岐阜工業高校同窓会

同窓会の活動、活躍などを記載します。多くの方のコメントは頂きたく思います。

第15回関東支部総会と懇親会のご案内

2016-10-16 21:04:11 | 関東支部
わが同窓生の皆々様にはお変わりなくご健勝にてご活躍のことと存じます。

 さて、関東在住同窓生の拠点として活動しております「関東支部」の本年度総会並びに懇親会を下記にて開催させていただきたくご案内申し上げます。

 今年も会場は毎回好評を得ています池袋の“天空の庭”に設営いたしました。
この地上220mの会場にて、都心のビル群や遠くの山並みを眺めながら楽しく会食し懐かしい旧友との再会や新しい人脈交友を深めましょう。
 内容は
  ①幹事による支部活動の現況報告と計画発表
  ②母校校長からの母校の近況を直接拝聴し
  ③同窓会本部や関西支部代表の活きた情報交換
  ④全員の現況報告スピーチを主なテーマとする会員相互の親睦会です。
締めの全員校歌大合唱は『岐阜工の絆』を強固にし、あなたに若さを甦えらせます。

 どうか、軽装でお気軽にお出かけください。
 是非お一人でも多くご参加を頂きますよう重ねてご案内申し上げます。

                     記

★日時:11月12日(土)11時30分~14時00分(受付:11時00分)
★場所:『天空の庭・星のなる木』(和食・新懐石)
       東京都豊島区東池袋3-1 「サンシャイン60」ビル59階
                       Tel:03-5485-3939
          アクセス:JR池袋駅(東口35番出口)徒歩8分
                メトロ有楽町線 東池袋駅徒歩3分

第7回ウオーキング会 2016/秋

2016-10-01 23:17:50 | 関東支部
関東在住の同窓生のみなさん!毎回参加者が増えています。
 あなたも健康増進と交友親睦をめざして是非ご参加下さい。
 家族や知人の同伴も大歓迎です。秋空の下、楽しく歩きましょう!

            
・目 的 地: レインボーブリッジ及びお台場周辺 (東京湾の歩き渡り)
・月   日: 2016年10月27日(木曜日)10時00分(集合)
・集合場所: ゆりかもめ新橋駅改札口付近(小雨決行)
         (註:参加は事前に下記幹事まで)
            前日まで:事務局  (080-1213-5133)
            当日連絡先:安江幹事:(080-7032-9010)
       

・コース: ① ゆりかもめ新橋駅(コンビニ有り)<ゆりかもめ乗車>→
       ②芝浦ふ頭駅(乗車券:250円)→ 
       ③レインボーブリッジ(徒歩)
       ④豊洲公園(昼食)→
       ⑤豊洲新市場(11月7日開場)→
       ⑥月島→
       ⑦勝どき→
       ⑧波除神社→
       ⑨築地場外市場→ 
       ⑩築地市場駅・築地駅・東銀座駅に近接(解散・16時頃)

豊 洲 公 園
月 島
勝 ど き




・歩 程: 約10km (市場内散策距離除く)
・費 用: 参加料無料。交通費、飲食代等は、個人負担
・昼 食: コンビニ等でおにぎり、弁当など購入、途中の豊洲公園で採る。
・服 装: 歩きやすい服装でご参加下さい

「第44回岐工高OB美術展」案内

2016-09-14 21:25:46 | OB美術展
「第44回岐工高OB美術展」
OB美術会 事務局長 西口昭雄

◇ 会期 平成28年10月12日(水)から16日(日)
             10:00~18:00(最終日は17:00まで)、14日(金)20:00まで
◇ 会場 岐阜県美術館 一般展示室 [B]  入場無料
              〒500-8368 岐阜市宇佐4-1-22 TEL 058(271)1313

 本展覧会へは毎年、学校長、同窓会長始め多くの先輩や後輩の皆様、また1500余の一般の方々にご高覧頂き、盛大に開催出来ている事に近藤央会長はじめ会員一同、感謝申し上げます。

