むしゃむしゃ

なんでも奥歯でゆっくりむしゃむしゃ

誰がネコに鈴をつけるか?

2007-05-28 | 世の中 むしゃむしゃ
ねずみたちは毎日のようにネコの存在をおびえています。

そこであるねずみが言いました。

「誰かがネコの首に鈴をつければいいんだっ!」

さぁ、誰がネコに鈴をつけるか?

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【社会的ジレンマ】

という興味深い言葉に最近出会いました。

人々が自分の利益や都合だけを優先して行動すると
結果的に社会にとっては望ましくない状態が生まれてしまう
というジレンマのことを示す言葉です。

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先ほどのねずみとネコの例では
各ねずみがネコに近づくリスクを考慮し、自分の保身を優先した結果
ネコに鈴をつけることができず、ねずみ社会で恐怖はなくなりません。
これはイソップ童話の話で、結局みんなネコに食べられてしまいました。

童話って恐ろしいですね。


でも恐ろしいことはねずみ社会だけで起こっているのではなく
この人間社会にもたくさんのジレンマが存在しています。

容易に想像できる例が「交通渋滞」だと思います。

///

人間たちは毎日のように交通渋滞に悩んでいます。

そこである人間が言いました。

「みんなが公共機関を使えばいいんだっ!」

さぁ、誰が公共機関を使うのか?

///

【個々人の利益】
マイカーを使えば快適な空間で、時間的にも空間的にも
融通のきく移動ができる

【望ましい社会状態】
みんながバスや電車などの公共機関を使うことで
道路に対する車の量が減り渋滞が解消される。
さらに公共機関運営が潤うことで
充実した公共機関を整備することや料金値下げなどの好循環も期待できる。

【現実の社会状態】
多くの人が快適な空間や融通のきく移動を求めマイカーを使い
その積み重ねによって起こる交通渋滞に、腹を立てている。

///

この社会的ジレンマは
大胆にもひっそりとも人間社会に潜んでいる気がします。


大胆には「環境問題」

そうすることが明らかに環境にはやさしいとわかっていても
そのめんどくささや自分かわいさに実行できない。


ひっそりとは「割り勘」

高いものをたくさんオーダーしたほうが得だという考えで個々人が注文し
結果的に支払額が高くなり、食べ過ぎてお腹も苦しくなってしまった。

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この社会的ジレンマは
非常に奥の深い研究分野だと感じましたので
ここではあまりつっこんでは書きません。



