はじめに
野球部OB会 会長 上田 忠彦(s28土木)
私たちは戦前、戦中、戦後の混乱期、貧しい時代から豊かな時代、バブル崩壊後低迷している今日まで長らく生きてきました。
戦後の混乱期貧しい時代に始めた野球、グラブもスパイクも購入がままならず、布製のグラブ、布製のボールで遊び、後に買ってもらったグラブ、スパイクは自分で修理し、ボールは糸の切れた物を家に持ち帰り縫ってくる。バットは折れても釘を打ちテープを巻いて使う。他にも修理再生した物を使うなど、現在では考えられない境遇でした。
しかし野球に対する情熱、貧欲な吸収力と旺盛心が、伊藤監督の熱血指導の下、大きく花開き、昭和27年岐阜工業高校野球部創設7年目の甲子園出場となりました。
私たちには 甲子園出場 という大きな財産があります。また故に重荷になったこともあるかと思います。 しかし、野球部創設(昭和21年)以来今日に至るまで甲子園経験者は私たち以外無く、大変貴重な存在であると自負しております。 この存在の中で、語れなかった貴重な体験、人生経験を同窓生諸氏に伝え、願わくば一日も早く2度目の甲子園出場を祈願したいと思います。
野球との出会い
昭和20年7月9日岐阜空襲で家は全焼、8月15日終戦となりました。私が国民学校5年生の時でした。 8月の終わり疎開先から復帰した時、疎開荷物の中に2個のキャッチャーミットが入っていました。 これが私と野球の出会いでした。それは父が昔から大の野球フォンで本当に野球が好きで買ったものでした。
それから私と父との毎日の練習が始まったのです。 毎日朝早く起き、父相手のピッチング、練習は大変厳しく、構えたミットから外れれば、捕ってもらえず、拾いに走り又投げるの繰り返しでした。 これが礎となり、後の私になったと思います。
私たちの時代の高校進学は小学区制で、私の場合は加納高校より受験できませんでした。私自身も勉学はもちろん、野球もやりたい、少しでも強い学校へ行きたい、県内どこからでも受験できるのは工業高校だけ、必然的に岐阜工業高校を選びました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/64/f091e34ae27ac3df220e15e4268edece.jpg)
私たちは戦前、戦中、戦後の混乱期、貧しい時代から豊かな時代、バブル崩壊後低迷している今日まで長らく生きてきました。
戦後の混乱期貧しい時代に始めた野球、グラブもスパイクも購入がままならず、布製のグラブ、布製のボールで遊び、後に買ってもらったグラブ、スパイクは自分で修理し、ボールは糸の切れた物を家に持ち帰り縫ってくる。バットは折れても釘を打ちテープを巻いて使う。他にも修理再生した物を使うなど、現在では考えられない境遇でした。
しかし野球に対する情熱、貧欲な吸収力と旺盛心が、伊藤監督の熱血指導の下、大きく花開き、昭和27年岐阜工業高校野球部創設7年目の甲子園出場となりました。
私たちには 甲子園出場 という大きな財産があります。また故に重荷になったこともあるかと思います。 しかし、野球部創設(昭和21年)以来今日に至るまで甲子園経験者は私たち以外無く、大変貴重な存在であると自負しております。 この存在の中で、語れなかった貴重な体験、人生経験を同窓生諸氏に伝え、願わくば一日も早く2度目の甲子園出場を祈願したいと思います。
野球との出会い
昭和20年7月9日岐阜空襲で家は全焼、8月15日終戦となりました。私が国民学校5年生の時でした。 8月の終わり疎開先から復帰した時、疎開荷物の中に2個のキャッチャーミットが入っていました。 これが私と野球の出会いでした。それは父が昔から大の野球フォンで本当に野球が好きで買ったものでした。
それから私と父との毎日の練習が始まったのです。 毎日朝早く起き、父相手のピッチング、練習は大変厳しく、構えたミットから外れれば、捕ってもらえず、拾いに走り又投げるの繰り返しでした。 これが礎となり、後の私になったと思います。
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