 本会は母校の美術部員で元会長の山田實氏(現顧問、S29 色染科)他のメンバー達で「マイカ展(やろまいか)」として始められてから今回で44回を迎えます。また会場は岐阜市内の画廊や笠松町の公民館等を経て昭和61年に現在の岐阜県美術館に移り早、三十年になります。
 このように長く続くユニークで個性的かつレベルも高い展覧会は県内では稀有なものとして評価をいただいております。是非とも友人、知人の皆様にお声をかけて頂き、ご来場下さるよう節にお願いいたします。なお、学校関係者であれば会場で会員へお声をおかけ下さるよう重ねてお願いいたします。

 今回の参加出品数は現在、集約中ですが例年並み(約100点)を予想しております。また会員の募集も随時行っておりますので絵画、写真、陶芸、工芸、彫塑、書道を趣味とされているOB,OGの方々はご一緒に参加をお願いします。
入会申し込みは事務局の西口まで連絡をお願いします。

〒487-0035 春日井市藤山台5-1-1スカイマンションB203 Tel:0568-91-7340

「甲子園原頭」あれから数十年Ⅳ

2016-08-31 22:21:24 | OB野球
卒業してから
卒業後も社会人野球を20数年続け、私の生活から野球は切り離すことのできないものとなりました。現在は母校やJR東海の野球を観戦し楽しんでいます。
 私の野球人生の中で利き腕である右腕、右肩には怪我、故障をしないよう大変気を遣いました。祖母が編んでくれた肩当てを年中着けていました。冷房のない当時の暑い日でも寝る時は長袖シャツに肩当て、右肩だけは布団をかける習慣になっていました。また、寝るのは上向きに、横向きの時は左肩を下にして決して右肩を下にすることはありませんでした。
 通学には電車を利用していましたが、当時の電車にはもちろん冷房装置はなく、夏には窓を開けて風を入れていました。その風が当たらないように反対側の座席に座ったり、また経っている時にはつま先でバランスを取るよう心掛けました。
 また、事業中でもボールを握締め握力を強めるよう努力するとともに、指先(人差し指、中指)の力を付けるため机の角に押しつけたりもしました。重い荷物はできるだけ左上で持つよう気を使いました。爪にも気を使いバッグの中には必ず爪切りを入れていました。
 このように心掛けた結果、お陰で野球人生一度も肩、腕を故障したことはありませんでした。

 私の好きな言葉  禅語 ・・・ 照 顧 脚 下   "足下に用心せよ"
            足下に気をつけて粗忽なふるまいの無いようにせよ
   足下がきちんとしていなければ何事もできない。要するに基礎基本(土台)が大切

 私の高校野球は伊藤先生、木村先生はじめ愛称で呼び合える良き仲間に恵まれ良き思い出を残してくれました。
 1つの焦点に絞りきれず混濁の抽文となりました。まだまだ数多くの思いではありますが、なにせ半世紀以上も前のこと、記憶違いもあるかと思います。ご容赦願います。
おわりに
週日久しぶりに甲子園出場者の集まりを催し、昔話に懐かしさを感じました。席上、私たちが甲子園に出場できた大きな要因は何だったか、諸々話し合った結果「チームワークが良かったことだ」と結論づけました。チームワークと言っても同僚同士が“なあなあ”と馴れ合ったり、傷のなめ合いをしているような、ただ単に仲がいい仲良しチームではありません。試合中でも凡プレイや手抜きプレイをした時、ダッグアウトの中で「しっかりせい」とか「何やってんだ」と選手仲間で叱咤することもありました。しかし、お互い個人の弱点を捕い合い全員でチームの力を100%発揮できるよう協力して戦った結果だと思います。
 私の考える「チームワーク」とは、普段は仲が良くても、こと野球となるとお互いライバル意識を燃やし切磋琢磨する。そんな緊張感のある組織、即ち、技術の連係プレー集団の構成員である一人一人が相互に技術と技術を繋ぎ合わせること。全員が自分に与えられた職務を確実にこなし、協力してチームの力を100%発揮することにより勝つ、これが「チームワーク」だと思います。
 チームを強くするには、一人一人が同じ目標に向かって心を合わせ努力する。この努力はチーム全体で行わなければならない。
                     "努力が成功へ導く"    "練習は裏切らない"
 最後になりましたが、この文章が甲子園原頭、その後半世紀以上を生き抜いてきた証となり、人生の一齣であった当時を思い浮かべ、残りの人生を謳歌して行く糧となれば幸いです。さらに生前中に母校甲子園2度目の出場を願っております。