いや、頭の都合で書けません。



でも社会的ジレンマは
環境問題のような大きな問題を解くための
大きなヒントになりうるような気がします。

同時に
世の中で起こっている様々な問題に
この社会的ジレンマが潜んでいる気がします。

「いじめ」も「受験戦争」も「就職活動」も。

じっくり考えてみる価値のある
非常に興味深い身近な研究分野だと個人的には思っています。

格差社会

2007-05-25 | 世の中 むしゃむしゃ
格差社会という言葉を頻繁に耳にするようになってから
だいぶ時間が経ったように思います。

この問題がしっくりこない原因の一つに
課題の曖昧さが挙げられると思います。

自分がよく理解していないだけかもしれないけど。


というのは
いまだに「格差」という言葉が何を示しているのかがはっきりしません。

・所得の格差
・生活水準の格差
・学力・能力の格差
・教育機会あるいは就業機会の格差

まず「格差」の的確な切り口を見つけることが
問題解決への糸口であるように思います。

///

そしてもう一つ。

よくメディアで騒がれている内容に
貧困社会の問題があります。

これは所得及び生活水準の格差が焦点になっていると考えられます。

個人的に思うのは
この問題を議論するときは
「格差」ということ言葉は不適切であるように思います。

なぜなら
貧困で問題になるのは「差」ではなく「最低水準」だからです。

///

結論から言えば
所得も生活水準も
最低水準さえ保障されていれば
それ以上の水準で起こる「差」は
問題にならない気がします。

それすらも格差として問題にするのなら
公平性なく平等を主張する社会主義国家にすればいいと思います。

しかし競争無くして発展のないことは歴史が証明しています。


話が反れましたが
要するに問題となっている「格差」は

【最低水準との格差】

の広がりではないかと個人的には思います。

///

「就学援助を受けている家庭で、子供を塾通いさせているのはおかしい」
ある評論家がこのように発言しました。

この発言に対して
「就学受給者が塾通いするのは身分不相応だというのかっ!」
と反論している人がいました。

個人的にはこの反論はあまりにも的外れだと思います。
塾に行かせるために就学援助をするわけではないと思うからです。
受けるべき人が他にいるのではないでしょうか。

そこに身分の話は一切含まれていません。


まぁこのやりとりは置いといて
ここでは塾に行く必要性があることが問題とします。

金銭的な援助を受けている家庭であっても
学校だけではなく塾に行かなければいけない現状

これは義務教育が最低基準を満たしていないこと
を意味するのではないでしょうか。

義務教育は本来教育の最低基準を満たしているべきであって

【最低水準と現実の格差】

であると言えます。

///

詳しいことはよくわからないけど
所得・生活水準・教育機会・就労機会のいずれを見ても

【最低水準の設定と現実の格差】

が生じてきているように思います。

この格差に焦点を当てて考えなければ
競争社会の否定や不健全な平等主義が生まれるような気がします。

体罰賛成派?反対派?

2007-05-22 | 働くみなさまへ むしゃむしゃ
「教育現場に置いて、体罰は許されるか」


そんな議論がテレビで取り上げられていました。


現役教師によると、今教育現場が乱れているといいます。

最近始まったことではないかもしれないけど

授業中にラジカセで音楽をかけてる生徒とか
教師に注意されたら教育委員会に訴えると脅す生徒や
中には、イスや箒で突然殴りかかって先生をからかう生徒もいるらしい

そんな現実の中
自分に自信をなくし職に失望し退職してしまう教師も増えているという。


一方で
教師という立場を利用して

生徒達と共に、一生徒へのいじめに参加をしたり
体罰がエスカレートして取り返しの付かないことを引き起こす
盗撮や猥褻行為の報道も後を絶たない。

もちろん一部の生徒と教師の例が取り上げられていて
そうではない多数がいることは言うまでもありませんが。

///

そんな教育現場の混乱の中
体罰の可否が議題として上がっている。

「体罰は教育だ」「体罰は教育ではない」というような議論だったけど
どうも自分としては教育現場の乱れは
「教師の威厳」の欠如に起因しているように思える。

前に挙げた例からも
生徒が教師をバカにしている様子が感じられるし
教師自身の言動が生徒からの信用・尊敬を失っているように思える。
さらに、子供の前で教師を非難する親も一役買っているかも知れない。

なにが最初かはわからないけど。

///

だから体罰が議論に上がってきたのも
「教師の威厳」を取り戻す一手段としてなのかなって思いました。


体罰反対派は
「教師の威厳」を力(体罰)で取り戻すことは許されない
教育を軽んじている、と主張しているように感じた。

一方、体罰賛成派は
「教師の威厳」を保つためにはもはや精神論だけでは困難である。
実際教師サイドの被害が激増している、と主張しているように感じた。

///

その両意見を踏まえると
自分は体罰以外の方法で「教師の威厳」を取り戻すのがいいのかなと思います。


例えば大人社会と同じような「法」のルールを教育社会に作り
その行使権限を教師に与えればいいと思うのです。

極端かも知れないけど
「授業の邪魔をしたら家に帰らせる権限」を教師が持てばいいと思います。
「教師に殴りかかったら退学させる権限」を教師が持てばいいと思います。

それによって子供が学校に行かなくなり教育がなされない
というような問題も考えられるけど
それは家庭の教育問題と考えていいと思います。


ただ教師に過失がある場合もあると思います。
体罰にしろ法のルールにしろ、その権限を持つからには
それなりの判断力や教養が必要になります。
体罰の現状からして、教師に強い権限を安易に与えることは危険なので
その監視責任は学校側あるいは外部機関が担います。


教育機関コンサルタントなんてやってみたら
これから儲かるかもしれません。


もう完全に思いつきで書いてて、そろそろ苦しいのでやめましょう。

力に屈することよりも、ルールを守ることを教えたほうが
以後の社会生活でも役に立つんじゃないのかなって程度の話です。

///

体罰の可否はよくわかりません。

ただ小学校ですら校内暴力事件が年間2,000件以上起こる時代です。

誰かなんとかしてください。



ニンテンドーDSを必死にやってるくらいがいいのかも。

小さなこと

2007-05-17 | 日常 むしゃむしゃ
滅多に入ってないのに
小額支払いのときに限って
それだけ財布に入っているものって

なぁ~んだ?








