも関わらず、ファベルシェは愛おしげな笑みを浮かべている。
「すみません。あなたには、私の納得したものしか提供したくなかったもので。まだ時期尚早かと」
「そういうところがお前の嫌なとこだな」
「そうですか?いじらしいと思いますせん?」
「自分で言うか」
あまりにも今まで通りの、いや、少しだけ砕けた会話になったかもしれない。
それだけ、サンドラもファベルシェも自分が成長したことを感じていた。
誰かの元で強く賢くなることを望んでいても、天上のあるうちは限界がある。一人で飛び立てるようになってはじめて、自分の意思で宿り場を見つけるのだ。
「…サンドラ、私の気持ち、まだ変わってませんからね」
「な!?そういうことは後で言え!」
他の客の目を気にしながら、けれども古いレコードで流れているジャズにかき消されたファベルシェの言葉は、誰にも聞かれていないようだった。
「〝後で〟ですか」
「もういい…お前と言い合っても負けが目に見えている」
「おや、もっと饒舌になってくださっても良いんですよ?話は、お互い山ほどあるでしょう」
そうだ、言いたいことはたくさんある。
でも、いざ本人を前にして言えることなんて、そう無いことに気が付いてしまった。
ファベルシェは他の客も相手にしつつ、ボーっと座っているだけのサンドラに対して幾度か気がかりな視線を向ける。
客が二組出て行った頃、ファベルシェは店の奥の席でコーヒーを飲みながらレポートを仕上げている学生の元へおかわりのコーヒーを注いで戻ってきた。
一人で店を担っているにしては忙しいが、ファベルシェにとってはそれくらいの方が清々するのかもしれない。
「いつまでそうしている気です?」
呆れ半分のファベルシェが目の前に肘をつくまで、サンドラは本気で考えることを忘れていた。
ハッとして周りを見渡し、昼間の客がいなくなっていることに気が付くと、やっと我に返って頭を掻く。
「ご注文は?」
ファベルシェの声は、急かす台詞に比べて穏やかだ。
彼の作るカクテルの一杯目、それはもうずっと前から決めていた。
「じゃあ…ジントニックで」
「ふふ、かしこまりました」
いつもと同じ笑みが、けれども確かに喜んでいることが分かる。
彼の味を、彼の店で飲む。
そのことがとても貴重で大切なことであると、他の人が聞けばおそらく軽んじられることだろう。
けれどもそのことが二人にとって大きな意味を持つことは、それこそ本人たちしか知らない事実だ。
ファベルシェの味と共に、きっと彼の性格や人生までも、これから深く知っていくことになるのだから。
サンドラはグラスに注がれる炭酸の音を耳を澄ませて聞きながら、まずは何から話そうか、頬杖をついて考えていた。
そんな彼らの店。
導かれるべくして導かれたサンドラは、運命のもとに必然の種明かしを必要とはしない。
けれども、誰にともなくそっと教えておこうか。
その店の名は「prunelle_gris〝プリュネル・グリ〟」灰色の瞳を持つ、彼、ただ一人のためにある店。


―後日、ガーシャ第一創士社正門前にて―

「サンドラ、これからとある研究所を摘発しに向かう
  少々気にかかる男でな…厄介な創歌を持っているから、気を引き締めて同行してくれ」





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