「甲子園原頭」あれから数十年Ⅲ

2016-08-31 00:05:43 | OB野球
熱闘(投)甲子園


私たちは大変な幸運にも恵まれました。学校、父兄、先輩、応援してくださったファンの方、登録から外れた3名の後押し、控え選手の声援、応援団の応援、あの甲高い声を張り上げて熱血指導してくださった先生(伊藤監督)、日焼けした肌黒い顔に温和な瞳で見守ってくださった先生(木村部長)。あの当時の姿は一つとして懐かしく脳裏にはっきりと焼き付いています。このような力が勝ち取った勝利です。

 出場が決まってからは、笠松町内をオープンカーならぬオート三輪車による優勝挨拶回り、図書館での生徒会主催の壮行会、笠松小学校での町主催の壮行会、ユニフォームは新調(ネームがGIKOKOからGIFUKOGYOに変わった)して頂けるは、新しいボールは使用できる、今までと環境が変わってしまったことに戸惑いを感じました。

 出発に際して岐阜駅頭での壮行会は多くの人たちが声援してくだされ、期待の大きさに感激しました。列車に乗り込む選手のバックの中には米、米持参(当時米は配給制度)での西宮の宿舎入り、今思えば考えられないような旅立ちでした。
 夢の甲子園での初練習、球場の大きさとスタンドの高さに圧倒され、夢心地の練習でした。マウンドに立った感覚は心地よく、ホームベースが近くに感じられやれるという感触をつかみました。
 開会式での入場行進では観衆の多さに圧倒され、紅潮し、感激で胸が一杯、雲上を歩くような感触で上気しっぱなしでした。

 試合は初日の最終、函館西高戦でした。入場行進で上がった分、試合では冷静に投げられました。


<試合詳細> ・・・ 当時の新聞等より独断と偏見でHP管理者がお伝えします。
  ☆ 大会初日第3試合 8月13日午後4時25分開始
      函館西 000 000 000 000
      岐工高 000 000 000 000  延長12回日没引き分け 当時ナイター設備はありません

 函館西高の太田投手は内角へのシュート、低めの速球、外角へのカーブを巧みに使い分ける一方、 
 岐工高の上田投手は速球とカーブで一歩も譲らず、投手戦となりました。
 函館西は全員短打法を採用して上田投手の球を攻略しようとしたが及ばず、岐工高も荒れ気味の太田投手を崩すことが出来ず投手戦をさらに鮮明にしたと言える。
 9回表右中間の大飛球を岐工高右翼手が好捕すれば、10回裏遊超安打性の飛球を函館西遊撃手は背走して捕る美技もありました。
 10回表函館西は1アウト走者1,2塁の好機に左前に快打しながらも左翼手の冷静な判断で2塁走者を封殺でき、この危機を切り抜けた。
      

  ☆ 大会2日目第1試合 8月14日午前8時58分開始
      函館西 102 110 200 =7
      岐工高 010 000 000 =1

 延長12回を投げきっての2日目の連投に疲労を隠すことは出来ず、球威が落ちていることはいかし方がなかった。岐工高の上田投手は函館西の太田投手より体力的に恵まれず、その差が現れた試合となってしまった。これまでの力投の上田投手を責めるのは酷であろう。

 函館西はこの日も短打法で、打者もある程度、球筋に慣れて、1回表左翼2塁打で先制した。
 岐工高は2回裏適打で同点とし、1死満塁の好機にスクイズを失敗し、2塁3塁走者がともに刺され、併殺を喫したのが惜しかった。ここで逆転していれば函館西の太田投手を攻略できたかも知れなかった。
 函館西は3回表に上田投手の乱れと敵失で2点を加え、4回表、5回表にも好打で追加点を挙げた。