そうです、1万円札です。

とんちと見栄を効かせたなぞなぞでした。

///

ところで

お釣りの渡し方って2種類あると思います。
ちなみに、お札と硬貨が混ざっているお釣りの話です。

1つ目は
お札の上に硬貨を乗せて、1度で全部渡す方法。

2つ目は
まず大きいほう(お札)を先に渡し
その後小さいほう(硬貨)を渡し、2度に分けて渡す方法。
↑なんかお釣りを大小でいいますよね?


この2種類の渡し方が気になりました。


よくレジでのお釣りのやり取りで
お客さんが硬貨を落として「失礼しました!」って
店員さんがいってる光景を目にしませんか?


よく考えると
大抵の財布は硬貨とお札を入れる場所は別々になっています。
それなのにお札と硬貨を一度に渡すと
お客さんが硬貨をお札の上で滑らせるという
不安定かつ高度なモーションをとることになります。

そこに丸まったレシートまで挟まれたらどうでしょう。

それは硬貨も滑り落ちますよね。


そう考えると
よりお客さんのことを考えられているのは
お札と硬貨を別々に渡す方法じゃないかと思うんです。

///

小さなことですが
この小さなことになんとなくではなく
気付けることは大事だと思います。


他にもいろいろありますが
最近文章が長いので、今回はこの辺で。

受け止める感性

2007-05-17 | 日常 むしゃむしゃ
電車での出来事です。

杖をついているおじいさんに席を譲ったら
「必要ない」と視線をもらうことなく断られました。

おじいさんにも事情があるだろうし
過去に同じようなやりとりを見たことのあるありがちな状況だから
特に不快感は持たなかったけど
なんともいえない気分を味わったのも事実。

自分が降りてからおじいさんは席に座りました。
ちょっと正確な事情はよくつかめないままだけど

とりあえず安心しました。

///

そんなこんなで感じたのは
何かを「受け止める感性」ってものすごく大切だなぁということ。


自分でいうのもなんだけど
さっきの例で言えば「親切を受け止める感性」

もしかしたら
その親切は受け取る側には
必要ない、あるいは重たくて
受け入れられなかったのかもしれない。

でもやっぱり
たとえ「行為」を受け入れられなくても
「親切」には反応できる感性が欲しいですね。

自分に向けられた「親切」を拒絶したら
その親切は行き場を無くし、彷徨うような気がします。

とはいうものの
「親切」を素直に敏感に受け止めるのは非常に難しく思います。
与えることと同じくらい難しいですね。


こんな話を聞いた事があります。

路上生活者が当たり前のようにお金を受け取り
お金を差し出したほうが感謝の念を示す。

これは信仰心も関係していると思うけど
親切を受け止めることの高尚さが感じられる話です。
ときには「親切をさせてもらう」という姿勢も大切なのかも知れません。

///

もう一つ「受け止める感性」について思いつきました。

それは「笑いを受け止める感性」


よく笑う人、身近にいると思います。

正直あんまり面白くない事にも
よく反応して拾ってくれる人、笑い上戸ですね。


どこの国の話か忘れたけど
よく笑うことを大切にする文化があると聞きました。

人肌脱いでる発言者に対してのフォローの気持ちもあるし
つまらないと冷めているよりも、笑ってほうが自分も楽しい
という考えのようです。

周りの笑いにつられて笑っちゃった経験ありますよね。
そういう意味で「笑いを受け止める感性」のある人は
空間全体を盛り上げると思います。

上司との関係に悩んでる方は
「おやじギャグ」にも笑える感性を身に付ければまちがいないですね。

///

おじいさんのお陰で
いろいろ考えることができました。


そうなんです、暇なんです。

あと少しだけ。

ネズミ君

2007-05-17 | mono むしゃむしゃ
お気に入りのBook Markです☆

先端にネズミ君がいて
本に挟むとネズミ君が本に上に乗っかります。

使用することで価値が付加されるmonoには
製作者の遊び心と愛情を感じます。


このネズミ君を飼うことで
読みかけの本を読み始めるとき
毎回のように感性が揺さぶられ
有意義な読書ができます☆

技術×技術の弊害

2007-05-16 | 世の中 むしゃむしゃ
ここ数日のうちに
携帯電話で通話中の運転手
をたまたま何人か見かけました。

歩行者から運転席は
意外と見えてしまうものなんですね。



道路交通法で走行中の携帯電話等の使用による罰則が
以下のように定められています。


「自動車や原動機付自転車の運転者が走行中に
 携帯電話等を手で保持して通話したり
 メールの送受信等のために画像表示用装置を手で保持して注視した場合
 道路における交通の危険を生じさせなくても罰則の対象となる」

