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京都散策---その3(大原草生 寂光院)

2007-09-27 | お出かけ
「三千院」を出て、車で数分のところに「寂光院」があります。後ろは山に囲まれ、谷の奥にひっそりと佇んでいます。
このお寺も有名ですので、詳しくは「寂光院 ホームページ」を見てください。
かなり狭い道ですので車で行くには安全運転でお願いします。近くに車を停めて数分歩くと、入口が見えてきます。
寂光院の草創について、明確なことはわかっていないようですが、寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うため開創したとされ、太子の乳母玉照姫(恵善尼)が初代住職です。
寂光院は『平家物語』に登場する建礼門院隠棲の地として知られています。

建礼門院徳子(1155-1213)は平清盛の娘、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母です。寿永4年(1185年)、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も壇ノ浦で安徳天皇とともに入水しましたが源氏方に助けられ、京都に連れ戻されたのち、侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生を送りました。寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地でした。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた建礼門院をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186年)のことで、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段に出てきます。平家物語の冒頭に出てくる「諸行無常・・・」の言葉どおり乱世を生き抜いた建礼門院の心情を思うと心が痛みます。

本堂は淀殿(淀君)の命で片桐且元が慶長年間(1596-1615)再興したものでしたが、平成12年(2000年)5月9日の不審火で焼失してしまいました。本尊の地蔵菩薩立像(重文)も焼損し、堂内にあった建礼門院の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼けてしまいました。本堂は平成17年(2005年)6月再建されました。

本堂手前右側にある大きな南蛮鉄の雪見灯篭は太閤豊臣秀吉の寄進で桃山城にあったものを移したと伝えられています。脇には百日紅(サルスベリ)の白い花が満開で、雨の庭園に彩を添えています。



本堂前西側の庭園は、平家物語当時のままで、心字池、千年姫小松、苔むした石、汀の桜などが見られます。この姫小松は、平家物語灌頂巻の大原御幸の様子を描いている場面に登場する松として伝わるもので建礼門院が、後白河法皇と対面するところに登場する。樹齢千年の銘木も、平成12年火災により痛みが激しくなり、平成16年夏に枯死しました。

写真左端の池は「心字池」、その右手に「千年姫小松」、その奥には「鐘楼」



建礼門院に宮中より仕えた阿波内侍は、近くの野山に山菜取りなどに出かけたそうです。そのときの装束が「大原女」のモデルとされています。
建礼門院は本堂右手裏山にある、大原西陵に埋葬されています。


祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

『平家物語』冒頭部分より

今回訪れた「三十三間堂」「延暦寺」「三千院」「寂光院」はすべて天台宗の寺院です。仏教も各宗派に分かれて現在に至っていますが京都の寺院の多さと規模は群を抜いています。

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