  
これより手記に戻ります。
 引き分け試合、その夜は、頭の中は試合の経過が駆け巡り興奮して眠れませんでした
 再試合、敗れはしましたが全力を出し切り戦いましたので悔いは残らず、一生の思い出になりました。

 応援団(団長・坂井田照義君)、学校当局、父兄、先輩、ファンの方たちには大変な声援で頑張って頂きました。甲子園球場は応援の少ない函館西高の応援に、周りはものすごい声援、一方、本校の応援団は少人数ながら必死の声援、本当に勇気づけられました。今でもあの声援は耳に残っています。
 また、試合が延長12回日没引き分けドロンゲームにて翌日再試合ということで、応援団員の宿泊には大変ご苦労なさったとのこと、後日坂井田応援団長に聞きました。その声援があったからこそ頑張れたと感謝しております。

 試合終了後、敗者チームは甲子園の土を持ち帰るのが恒例でしたが、私は持ち帰りませんでした。甲子園出場がこの1回だけで終わってほしくない、これから歴史が創られる、いつでも来られる、そのようなチームになって欲しい願いがあったからです。

 昭和27年はTV放送はまだなく、ラジオ放送のみでした。この甲子園で初めて背番号を着けることになり(予選はなし)、背番号が重く感じられました。また、甲子園球場にはナイター設備もなく、戦時中供出されていた大鉄傘がやっと取りつけられたところでした。このような環境の中で野球が出来たことを誇りに思っております。

「甲子園原頭」あれから数十年 Ⅱ

2016-08-10 20:44:08 | OB野球
地方戦から甲子園まで

 
昭和25年4月に入学し、野球部に入部した1年生は50数名だったと記憶しています。私自身いきなりユニフォームを頂き春季大会から出場させて頂きました。

・昭和25年夏の大会は、県大会で優勝しながら、三岐大会の決勝戦で無念の敗退、甲子園行きの切符を手にすることが出来ませんでした。

・昭和26年春季大会で優勝し、東海大会に出場、夏の大会も期待されていましたが、準々決勝で敗退し、涙を飲むことになりました。この年夏の大会前、当時早稲田大学3年生の荒川博氏(王選手の育ての親)をコーチに迎え、猛練習を積んだのですが期待に応えることが出来ませんでした。
 私たち2年生は来年に期すべく練習に励みました。新チームになって秋季大会の岐阜地区予選が始まり、地区予選では全勝したのですが、ある事情で県大会への出場を停止されました。この大会は翌年の選抜大会(甲子園)を目指す大切な大会でした。残念で涙を流し、来年夏の大会に期することを誓いました。

・昭和27年春季大会連覇、
準々決勝 関 高 000 100 011 00 2  再試合 関 高 000 000 200 2
 ・・・・・  岐工高 020 000 000 00 2       岐工高 003 030 00× 6

:準決勝  岐工高 400 001 220 9    決 勝 岐工高 202 210 100 8
  ・・・・・  大垣北 020 010 000 3         岐阜高 000 300 011 5


 東海大会に出場し、準決勝で、春の選抜大会(甲子園)優勝の静岡商高と対戦し、9回に逆転され敗れはしましたが、大きな自信となりました。
準決勝  静岡商 000 000 015 6
 ・・・・・  岐工高 100 000 000 1

夏の大会前、大会出場選手登録14名の発表があり3年生で3名が外されました。おそらく本人達は目の前が真っ暗になったと思います。私達もなんと慰めていいものか言葉になりませんでした。この3名とは3年間ともに汗を流し練習してきた仲間です。中でも澤田英樹君(中学から一緒に野球をやっていた)、(伊藤弘君とは土木科の同じクラスの仲間)、彼等の力があってこそ今日があると感謝の念でいっぱいでした。これに報いるには、優勝して甲子園に出場する以外にないと心に誓ったのです。
 岐阜県予選では、高山高、大垣工高、長良高を連破し、決勝戦では多治見工高に敗れはしましたが、私自身そんなにショックではありませんでした。

  2回戦 岐工高 001 212 000 6     3回戦 岐工高 101 111 111 8
 ・・・    高 山  000 000 000 0          大垣工  000 000 000 0
  準決勝 長  良  000 000 000 0     決 勝 多治見工000 322 000 7
 ・・・・   岐工高  000 000 40×  4          岐工高 000 100 300 4