引用:http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kotu/doukou/doukou.htm


この法律で気になるのは「手で保持して」という表現。
これは「ハンズフリー」なら構わないという表現になります。


この法律には以前からずっと疑問を持っていました。

携帯電話の使用により事故を引き起こす可能性が増加するのは
感覚的にも事実としてもわかります。

ここで走行中に携帯電話を使用することにより
運転手に起こる状態を簡単に考えてみます。


1.片手がふさがることによる運転操作の安定性の低下
2.通話行為による注意力の散漫
3.メール送受信による注意力及び運転操作安定性の低下


まぁ他にもあるかもしれないけど主にはこの3つだと思います。

1の運転操作に関しては、ハンズフリーにすることで解消されると思います。
しかし事故の原因として運転操作を誤ることはあまり聞かない気がします。
運転操作が上手い人にとっては片手運転に大きな負担は無いし
運転操作が下手な人は走行中に電話しようとは思いません。


そう考えると
2の通話行為による注意力の散漫が
最も事故に直結する問題であるかのように思います。

通話をするのは音楽を聴くのと違って
「未知の情報を受信・処理し、それに対して的確な情報を創成・発信する」
という非常に高度な思考が必要で集中力のいる作業だと思います。
(音楽もじっくり聴けば非常に高度だと思います)

さらに電話を通しての会話は
声の抑揚・明瞭さが欠けることや相手の状態がわからないことなどから
車内での会話とはまた違う特別な集中力が必要になると思います。


この最も危険だと考えられる(勝手に考えてますけど)原因は
ハンズフリーでは解消できない。
そこに以前から疑問を抱いていたのですが、どうでしょうか。


そうそう
3のメール送受信はハンズフリーとか関係ありませんね。
緊急事態がメールで送られてくることはほとんど無いと思うし
運転中に視覚と片手と集中力を奪われるのは致命的です。

好きな人からの連絡であっても少しだけ我慢してください。



車×携帯電話という高度な技術の組み合わせに
人間の機能が追いつけない現状を感じます。

この世に"事実"はない

2007-05-14 | 日常 むしゃむしゃ
ご存知の方も多いと思いますが
「ABC理論」という興味深い論理療法に出会ったので
紹介したいと思います。


A:Activating Event 【出来事】
B:Belief  【固定観念や信念】
C:Consequence 【結果として表れた感情や対応】


一般的に、何かが起こったときに
【A:出来事】と【C:結果】に因果関係があるかのように思いがちです。

しかし実際には
【C:結果】を引き起こしているのは【A:出来事】ではなく
【B:固定観念】であるというのがこの理論の軸だそうです。




例えば
動物園に2頭のパンダ、ぱんた君とぱんこちゃんがいるとします。


ぱんた君は
「僕の白黒は、黒が多くてかっこ悪い」
という【B:固定観念】を持っています。

一方ぱんこちゃんは
「私の白黒は、黒が多くてお上品」
という【B:固定観念】を持っています。


この2頭に以下の【A:出来事】が起こりました。

【A:出来事】来園者が2頭を見て笑った


その出来事を受けて2頭は以下のような【C:結果】になりました。


ぱんた君は
「僕の黒を見て、馬鹿にしてるなっ!」

ぱんこちゃんは
「私の黒を見て、幸せな気持ちになっているのね☆」




はい、自己満足な例えでした。


要は「何事も捉え方次第」っていう簡単な言葉に集約されます。
感覚的にもわかるし、実践している人も多いと思います。

僕はこの理論の価値は「理論にしたこと」にあると思います。

「何事も捉え方次第」っていうことがわかっていても
ひとたび当事者になると
強い気持ちや前向きな考え方を忘れてしまう経験は
誰にでもあるかと思います。

そのときに客観的な姿勢と冷静な頭で
【A:出来事】【B:固定観念】【C:結果】の構造を頭に浮かべれば
多少は前向きな気持ちを取り戻せるのではないでしょうか。


こう考えるとこの理論は
「非常に基礎的かつ大切」という意味も含めて
「ABC」という名前が付いたようにも思えます。




そうそう、タイトルと本文はあまり関係ありませんでしたね。


「この世に"事実"はない、あるのは"解釈"だけ」

ってどこかで聞いた言葉を思い出したから付けてみました。

「公共空間」というグレーゾーン

2007-05-14 | 世の中 むしゃむしゃ
公園とか道路とか電車内(電車会社のもの?)とか。
いろんな公共空間があります。


「公共空間」の捉え方が非常に難しくふと思えました。


イメージで話をして恐縮ですが
以前までの公共に対するイメージは
「みんなのもの=自分だけのものじゃない」だったのですが
最近のイメージは
「みんなのもの=自分のものでもある」ってなっている気がします。