当時の私は胃腸が弱く、特に夏場になると食欲が無くなり下痢をよくする体質でした。三岐大会前の八幡神社での合宿にも参加せず、家から通い体調を整えさせて頂きました。肩には自信があり連投に耐えるだけのものはあったと思っていました。

 三岐大会には岐阜工業高校と多治見工高が出場、本校は山田商工高、決勝戦で上野高に勝利し、本大会初出場を決めました。
三岐大会初戦 岐工高 000 000 000 1 1  三岐大会決勝 岐工高 010 001 013 6
 ・・・・      山田商 000 000 000 0 0             上  野 010 100 000 2
 <決勝戦概要>
 岐工高上田投手の内外角低めに決まる速球は好調で、一方上野の梅沢投手も負けることなく5回までシーソーゲームだった。6回表巧みなバントで1点を勝ち越し、8回9回に爆発した打線と適失で4点をあげ勝利となった。
 昭和27年岐阜工業高校野球部は創部7年目にして、第34回全国高校野球選手権大会に三岐代表として甲子園に出場を果たすことが出来ました。

「甲子園原顕」あれから数十年

2016-07-31 17:55:43 | OB野球
はじめに
 野球部OB会 会長 上田 忠彦(s28土木)

私たちは戦前、戦中、戦後の混乱期、貧しい時代から豊かな時代、バブル崩壊後低迷している今日まで長らく生きてきました。
 戦後の混乱期貧しい時代に始めた野球、グラブもスパイクも購入がままならず、布製のグラブ、布製のボールで遊び、後に買ってもらったグラブ、スパイクは自分で修理し、ボールは糸の切れた物を家に持ち帰り縫ってくる。バットは折れても釘を打ちテープを巻いて使う。他にも修理再生した物を使うなど、現在では考えられない境遇でした。
 しかし野球に対する情熱、貧欲な吸収力と旺盛心が、伊藤監督の熱血指導の下、大きく花開き、昭和27年岐阜工業高校野球部創設7年目の甲子園出場となりました。

 私たちには 甲子園出場 という大きな財産があります。また故に重荷になったこともあるかと思います。 しかし、野球部創設(昭和21年)以来今日に至るまで甲子園経験者は私たち以外無く、大変貴重な存在であると自負しております。 この存在の中で、語れなかった貴重な体験、人生経験を同窓生諸氏に伝え、願わくば一日も早く2度目の甲子園出場を祈願したいと思います。
 


野球との出会い

昭和20年7月9日岐阜空襲で家は全焼、8月15日終戦となりました。私が国民学校5年生の時でした。 8月の終わり疎開先から復帰した時、疎開荷物の中に2個のキャッチャーミットが入っていました。 これが私と野球の出会いでした。それは父が昔から大の野球フォンで本当に野球が好きで買ったものでした。

 それから私と父との毎日の練習が始まったのです。 毎日朝早く起き、父相手のピッチング、練習は大変厳しく、構えたミットから外れれば、捕ってもらえず、拾いに走り又投げるの繰り返しでした。 これが礎となり、後の私になったと思います。
 私たちの時代の高校進学は小学区制で、私の場合は加納高校より受験できませんでした。私自身も勉学はもちろん、野球もやりたい、少しでも強い学校へ行きたい、県内どこからでも受験できるのは工業高校だけ、必然的に岐阜工業高校を選びました。


第20回OBサッカーフェスティバルのご案内

2016-07-15 22:10:25 | OBサッカー
実行委員会 大会会長 脇田明治

初夏の候、益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
 さて、見出しのことについて現在準備を進めております。その内容をご連絡申し上げます。

                記

 1、大会期日
  第1日:平成28年7月30日(土)8:30開会式
     第2日:    7月31日(日)  
 2、大会会場
  第1日:江川グランド・小綱グランド・羽島堤外グランド
     第2日:江川グランド・フットボールセンター・小綱グランド
 3、組み合わせ等    検討中
 4、役員構成(案)
     大会新役員(案)
      ・名誉会長     淺野正之・河合浩・山田正美
      ・大会長      脇田明治
      ・顧問       岐工高サッカー部監督
      ・大会実行委員長  名和義久
      ・事務局長     谷藤健二
      ・競技部長     紀藤 太
      ・審判部長     葛西正雄
      ・会計       小林誠志
      ・実行委員会     岐工高サッカー部OB