例えば身近なものは
公園に家(テント)を建てて住むとか
道路に座り込んだりゴミを捨てるとか
電車内の携帯電話による通話(これは普通の会話との判断が微妙ですが)とか。


さらに社会問題でいえば
騒音とか悪臭も「公共空間」が関与していると思います。

例えば
これでもかとゴミを敷地内に集めた結果、悪臭を放つゴミ屋敷とか
懐かしいけど布団たたきながら「しばくぞっ!」って騒音を起こす人とか。


勉強したことない分野だから正直わからないけど
「公共」ってそもそもどういう定義なんだろう。

Wikipediaで調べてみたけど、勉強不足ではっきりわかりません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%85%B1

ただ

「自分だけのものじゃない」と「自分のものでもある」


一見大差ないように思える文字郡ですが
そこに含まれる感情や思考は大きく異なるような気がしてなりません。

小さな変化であればいいですが。

Boss Management

2007-05-13 | 働くみなさまへ むしゃむしゃ
Boss Management

読んで字のごとく「上司をマネジメントすること」です。

簡単に解釈すれば
「仕事において上司の価値を最大化する行為」
といえると思います。

自分の中ではこの言葉と思想(能力)はなかなか斬新なものでした。

上司が部下をマネジメントする関係が、一般的な関係だと
この固い頭は認識していましたが、そうでもないみたいです。

こういうビジネスにおける興味深い斬新な発想は
大抵アメリカからの輸入品でこのボス・マネジメントも例外ではありません。


一般的に上司には「権限」もあり「経験」もあり「人脈」もあります。

言い方があまりよろしくないのを承知の上で言うと
その上司の能力を部下が自分の成長なり仕事の達成に有効利用する能力が
ボス・マネジメントの基本的な能力です。


一番基本的で身近に感じられるのは「上司と良い関係を築く」能力ではないでしょうか。

上司と良い関係が築ければ、その「権限」で自分の仕事の幅が広がります。
上司と良い関係が築ければ、その「経験」から有用で親身なアドバイスをもらえます。
上司と良い関係が築ければ、その「人脈」から自分の人脈も広がります。

ってまぁかなり簡略化して書いてるから納得いかない表現もあるだろうけど、ご勘弁。

上司といい関係を作るとなると
即座に思いつくのはコミュニケーションをとることだと思います。
仮にそのコミュニケーション方法を「会話をすること」だとしましょう。

その際の極端な話になってしまいますが

「上司が部下をマネジメントするものだ」という考えが根底にあれば
その会話のきっかけは上司が作るものだと考えるでしょう。
安易に上司に話しかけるのはエネルギーがいるものです。

一方
「部下が上司をマネジメントすることもある」という考えがあれば
その会話のきっかけを自分が作ってもいいと考えるでしょう。
上司だって価値観や世代の違う部下に話しかけるのは重労働かもしれません。
なにより上司との会話は自分にとって価値あるものだと認識しています。


要するに
自分から能動的に働きかけることで上司の「価値」を引き出す行動
これをとるための根底となる考え方がボス・マネジメントだと思います。


身分不相応の大きな仕事に挑戦するために、上司を仕事に巻き込む
顧客への謝罪をスムーズにすませるために、謝罪時に上司に同伴してもらう


こんなこともボス・マネジメントの一例に挙げられると思います。


このボス・マネジメントの視点が部下視点だから
どうしても上司を軽視するような表現が多くなりますが、違います。

部下が「宝の持ち腐れ」に陥らないための方法です。

また部下の成果や部下の成長は上司の成果の範疇です。
それを上司に依存するだけではなく、自分からも積極的におこなうのだから
結果的に上司に助けられ上司を助けるといういい関係が生まれると思います。


簡略化し過ぎて上手く表現できなかったかもしれないけど
自分としては「ボス・マネジメント」は非常に面白い発想だと思います。
そして今の時代の上司と部下の関係にすごくマッチしているとも思います。


明日からボスをマネジメントしちゃってください
すでにボスの方はされちゃってください