追 昨年度も第20回で大会を行いましたが、これまで雨天で中止したことがありましたので、実際は1回少ないということで調整しましたからご了承ください。

2016年 高校野球岐阜大会 大会展望

2016-07-01 22:53:25 | OB野球
会報委員会HP担当 松井弘光(s46電子)

 硬式で母校はDブロックに属し初戦は 9日(土)14:00 大垣北公園野球場にて大垣南との対戦です。
それに勝利すると16日(土)14:00 KYBスタジアムにて可児工と対戦します。
どの報道を見ても岐工高の名前はほとんど見当たりません。残念です。
  
秋季と春季に県大会4強の県岐阜商、大垣日大、美濃加茂、中京、市岐阜商が優勝争いの軸で、Dブロックには中京がシート校となっています。岐工高はDブロックのもう一つのシート校大垣商が当面の壁となるのでしょうか。

唯一、野球情報最前線というホームページに
 『その他にも、秋春ベスト8入りで地力の高い関商工と長良、秋ベスト8で大垣日大と好勝負を演じた岐阜各務野、総合力のある岐阜総合学園と岐阜工も見逃せない実力を持っています。』という文章を見つけることが出来ました。
 昨年はシート校だった母校ですが、昨年の優勝校岐阜城北と同様、陰の存在として、その実力は認められていると思います。

軟式で母校はAゾーンに属し初戦は 24日(土)10:00 安八町総合運動公園野球場にて多治見工との対戦です。
それに勝利すると翌25日(日)10:00 八町総合運動公園野球場にてブロックシート校の中京と対戦します。大会展望の報道はほとんどありませんが、中京に勝利しなければ東海大会に出場できません。

 同窓生の皆さん、ぜひ応援を、また球場にもお出かけください。試合結果はTwitterにてお知らせします

野球部OB会 上田会長への取材 「甲子園の思い出」

2016-06-16 23:01:10 | OB野球
会報委員会HP担当 松井弘光(s46電子)


 OB会の話題をお願いしましたら、6月4日のOB野球部試合とその試合を観戦に来られる、野球部創設以来、唯一の甲子園経験者である上田会長にお引き合わせ頂けました。長良川球場で大垣北高校OB会との試合を見ながらの取材でした。、今年82歳になられる甲子園球児ですが、お元気で話し好きな一面に、試合を忘れて聞き入ってしまいました。

 写真から紹介します。(敬称 略)
 左から 松井(取材者) 、上田(OB会長) 、 安田(OB会員)です。

 率直にその思い出をお聞きしたら「半信半疑の気持ちで甲子園に行き、最初にグランドの芝生を踏んだ感触と入場行進が最高の思い出です。」と語って頂けました。

 照明灯の無かった当時は、日没引き分けとなり、翌日の再試合で、敗北でした。「初めての経験で落ち着かず、興奮して眠れませでした。正常な状態ではなく、力を出し切れなかった部分もあったと思います。」と付け加えて頂けました。

 「選手たちはニチボーの社員宿泊所に泊まりましたが応援団は帰るに帰れず、結局最寄りの神社に野宿したそうです。」
 昭和27年でしたので、もちろん新幹線はなく、SL運行の時代でした。

 地方大会優勝パレードはオープンカーでなく、オート三輪車で、壮行会は笠松公民館で開催して頂いたそうです。
 背番号はなく、甲子園で初めて着用したそうです。
 
 当時の思い出をまとめた -『甲子園原頭』あれから半世紀- という資料をお借りできました。機会あるたびにその内容を紹介したいと思います。
 
 今年も暑い夏がやってきます。上田会長は夏が来るたびに後輩の甲子園出場を夢見られています。その夢実現のため、私たち同窓生も母校硬式野球部地方大会での応援に全力を尽くしたいと思います。